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第六話
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その報せは、ラティにとって青天の霹靂だった。
「姫巫女さまは、あと半年で十六歳におなりになります」
低い、重々しい声で神殿長が言った。神殿の控えの間、ラティは頭を垂れて神妙に聞き入る。
「十六歳は、アウェルヌス神との交信の年。その日のために身を清め、清廉な生活を送らねばなりません」
ラティは小さくうなずいた。その話は聞いていた。十六歳になれば、今までと違う生活が始まる。今まで以上に姫巫女としての修練は厳しくなるだろうし、勉強も神学に割合が多く置かれるようになるだろう。ラティの反応を見るように神殿長はしばらく言葉を切って、そして続けた。
「姫巫女には、明日から北の塔に移っていただきます。そこで来たる十六歳の日まで、身を清めた生活をなさいますように」
(北の塔――?)
ラティは大きく目を見開いた。胸の奥で、思わず叫ぶ。
(北の塔、ですって……?)
北の塔は大きな石造りの建物で、文字通り神殿の敷地の北にある。ラティも儀式のために何度か行ったことがあるが、真昼のさなかでも薄暗いのは窓がとても小さいからだ。上の方、明かり取りのために四角く切り取られているだけで、とても人が通れるような大きさではない。
(北の塔なんて、そんな……)
ラティは胸に手を置いた。ぎゅっと力を込め、見開いた目で神殿長を見た。
(そのような場所、アストライアさまが来られない……!)
その場によろけそうになって、懸命に体を支える。神殿長はラティの反応に驚いたような顔をしている。いったいどうしたのかというような表情だ。
「どうかなさいましたか、姫巫女」
「い、え……」
掠れた声で、ラティは言った。神殿長は少葉を切ったが、改めて話し始めた。
「北の塔は、もっとも神聖な場所。めでたく十六歳になられた暁には、北の塔でお暮らしになられるのですから」
そう言って、神殿長はうなずく。満足そうに微笑んだ。
「そのためにもさっそく、北の塔に移る準備をお進めください。浄めの日を、一日でも早く始めましょう」
(一日も早く、ですって……?)
ラティは固唾を呑んだ。十六歳になれば本格的に姫巫女としての生活が始まる。そのための準備があるということは聞いていた。しかしそれが北の塔に行くことであるとは、思ってもいなかった。
アストライアに会う前なら、彼女とこれほどに心を通わせる前なら。北の塔に行くことにも特に感慨を持たなかっただろう。
しかし、今となっては。これほどにアストライアとの逢瀬が心の支えになっている今では、北の塔に居住の場所を移すというのは、身を引き裂かれる思いだ。いくらアストライアが身軽でも、北の塔の窓から入ってくるわけにはいかないだろう。ラティが本格的に姫巫女になるとなれば、まわりの者も今までのようにアストライアの訪問を黙認してはくれないかもしれない。
(このまま、アストライアさまの……)
この先、アストライアに会えないかもしれない――このまま、二度と。
神殿長は去った。ラティはよろよろと立ち上がる。女官が心配そうに見やってくるが、ラティには何をも言う気力がない。
「ラティさま?」
返事をしようとしても、ラティの口はうまく動かない。ラティの脳裏はただひとつのことだけに占められている。
(そんな、北の塔なんて……)
部屋に戻る間中も、ラティの考えを支配していたのは、神殿長に聞かされたその話だ。
(アストライアさまが、来られない。来ていただけない)
それは、胸のつぶれそうな考えだった。アストライアに二度と会えないと考えるだけで、その場に倒れてしまいそうだ。
どうやって部屋に戻ってきたのか覚えていない。気づけばラティは卓の前の椅子に座っていて、唖然と宙を見つめていた。
いつも身の回りの世話をしてくれる女官が入ってきた。丁寧に頭を下げて、ラティに告げる。
「ラティさま、神殿長のご命令でまいりました。塔移りの準備をいたします」
「準備……もう?」
「一刻も早く準備を整え、北の塔へお移りになるようにとのお言葉でございます」
先ほどその話を聞いたばかりなのに、もう準備に着手しなくてはいけないとは。ラティは思わず椅子から立ち上がり、そんなラティを女官は驚いたように見た。
「ラティさま?」
「いいえ……」
準備とは言っても、ラティの持っているものはほとんどない。何枚かの着替えと髪を梳く道具、爪の手入れをする道具に――あのメダイ。
ラティは慌てた。準備の手伝いをすると言った女官は、ラティを不思議そうに見た。
