プリンセス・ロンド 運命の兄王と妹姫

月森あいら

文字の大きさ
6 / 19

◆◇第五章 動乱の夜明け◇◆

しおりを挟む
 その日の王宮は、いつになく慌ただしかった。いつもの時間に家庭教師は現れず、クレアは少し苛立ちさえ込めながら侍女を相手に独りごちた。
「どういうことかしら、先生の方が遅れるなんて」
 クレアが寝坊して遅れたことはあっても、教師の方が遅れることなどなかった。クレアはちらりと時計を見上げる。授業の時間は十五分を経過していた。そしてこの朝一番の時間、いつもなら稼働したばかりの王宮の中は動き始めたばかりの空気で呼吸を始めたといったところなのに、今日の空気は少し違った。まるで淀んでいるような、昨日からの澱が抜けきっていない、そんな空気だった。
「ねぇ、何かあったの?」
 クレアが聞いても侍女は首をかしげてかぶりを振るだけだった。
「いいわ。私、何ごとか見てきます」
 侍女の制止をも振り切って、クレアは自室の扉を勢いよく開けた。と、そこにいた人影にぶつかりそうになる。
「あら、ごめんなさい」
 それは、セラフィスだった。
「まぁ、お兄様、どうなさったの?」
 兄の久々の訪問を喜ぶクレアの声が、緩やかにしぼんでゆく。
「お兄様、何かあったの?」
 その表情は硬く、眉間に皺さえ刻んで薄い唇が強張っている。クレアは言いしれぬ不安が忍び寄るのを感じた。
「お兄様……?」
「クレア、ちょうどよかった。一緒においで」
 その声すら固く、クレアはそれにただ事ならぬ色を感じて後ずさった。
「いったい、何が……?」
「陛下がお倒れになられた」
 それに息を飲んだのはクレアだけではなかった。そこに控える侍女も、同じように驚きの声をようやく噛み殺した。
「お父様が? なぜ……?」
「体の調子が悪くてはいらしたのだよ、もう、お年もお年だし、無理もないことではあるが……」
 セラフィスはクレアをせかした。クレアは、支度をする暇もなく兄の速足について歩きだす。
「ここしばらく、お加減がよくなかったと思えば、今朝早く、血を吐かれた。今、医師団が総出で治療にはあたっているが、意識が朦朧としてはっきりとは戻られない」
「そんな……」
 クレアは言いしれぬ不安に胸を揺るがした。
「なぜ、教えてくれなかったの? お父様のお加減が悪いなんて、私、ちっとも……」
 ふたりの姿を見て、すれ違う者が頭を下げる。いつもはそれにいちいち応えて微笑みかけるセラフィスだったが、今日の彼はそんなことには頓着せず、ただクレアをせかして足早に歩く。
「お前に言うべきことではない、とおっしゃってな」
 クレアの部屋がある棟を抜け、王宮の中心に建つ棟の中が国王の寝所だった。その門を鎧を着た兵士が守っていたが、セラフィスとクレアを見て慌ててそれを開いた。
「こちらだ」
 階段をいくつも上り、クレアが少し息切れを感じたとき、目の前には大きな扉がそびえ立っていた。
「静かに入るんだよ」
 セラフィスに注意され、クレアはうなずいて息を飲んだ。
 中は薄暗く、厚い紅のカーテンが引かれていた。大きな寝台があり、カーテンと同じ色のカバーがかけられていた。その回りには幾人かの男が小さな声で話しあっており、セラフィスの姿を見つけると慌てて頭を下げた。その中には魔道師らしき姿もある。
「どうだ」
 セラフィスは短く言った。その内のひとりはその言葉に小さくかぶりを振った。
「打つべき手はすべて打ちました。後は、陛下のご気力次第だと……」
 きゅっと眉をしかめ、セラフィスはクレアを促した。
「行って、お父様のお顔を見てきてごらん」
 その後にセラフィスが付け加えた本当に小さな声に、クレアは小さな震えを止めることができなかった。
「もう、お話もできないかも知れないから」
 薄い色の絨毯を踏んで、クレアは体に力を込めて震えを抑えながら恐る恐る寝台の方へ近寄った。
「お父、様……?」
 クレアは小さく声をかけた。そこに横たわっているのは土の色の顔をし、顔を彩る髭さえも今ではその顔のやつれ具合を強調するものでしかない老人だった。
「……」
 言葉を失って、クレアはただ手を胸の前で組んだ。
 彼女にとって、父は親しい存在ではなかった。それどころか、顔を合わせたことすら稀で、宮殿に来てからは最初の面会の後は神殿での祈りの折りにその姿を見たと言う程度のものだった。父の瞳が自分をとらえたことはほとんどなく、声をかわしたことさえ記憶に稀だった。
 しかし、目の前で今にも死に行かんとしているその姿を見れば、クレアの心は自然揺らいだ。心の交流はなくても、血を分けた親子としての深い部分でのつながりがいやおうなしに暴れだす。クレアは、その傍らに立ちただ小さく祈った。
「お父様、どうかお元気に……」
 その小さな声が届いたのか、父の目がゆっくりと開いた。死んでいるようなその体の中、瞳だけが見開かれ、それは驚くクレアの方へと向けられた。
「クレア、か……」
 その声はかすかで、しんと静まり返った部屋の中でさえ聞き取ることは難しかった。
「はい……」
 クレアは声を振り絞った。死の影が、彼女を揺さぶって立っていることも精いっぱいだった。
「お前は、よく……似ているよ」
 何かを懐かしむかの声で父はつぶやいた。なんのことか問い返す余裕もないまま、父はまた口を開いた。
「セラフィスを、ここへ」
 その言葉にセラフィスが音もなくクレアの横に立った。怖いほどに張りつめたその表情を、クレアは見たことがなかった。
「参っております」
 ふたりは視線を交わす。クレアは、その絡み合う視線に何も言わずとも伝わってくる緊張を知ってまた震えた。
「全権を、……お前に、譲り渡す」
 セラフィスが唇を噛んだ。息を吸って、そのまま小さくうなずくと体を翻してその場に膝を突いた。
「仰せのままに」
 顔は伏せられ、クレアに彼の表情はわからなかった。しかし、その肩がわずかに震えていることだけは見て取れた。
「頼んだ、ぞ……」
 それはかすれるようにして消え去り、ともすれば聞き逃してしまいそうだった。クレアはふたりを交互に見、そして次、視線を移したとき、父の瞳はもう閉じられていた。
「……、っ……」
 セラフィスが何か言いたげに唇を動かした。しかしそれは声にはならず、彼はただもう一度深く頭を下げ、そして立ち上がった。
「お兄様……」
 不安げに見つめるクレアの視線に微笑みが返っては来たが、それは強ばったようにぎこちないもので、クレアは心臓を直に捕まれるような衝撃を受けた。
「頼んだぞ、ぜひ、お元気になられるよう」
「かしこまりましてございます」
 医師と魔道師、そして国王のもっとも近い側近たちが一斉にセラフィスに向かって会釈をする。その頭の下げ方が、今までとは違ったふうであるのにクレアは気がついた。
「行こうか、クレア」
「……はい」
 クレアは胸の前で組んだ手があまりにも固く握られていて、指先が白く色を変えていることに気がついた。あわててそれを解くと、しびれが広がる。
 背後で重い扉が閉じ、もと来た階段を下り、門をくぐり、王の住む棟を出るまでセラフィスは一言も口をきかなかった。クレアもまた、自分のことを忘れているような速足に懸命について行きながら、やはり無言のまま胸を押さえていた。
 行き着いた場所は、セラフィスの執務室のある棟だった。ここに立ち入るのはそう頻繁なことではない。クレアはあたりを伺いながら兄について歩く。すれ違う者すべて、セラフィスの表情ですべてを悟ったとでも言うように神妙に会釈をした。
「お兄様……」
 セラフィスが執務室の扉を開けたとき、クレアはかすれるような声を振り絞った。そんな彼女を見、セラフィスは微笑んで手招きをした。
「おいで」
 クレアはうなずいてその中に立ち入る。ふたりを迎えたのはいかにも慌てて出てきたといったような、乱雑なままの部屋だった。
「あたりを片づける余裕などなくてね」
 セラフィスは勢いよく椅子に腰掛けた。そして深いため息が洩れる。クレアは、その前に立ち尽くし、そしてセラフィスの表情をじっと見た。
「お前まで、そんな顔をすることはない」
 セラフィスは笑った。その笑いには余裕がなく、かえって痛々しさをつのらせる。
「どういう、ことですの?」
 言葉に困ってクレアは聞いた。
「お父様は、何を……?」
 セラフィスは大きく息を吸い、そして吐いた。背もたれに預けた体を起こし、そしてクレアをじっと見つめる。
「陛下は、全権を私に託された。すなわち、現在マインラード王国の実質的総責任者は私だということになる」
 その言葉を噛みしめるようにセラフィスはつぶやいた。
「今や、私がマインラードを導く者だということだ」
 ふたりの間を流れた沈黙を、セラフィスのため息がかき破った。悲痛な色をしたそれは、また何度も吐き出された。
「覚悟はしていたが、こんな急とは……」
 独り言のように彼は言う。
「いずれ来ることはわかっていた。今までだって、陛下の体のお悪いときは私が決裁を下していたのだ。それが、すべて私に任されたというだけだ」
 クレアに語りかけるというよりも、自分に言い聞かせるようにセラフィスは続けた。
「何も、変わらない。特別なことは何もないと言うのに……」
 クレアは黙ってそれを聞いている。その声は青く沈み、いつものセラフィスのものではなかった。
「それでも、今までは陛下がいた。私が半分の責任を受け持つとしても、もう半分は陛下にあった。今では、すべてを私が背負わなくてはならない。民の生き死にも、隣国との関係も、すべてが私の手の中にある」
 セラフィスが、脇息に置いた手にクレアはそっと自らの手を重ねた。
「何が、不安でいらっしゃいますの?」
 そんなクレアを驚いたようにセラフィスは見つめる。
「お父様はお兄様にすべてを託された、それは、お兄様にならこなしていけるとご判断なさったからではありませんか?」
 セラフィスは妹の手を払うこともせず、ただ驚きの瞳を彼女に向ける。
「自信をお持ちになってください。私、お兄様にならできる、お兄様でなくてはできないと思っています」
 クレアは少し重ねた手に力を込めて、そして離した。
「不安に思われることなどありません。こうして、私も付いております」
 セラフィスは唇を噛んだ。そして手を伸ばすと、正面に立つクレアの体を抱きすくめた。
「私に、すべてが……背負えるだろうか」
 クレアは驚いて兄の体を受け止めた。その力にいささか戸惑いながら、しかしやがては微笑みを浮かべて彼の肩に背を伸ばし、長いその髪をなでた。
「すべてを背負われることなどありません」
 そのクレアの言葉はまたセラフィスを驚かせた。
「私がおります。私が、お兄様のお手伝いをしたいのです。ほんの少しでいいの、お兄様の背負うものを私に分けていただきたいのです」
「クレア……」
 噛みしめるようにセラフィスは言った。抱きしめられた体はしばらくそのままに、そしてやがて腕が解かれた。
「お前は、いつの間にそんなに大人になったのかな」
 今度のため息は、先ほどのもののように悲痛なものではなかった。クレアはそれにいささか安堵して、そして胸を張って言った。
「私も、いつまでも子供ではないですわ」
 セラフィスは微笑み、そしてそんなクレアをじっと見つめた。その色に、クレアはほんの少したじろぐ。その兄の瞳の色には覚えがあった。それを見たのは、幼い頃を過ごしたあの離宮ではなかったか。
「そうだね、私も大人になる、そして、お前も」
 セラフィスは立ち上がった。それをクレアは心強く見上げた。
「お兄様、私にもお手伝いさせてくださいね」
 にっこりと微笑むセラフィスに、クレアは自らの胸に手を当てて言った。
「私、お兄様のお役に立ちたいの。私にできることなら、なんでも」
「頼りにしているよ」
 クレアは兄の表情に安堵を覚え、そしてその後姿に従って部屋を出る。そこでは控えていた重臣たちが一斉に頭を垂れ、その中にはエクス・ヴィトの姿もあった。
「御前会議だ、振れを出せ」
「はっ」
 臣下たちは足取りも確かにその場を離れた。
「エクス・ヴィト」
 その中でも比較的年若い、魔道師の頭領にそっと声をかける。
「頼む、陛下のことを」
 彼はいつもの、不敵なまでの笑みを浮かべてセラフィスの肩を軽く叩いた。
「わかっています」
 セラフィスはエクス・ヴィトにつられるように微笑んだ。セラフィスの表情は変わっていた。それは、先ほど見せたものよりはいくぶん生き生きとしていて、それをクレアは何よりも嬉しく見た。
 しかし、国王の容体は芳しくはなかった。その回復の知らせは、いつになっても聞かれることはなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