「自分でやるから、いいわ!」
「ですけれど、ご自分でとおっしゃいましても……」
自分の身の回りのことを自分でするなど、姫巫女の身分にふさわしくない。そう言われることはわかっているが、ラティは首を左右に振った。
「いいから、手伝いがいるときは言うわ。今日はもう下がってちょうだい」
なおも不思議そうに、女官はラティを見やる。しかしラティが重ねて退室を促したことに、もうひとりの女官とともに丁寧に挨拶をして部屋を辞した。ラティは大きく息をついて、メダイの入っている抽斗を見る。
(アストライアさま……)
北の塔に行ってしまったら、もう会えないかもしれない。そのことを思うと背筋がぞくりと震え、ラティはまた固唾を呑んだ。
(行こう、わたしから)
震える胸を押さえながら、ラティは自分にだけ聞こえる声で言った。
(わたしから、アストライアさまに会いに行こう)
決断するラティの声は、震えていた。握りしめた拳が、震える。
(二度と抜け出さないと約束したけれど……でも、北の塔に行く前にアストライアさまにお目にかからなければ。一生後悔するわ)
神殿から王宮への道は、覚えている。四年前のあの日、王宮の武闘場を目指して歩いたこと。あのとき皆に心配をかけて、二度と神殿を勝手に出ないことを誓ったけれど。
(行って、アストライアさまにお目にかかるだけ。お目にかかったら、すぐに帰ってくるわ)
北の塔に行ってしまう前に、アストライアに会っておかなければ。そうしなければ、姫巫女の任さえちゃんと勤められないと思った。
(行こう。アストライアさまに会いに……)
ラティは、衣の裾を引き上げた。腰のところで結んで、身動きしやすいようにする。ふと視線を抽斗の方にやる。
歩いていって、メダイを取り出した。細い紐を見つけ出し、メダイのてっぺんの小さな輪に通した。首からかけて、衣服の中にしまう。白い布も引き出した。頭の上からかぶって、髪と瞳を隠すようにする。
そして窓を乗り越えた。こうするのは四年ぶりだったからうまくできるかどうかは自信がなかったけれど、どうにか転がり落ちずに窓の外に出ることができた。庭園を通る者がないかまわりを見て確認し、そしていつもアストライアがやってくる以前と同じ道を抜けて、神殿の敷地を出た。
道の様子は、四年前に通った記憶のままだった。昔歩いたとおりに土の道があり、その道をラティは急ぎ足で歩いていた。
王宮に行く。アストライアに会う。しかし王宮のどこに行けばアストライアに会えるのか、ラティは知らない。知らないままに懸命に歩くのもあのときと同じだと思った。それでも部屋にじっとはしていられなかった。
こうやって歩いて、そしてアストライアのもとに行く。アストライアに、ともすれば最後になるかもしれない面会をする。その思いだけで、ラティは歩いた。
すれ違う者から髪と目を隠しながらの道は長く、足がずきずきと痛み出す。しかし声をあげることも、うずくまることもできない。そうやって誰かに声をかけられて、この髪と瞳を見られては神殿の姫巫女だとすぐにばれてしまう。ばれてしまって、連れ戻されることはいやだった。その前に、アストライアのもとにたどり着きたかった。
そうでなくても北の塔に移る直前のこの時期、神殿を抜け出したとなればどのような罪に問われるかもしれない。皆にも、以前以上の心配や迷惑をかけてしまうだろう。それは四年前の比ではないかもしれない。
それでもラティの足は止まらなかった。ラティの足はまっすぐ王宮に、アストライアのもとに向かう。ただ彼女だけを目指して進む。
すれ違うのは歩く者だけではない、馬の者もある。ときおり砂埃を立てて脇を行き過ぎる馬もいて、上がった砂埃にラティは咳き込んだ。目に砂が入ってしまい、何度も目をしばたたかせる。衣服についた砂を払い、なおもラティは歩いた。
(あ、……?)
横を通り抜けた馬があった。白い差し毛のある栗色の馬は、最初はラティの横を行き過ぎた。しかしすぐに戻ってくる。
馬上の者が、ラティを覗くようにしてきた。ラティはことさらにかぶった布を深くして、顔を見られないようにした。しかし馬に乗った男はなおも訝るように、ラティを覗き込んでくる。
(いやだ、あっちに行って……!)
全身で男を拒否しながら、ラティはなおも歩く。しかしいくら早足で歩いても馬を撒けるわけはなく、男は馬を歩かせてラティについてくる。
(何かしら、この人……早くあっちに行ってくれないかしら)
そこに、もう一頭に乗った男が現われた。彼らが互いに目を見交わすのをラティは見た。何ごとかと身を固くしたのと同じに、馬の男がラティに声をかけてきた。
「姫巫女」
(ばれた……!)
ラティは立ち止まってしまう。男たちは馬を下り、ラティの前にひざまずいた。まわりの者たちが、何ごとかと足を止めて三人を見ている。
「姫巫女、お捜しいたしました。どうぞ、神殿にお戻りを」
「皆が待っております」
(つかまってしまった……)
ラティは絶望した。アストライアに会う前に、つかまってしまった。ぎゅっと、ラティは目をつぶる。男はラティに手を差し出してきて、それをラティが取るのを待っているようだ。
「馬にお乗りください。神殿まで、お連れいたします」
「姫巫女、お早く。神殿長もお待ちしております」
ふたりは声を揃えて、ラティを急かす。ラティは手を出せなかった。彼の手を取れば、二度とラティは神殿から出られない。これからは北の塔での勤めに励む毎日が待っていて、そこにはアストライアの姿はなくて――。
(そんなの、いやっ!)
ラティは身を翻した。そのまま道を走り出す。男たちの驚く声が背後に聞こえたが、ラティは足を止めなかった。懸命に走り、しかしすでに疲れた足はうまく動かずに、その場に転んでしまう。拍子にかぶった布が取れて、ラティの銀の髪がこぼれ落ちた。
「姫巫女!」
「神殿の姫巫女じゃないのか、あれは?」
まわりの者が騒ぎ出す。馬の男たちはすぐに追いついて、しかし彼らは今度はひざまずかなかった。
「素直にお戻りいただけないときは、無理やりにでもと仰せつかっておりますので」
「失礼をお許しください」
ひとりがラティの手を伸ばす。いきなり背と膝の裏に腕を伸ばされ、抱きあげられた。
「な、何をするのっ!」
「姫巫女が、お逆らいになりますので」
どこか無礼な物言いで、男は言った。そのまま馬の上に抱え上げられ、ラティは手足をばたばたさせる以外抵抗の術はなくなってしまう。
「おとなしくなさいませ。お逆らいになるときは、縄で縛ってもいいと仰せつかっております」
(縄で……?)
ラティは思わず身を強ばらせた。男はラティを馬にまたがらせ、来た方向を戻り始める。もうひとりの男も、ラティが飛び降りて逃げるのを警戒するように、ぴったりと横についたままだ。
(縄で縛ってなんて、穏やかじゃないわ)
逃げたくても、男の両腕が体の横に回っている状態では逃げようがない。ラティが馬の前に座り、その後ろに男が座っている体勢は、以前アストライアに遠乗りに連れていってもらったときを思い出したが、あのときと今では状況が違いすぎる。
(わたしは、逃亡したことで連れ戻されるのよね……?)
ラティを乗せた男はまっすぐに前を向いて、ラティが話しかける余裕もない。その表情は、単に逃げ出した姫巫女を連れ帰るというには険しすぎるような気がする。
(本当にそれだけなのかしら。何だか、罪人でも引っ立てるみたいな……)
その考えに、ぞっとした。確かにラティは、こっそり神殿を抜け出した。自分のしたことが決して褒められたことではないのは承知の上だ。罪に問われるのも覚悟の上だ。しかし縄をかけてでも連れて帰れとは、あまりにも穏やかではない命令ではないだろうか。
(何かほかに……何かがあるというの?)
いやな予感が、体を走る。ラティはぞくりと身を震わせた。そんなラティに気づいているのかいないのか、男たちはまっすぐに前を見たまま、馬を走らせる。
神殿の、白い建物が見えてきた。
ラティを見つけた男たちに連れられて、ラティは神殿に入った。連れていかれたのは懺悔の間で、なぜここに自分が連れてこられるのか、ラティには理解できなかった。
そこに待っていたのは神殿長だ。彼は険しい顔をしてラティを見つめ、重々しく口を開いた。
「姫巫女。お逃げになっても、無駄でございます」
彼の口調は、尖っていた。神殿長のそれほどに尖った口調をラティは聞いたことがない。体の真ん中に、冷たい杭が刺さったような気がした。まっすぐに背筋を伸ばして立つラティを、神殿長は口調以上に厳しいまなざしで見つめている。
「姫巫女の秘密を今まで存じ上げなかったのはわたしの不覚、しかしそのことが明らかになった以上、姫巫女をとらえることもやぶさかではございません」
「秘密……?」
ラティは、大きくまばたきをした。ラティは、逃亡の罪でとらえられたのではなかったのか。しかしラティをとらえた男たちが言っていたこと――ラティを縄をかけてとらえることも許されているということ――を思い出した。
(わたしの、秘密?)
ラティは胸に手を置く。そして思い当たったことにはっと息を呑んだ。
(メダイのこと……?)