追放された味噌カス第7王子の異種族たちと,のんびり辺境地開発

ハーフのクロエ
ファンタジー
 アテナ王国の末っ子の第7王子に産まれたルーファスは魔力が0で無能者と言われ、大陸の妖精族や亜人やモンスターの多い大陸から離れた無人島に追放される。だが前世は万能スキル持ちで魔王を倒し英雄と呼ばれていたのを隠し生まれ変わってスローライフを送る為に無能者を装っていたのだ。そんなルーファスはスローライフを送るつもりが、無人島には人間族以外の種族の独自に進化した先住民がおり、周りの人たちが勝手に動いて気が付けば豊かで平和な強国を起こしていく物語です。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました

桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。 言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。 しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。 ──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。 その一行が、彼の目に留まった。 「この文字を書いたのは、あなたですか?」 美しく、完璧で、どこか現実離れした男。 日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。 最初はただの好奇心だと思っていた。 けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。 彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。 毎日19時に更新予定です。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

断罪後のモブ令息、誰にも気づかれずに出奔する

まる
ファンタジー
断罪後のモブ令息が誰にも気づかれないよう出奔して幸せを探す話

冷遇妃マリアベルの監視報告書

Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。 第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。 そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。 王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。 (小説家になろう様にも投稿しています)

処理中です...