ヘタイラは言っていた。メダイを誰にも見せてはいけない、誰にもその存在を知られてはいけない。だからメダイはからくり仕掛けの抽斗の中にしまわれて、誰の目に触れることもなかったのだ。このメダイのことを知っているのは今は亡きヘタイラとラティ、そしてラティがメダイを見せたアストライアだけ――。
「姫巫女は、獄舎につながれる」
重々しい声。聞いたことのない口調で、神殿長は言った。
「異教徒と知れた姫巫女は、この神殿にはふさわしくない。しかし仮にも姫巫女の任にあった者。獄舎に連れ行かれる前に、この場で懺悔を。なぜ異教徒であることを隠して、姫巫女として人々を欺いてきたか」
「異教徒、ですって――?」
ラティは驚愕した。その場にへたり込みそうになり、慌てて足に力を入れる。ふとあたりを見回した。神官に神殿女官、皆見知った顔ばかりだ。それなのに皆、今までラティに向けてくれていた表情ではない、何か恐ろしいものを見るような目でラティを見ていて、そのまなざしにもラティは震えた。
「異教徒、ですって……わたしが?」
そう問うラティを、神殿長は睨みつけた。ラティのもとにつかつかと歩み寄り、目の前に手を突き出された。
「姫巫女は――否、姫巫女であった者。そなたはメダイを持っているだろう。異国の神の顔の彫られた、メダイを!」
(やっぱり、メダイのこと……?)
下半身から力が抜け、ラティはその場に座り込んだ。しかし誰もラティを助けない。ラティは思わず胸に手をやった。そこにはラティが紐を通して首にかけたメダイが収められている。
「わたしは、異教徒ではありません。信仰しているのは、アウェルヌス神ただひとり……」
「その穢れた口で、アウェルヌス神の名を口にするな!」
神殿長は、ラティのもとに乱暴な歩調で歩み寄ってくる。彼はラティの肩を押さえた。思いのほか強い力に、ラティはひるむ。神殿長の指はラティの首に触れ、紐ごとメダイを引き出した。神殿長の表情が変わる。
「これだ。異国の神の、メダイだ――!」
ざわめきが走る。皆口々に恐ろしいものを見たと声をあげ、しかしそれは神殿長の一喝で鎮まった。震え上がるような沈黙が、あたりに広がる。
憎々しげに、神殿長は言った。
「このようなものを、よく今まで隠し持っていた。我々を裏切り、姫巫女という自分自身の身分さえも裏切り、このようなものを……!」
神殿長は、メダイが焼けた石でもあるかのように床に叩きつけた。かちゃん、と音がしてメダイが転がる。ラティは反射的にメダイを追いかけて拾おうとしたが、注がれる視線の強さに、はっと顔をあげた。
「背信者……!」
吐き捨てられた言葉は、ラティの指先までを凍らせた。ラティの手はメダイを追いかけた形のまま固まったように動かなくなった。がたがたと震えた、自分でも動かせない。
(こんな、恐ろしいことになるなんて……)
震えながら、ラティは考えた。
(だからヘタイラは、メダイのことを誰にも言ってはいけないと言ったのだわ。異教徒だと……背信者だと思われて、このような……このように、恐ろしいことになるから……)
しかしメダイのことは、誰も知らなかったはずだ。ラティが留守の間、何らかの方法で抽斗のからくりが解かれ、中身を見られてしまったというのならわかる。しかしラティは、メダイを身につけていた。それなのになぜ、今この機にメダイのことが皆に知られることになってしまったのだろう。
(どうして? どうして今なの?)
ラティは懸命に顔をあげた。嫌悪に顔を歪ませている神殿長に向かって、やはり震える声で心のうちを口にする。
「どうして、メダイのことを……」
「王女殿下のおっしゃっていたとおりだ」
ラティには答えず、神殿長は言った。
「姫巫女は異国の神のメダイを持っていると、異教徒だと。王女殿下のお話しのとおりだ」
(王女殿下、ですって――?)
(王女殿下……、アストライアさま……?)
いきなり出てきた名に、ラティは驚愕した。大きく目を見開き、神殿長を見る。
「王女殿下にお知らせいただかなければ、いつまでも欺かれているところだった。こんな、異国の神を信仰する姫巫女など――!」
神殿長の、サンダルを履いた足がメダイを踏みつける。ラティは悲鳴を上げた。それに、懺悔の間にある者すべてがラティを注視した。まるで穢らわしい者でも見るかのように。そのうちの何人かは、近くにさえいたくないとでもいうように、すぐに目を逸らせてしまった。
(アストライアさまが、わたしが異教徒であると告発した……?)
(なぜ、アストライアさまが?)
その考えが、ラティの頭をぐるぐる回る。
(メダイを見せたとき、確かにアストライアさまは異教の神だと言って、少し恐ろしそうな顔をされた。けれどこれはわたしの守り神だといって、返してくださったわ)
(丁寧に……わたしの大切なものだといって、しまっておくようにおっしゃってくださったのに)
床に座り込んだままのラティの後ろに、男がふたり立った。警備兵だ。その腕はラティの倍ほどの太さで、ぐいとラティの両腕を掴んだ。
「痛、っ……!」
ラティは呻いた。しかしラティの呻きなど頓着しない彼らはラティの腕を掴んで引き上げ、立ち上がらせた。ラティはよろよろと床に立つ。
顔をあげると、神殿長がラティを睨んでいるのが目に入った。まるでラティの全身に『異教徒』との文字が彫り込まれているとでもいうように。ラティのすべてが、彼に嫌悪を抱かせるというように。
神殿長だけではない。今まで世話をしてくれた神殿女官たち、祭祀のたびに顔を合わせた神官たち。彼らがすべて、ラティに嫌悪の表情を向けている。ラティを憎むように、ラティが視界の中にいることを嫌がるように。
(ああ……)
今まで親しんできた者が、手のひらを返したように敵となってしまったことを知って、ラティの体から力が抜ける。しかし警備兵の腕はラティを離さない。腕だけでつり下げられるような格好に、ラティはまた悲鳴を上げる。
(アストライアさま……!)
今のラティを支えるのは、その名だけだった。アストライアの名がラティを助けてくれる、アストライアのことを思えば耐えられる。しかし先ほど神殿長が口にしたことが、脳裏を過ぎった。
(アストライアさまが、わたしのメダイのことを告げた……?)
ラティは腕を引かれ、引きずられるように懺悔の間を出た。いつも歩く回廊ではない、裏口を通って出たところには神殿の外で、木を打ちつけただけの箱馬車と、警備兵が三人いた。
そのうちのひとりがラティを後ろ手に縄で縛る。ぎりぎりと食い込む縄の強さに、ラティは悲鳴を上げる。しかしその悲鳴に頓着する者はない。ラティが痛いだろうなどと気遣ってくれる者は誰もなく、ラティは罪人そのものにとらえられ、粗末な馬車に乗せられた。
(なぜ、アストライアさまが……アストライアさまは、どうしてわたしを……?)
(アストライアさまが、わたしを裏切った……?)
神殿長の厳しい声も、神殿女官や神官たちの冷たい視線も、警備兵のぞんざいな扱いも、しかしその衝撃の上を行くものではない。
アストライアが、ラティを裏切ったのかも知れない。こうやってラティがとらえられることがわかっていて、それなのにメダイのことを告げたのか――。
(どうして、アストライアさま……?)
その思いばかりが、ラティの脳裏を駆けめぐる。
ラティの連れ行かれたのは、神殿から半刻ほど行ったところにある獄舎の塔だった。
厳しい声をかけられて、馬車から降ろされる。後ろ手に縛られたままのラティは、獄舎の塔の寒々しさに身震いした。神殿の白さとは対照的に、陰気な色をした石を積み重ねて作られた塔は昼なお冷たくそこに建っている。
警備兵が縄を引き、ラティは石の門をくぐる。引きずられるように冷たい石の廊下を歩き、小さな扉の前でとまる。
扉の向こうは、小さな部屋だった。窓は小さく差し込む光は少なく、建物の外観以上に冷たい様子にまた大きく身を震う。
その部屋に押し込められるように、ラティは背を押された。後ろ手に縛られた縄はほどかれたが、目の前で扉が閉まる。そしてラティは、ひとり石の独房に残された。がちゃん、と乱暴な金属の音がする。
(こんな、場所……)
今までいた部屋とはまったく違う。独房の中には何もなく、ただ隅に用を足すための道具と乱雑にたたまれた毛布が置いてあるだけだ。顔をあげなくては窓の外も見られずに、しかもわずかに空が見えるばかり。
「出して……!」
ラティは扉に駆け寄った。扉に手をかけ、力を込めて揺らす。
「ここから、……出して!」
しかし表から錠でもかけられたのか、扉はがたがたと空しい音を立てるばかりだ。響く音はこのような場所に閉じこめられる恐怖をいや増して、ラティは震えた。その場に座り込むと、石畳の冷たさが直接上がってくる。
(こんなところで、こんな……)
石の冷たさに震えながらも、ラティは立ち上がることができない。片手を扉にかけたまま、ただそこに座っていた。
もう何日が経ったのか、ラティから時間感覚は失われていた。
扉が開けられるのは日に二度、食事のときだけだ。最初のころは、その数を数えてもいた。数を数えて何日経ったのか記憶していたのに、しかしもうそれもおぼつかなくなった。
もう何日が経ったのか、いくつの曜日が過ぎたのか。ラティの脳裏はぼんやりと、徐々にものを考える力も失われていってしまっているようだ。
(なぜ、わたしはこのようなところに……)
そんなことを考えることもある。どうして見慣れないこの、陽の差さない小さな独房で、体を清めることも許されずに、日がな一日座っているだけなのか。なにひとつ心を慰めるのものないこの部屋で、巡る考えに身を委ねているだけなのか。
(そう、わたしは異教徒との疑いで……)
そのことを思い出す。そのことが頭を貫くたびに頭はきりきりと痛み、続く名前に息もできなくなるような気がする。
(アストライアさま、が……)
なぜ彼女は、ラティが異教徒であると告げたのか。どうしてこのような場所に追い込んだのか。どうして、なんのために。
(アストライアさまが、わたしが異教徒だと……)
ラティは深く、長く続く息を吐いた。
(アウェルヌスの神を裏切っていると。私が、裏切り者だと……!)
また、頭が痛む。きりきりする頭を抱えて、ラティはその場にうずくまった。
(アストライアさま、アストライアさま……)
その、愛おしい名前。このような場所では、アストライアにも会えない。北の塔どころの騒ぎではない。
それでも、この状況を作り出したのはアストライアなのだ。その名の主が今のラティの苦しみを生み出している。いつもラティに幸福をくれたアストライアが、今のラティの不幸を作り出している。だとすればラティはもう、何をよすがに生きていけばいいものかもわからない。
(わたしは、どうなるのかしら……)
また、思考はぐるぐると巡り出す。この狭い独房、迫るようにそびえる壁はラティを追いつめ、脅えさせ、暗い考えに導き出す。
(この先、審問にかけられるのかしら。異教徒として裁かれて、そしてその先――?)
その考えに、ラティはぶるりと身を震わせた。自分で自分の体を抱く。そんな自分のぬくもりでさえ、今は慰めだった。自分がまだ生きていると感じさせる、自分の体温。この石の床ではその体温さえも奪われてしまうけれど、それでもそれが自分自身を確かめる唯一の方法だ。
(アストライアさま……)
気づけば、その名前を口にしている。気づけばアストライアのことを思い描いている。ラティを今のこの状況に追い落としたのはアストライアなのに、それでもラティはアストライアに抱く気持ちを消してしまえない。アストライアの名に、愛おしい思いを抱くばかりだ。
(なぜわたしを、異教徒だなどと……?)
アストライアに会いたい。その真意を尋ねたい。
(どうして、なぜ……?)
またラティは、大きく震えた。自分の体を抱いて、ぎゅっと目をつぶった。
ぎぃ、と音がして扉が開いた。
あたりは闇だ。真夜中の冷たさの中、ラティは眠っていた目を開けた。くるまった毛布の中、音のした方向にはっと目を向ける。
(誰……こんな夜中に)
入ってきたのはひとりではない。ふたつの姿が、わずかな月明かりの中に見える。この狭い独房の中、ふたりの影はすぐにラティのもとに近づいてくる。
「きゃ、……っ!」
ラティは腕を取られた。強く握られて、眠りの中にあった意識は一気に覚醒する。無理やり起きあがらされて、ラティは声をあげようとした。
「騒ぐな」
しかし、乱暴な手はそれを許さない。後ろから口を強く塞がれる。そのまま体を押し伏せられて、仰向けに石の床に転がされた。
「な、に……!」
口を押さえる手は強い。息ができないどころか、顔を無理やりねじ曲げられてしまうような痛みがある。必死にその手に抗いながら、ふたりの顔を見ようとした。
はっきりとは見えないがふたりとも男性で、まとっている衣装から、獄卒のうちのふたりであろうことが見て取れる。
「おとなしくしろ、異教徒が」
男は、荒れた声でささやいた。その言葉に、ラティは大きく震えた。
「本当なら、獄舎に入ることもなく即刻打ち首だ。姫巫女だったことが、幸いしたな」
(なに、何なの、いったい……!)
そう問いたくても、声にはならない。ラティは冷たく固い床の上に押しつけられて、その痛みに呻いた。そんなラティを侮るように、男たちは続ける。
「姫巫女か。うまいものを食ってきれいな衣を着て、神に祈っていればいいだけの羨ましい身分だ。こんな目にあったのも、その報いに違いない。いい気味だ」
男たちの悪しざまの口調に、ラティはの震えは大きくなる。彼らがラティに敵意を持っていることは明らかだ。しかし男たちの、強い腕からは逃げられない。
ひとりはラティの両手首と口を、ひとりはラティの両足を押さえている。足を押さえた男の手が、ラティの衣装にかかった。長いこと閉じこめられて垢じみた布を、乱暴にぐいとめくりあげた。
「や、ぁ……っ!」
声をあげた。ラティの白い二本の足が剥き出しになる。そこでやっと、男たちの意図に気がついた。彼らは、ラティを凌辱するつもりなのだ。自分の迂闊さに歯噛みするが、それでも強い力の前、ラティには抵抗の術などない。
「やめ、っ……、!」
攻めての抵抗にあげたラティの声は、男の手の下でくぐもってしまう。男はラティの足を持ち上げる。足を開く格好を取らされて、ラティは暴れた。男の強い力の下ではラティの抵抗など微々たるものだったが、それでもなすがままになるわけにはいかなかった。
(助けて……!)
胸の奥から声を絞り出す。男の手が、内腿に触れる。撫で上げてくる。それにぞっと震えながら、ラティはなおも叫び声を上げようとした。
(助けて、アストライアさま……!)
とっさに洩れた名は、ラティの心を救ってくれるものだ。アストライアの名をつぶやくだけで、このような場においても落ち着きを取り戻せるような気がした。男たちの手から逃れられる方法を見いだせるような気がした。
ラティは、渾身の力を足に込めた。足に手をかける男の手を蹴り上げると、男は驚いたように手を離す。その隙に体をよじろうとしたが、しかしもうひとりの男の手がそれを許さなかった。
「暴れるな、この女……!」
いきなり頬を殴られた。口の中が切れたのか、血の味がする。殴られるなど初めてのことで、その痛みにラティは呻いた。
「おとなしくしてろ、異教徒のくせに抵抗なんてしやがって」
「かわいがってやるんだ、ありがたく思え」
男たちは口々に勝手なことを言い、改めてラティの体を征服にかかる。今度は手の力はいっさいゆるまず、ラティの骨が軋むほどの力を込めてラティを床に縫いつけ、衣服を剥がしていく。両足を大きく広げさせられる。ラティは大きく咽喉を仰け反らせた。
(アストライアさま!)
身をよじろうとして、また殴られた。懸命に両足を閉じようとしても、そうすればそうするほど男たちの手の力は強くなっていくようだ。
(アストライアさま、アストライアさま……)
扉の方から、何か音がしたような気がした。しかし今のラティには、その音の正体を考えている余裕はない。ただ自分を蹂躙しようとする男たちの手に抵抗して、体に力を込めることしかできない。ぎゅっと目をつぶり、懸命に暴れようとした。
「ぐ、ぁ……!」
ラティを組み伏せる男が、呻き声を上げた。ラティには何が起こったのかわからない。男の体から、いきなり力が抜ける。
自分の体の上に、男の体が落ちてきて驚いた。同時に両足を征服しようとしていた男の腕の力が抜けたことにも気がついた。
「な、に……?」
顔をひねって見上げると、そこには新たな人物の姿がある。わずかな月明かりに、短剣の刀身が光る。ラティは、唖然とその人物を見た。
「何だ、お前……!」
男たちの手は、ラティから離れた。短刀の主は素早く手首を返す。短刀の柄が男のひとり、続けてもうひとりのみぞおちを打つ。彼らはどうと石床に倒れた。短剣が床に落ちる。
「ラティ、怪我は!?」
声がかかる。強い腕に、ラティは抱き起こされた。
「アストライア、さま……」
目の前にあるのはアストライアの顔だ。彼女は大きく目を見開き、ラティの体を抱きしめる。アストライアの肩口で、ラティは大きく息をつく。
「まぁ、顔を殴られたのね! 許せないわ……」
「アストライア、さま……?」
なぜ彼女がここに。アストライアの腕に抱きすくめられながらもそのことが信じられなくて、ラティはぼんやりとアストライアを呼んだ。アストライアはうなずき、また抱きしめてくる腕を強くする。
「まさか、お前がこんな目に……」
アストライアは、ラティにしがみつく。ラティは、掠れた声で尋ねた。
「どうして、ここに……」
「お前に会わなくてはいけないと思って」
どこか思い詰めた口調で、アストライアは言った。
「話をしなくてはいけないと思って。だからお前に会おうとしたのに、なかなかその機がなかったの」
「なぜ、今夜……」
なぜ、アストライアはラティの危機にやってくることができたのだろうか。なぜ、ラティの犯される直前に現われることができたのだろうか。
そのことを問うと、アストライアは小さく笑う。
「それは、偶然よ」
アストライアは苦笑いをした。
「でも、この偶然を神に感謝するわ。わたくし、どんなに驚いたか……お前が、この」
言って、アストライアはかたわらに倒れている男たちを睨みつける。その強いまなざしで、男たちの体を焼いてしまおうというようだと思った。
「獄卒なのに、任を忘れてこのような振る舞い……」
「アストライアさま、まさか」
殺してしまったのだろうか。かたわらに落ちている剣には、血は着いていないようだけれど。
アストライアは首を、左右に振った。
「殺してはいないわ。剣の柄で急所を突いて、気を失わせただけ」
「そんなこと……」
いったいどうすれば、そのようなことができるのだろうか。しかしそのようなことは今はいい。今のラティのすべては、目の前にアストライアにある。彼女の腕に抱きしめられて、ラティは緊張した体の力が徐々に抜けていくのを感じていた。
「辛い思いをさせたわね、許して」
そう言って、アストライアは頬ずりをしてくる。頬に、そして唇にくちづけられた。
「アストライア、さま」
彼女の腕に甘えてすがって、しかしラティを貫くある事実があった。
優しくラティを抱きしめてくれるアストライアは、ラティを裏切ったのだ。裏切って、ラティがこのような場所に閉じこめられるきっかけを作ったのだ。獄卒たちに襲われたのも、もとはといえばアストライアがラティを異教徒だと告発したことが原因なのだ。
(アストライアさま……)
ラティは、腕を伸ばした。アストライアの腰に手を回し、ぎゅっと抱きつく。
アストライアの裏切りのことを思い返しても、ラティの胸に浮かぶのは愛おしいとの思いばかりだ。抱きしめられて彼女の体温を感じ、抱きしめられる力を感じて。その感覚はすべて、ラティの身のうちに沁みていく。
「アストライアさま……!」
ラティはそう叫び、アストライアにすがりついた。腕に力を込めてさらに強く抱きつく。アストライアもそれに応えてくれた。彼女の腕は背にまわり、ぎゅっと抱きしめてくれる。
アストライアの温度を直接感じ、ラティは大きく息をついた。ここに閉じこめられてからの苦しみも憂いも悲しみも、すべてが洗い流されていくような気がする。
「まぁ、お前。泣いているの」
「だって、アストライアさまが……」
(アストライアさまが、来てくださるなんて)
(いったいどこからいらしたの? ここは獄の塔なのに……いいえ、そんなことはどうでもいいわ。ただ、アストライアさまがここにてくださるのなら)
アストライアは、もう一度ラティを抱きしめてくれた。そして耳もとで、小さくつぶやく。
「お前に、言っておきたいことがあるの」
「何、ですの……」
ラティはごくりと、固唾を呑んだ。
「お前が異教徒としてとらえられたこと。こんなところに閉じこめられたこと。そのことに関してよ」
抱きしめる腕から少し力を抜き、アストライアは息をついた。そして言葉を綴り出す。
「わたくしが、お前を異教徒として神殿に訴えた。それは本当よ」
「あ、……」
ラティは大きく目を見開く。アストライアの腕の力がゆるみ、ふたりの間には距離ができた。彼女と視線が合う。アストライアは少し目を伏せて、後悔を見せる表情をしていた。
「でもね、違うの。お前をこんな目に合わせたくて、そうしたんじゃないわ……!」
「なら、どうして……」
ラティの問いに、アストライアはいたたまれないというような表情を見せた。
「お前が北の塔に入ると聞いたのよ。あのような場所、さすがのわたくしも入ることはできないわ。このままお前に会えなくなってしまう。それが恐ろしくて、だから考えたの」
低い声で、アストライアは続けた。自分の行いを悔いるように。
「お前が異教徒だと認められれば、姫巫女の任を解かれると思って」
子供のような口調で、アストライアは言う。ラティは驚いて、アストライアを凝視した。
「お前は、姫巫女であることの不自由さを歎いていたわね。姫巫女でなければ、わたくしと一緒にいられるのにと言って。お前が姫巫女の任を解かれさえすれば、その不自由さもなくなるのにと、わたくしはずっと考えていたの。お前が北の塔に行くことが、この期だと」
アストライアは、大きく息をついた。そのため息は自分自身に呆れ、自分自身を責めるようだと思った。
「お前が姫巫女の任を解かれれば、わたくしが身柄を預かるつもりだった。お前をわたくしの侍女にするつもりだったのよ」
「そのようなことを、お考えに……?」
唖然と問い返すラティに、アストライアはうなずいた。ラティの手を取り、ぎゅっと握りしめる。
「けれど、わたくしはあまりにも浅はかだった……あまりにも浅はかだと気がついたときには、何もかもがわたくしの手の届かないところで行われてしまって。お前はとらえられ、このような場所に閉じこめられて……何度も面会の申し入れをしたの。それなのにわたくしの申し出は却下されて」
「では、今夜はどうやっておいでになったの?」
ラティが尋ねると、アストライアはほんの少し、いたずらめいた表情を見せた。肩をすくめて、つぶやく。
「獄卒のひとりに、金貨を握らせたのよ。ほんの少しの時間という約束でね。こんなことになっているなんて、思いもしなかったけれど……」
息をつきながら、アストライアはかたわらを見る。アストライアが剣の柄で気絶させたという獄卒たちは、まだ気がつく様子を見せない。アストライアは、彼らを睨みつけながら言った。
「お前を早く出してやりたいの。お前はこのような場所にいるべきではないわ。わたくしの迂闊さで、お前に辛い思いをさせてしまった。その償いをさせてちょうだい」
アストライアは、ラティの手を引く。立ち上がらせようとするアストライアにつられて足を上げたラティは、ふと足もとを見た。
粗末な独房。陽の差さなくて湿っぽい、不健康な居室。ここから出られるのなら、確かに今すぐにでも出てしまいたいけれど。
(このままアストライアさまのお手を取って、ここからこっそり抜け出して……そして?)
そのようなことをしていいのだろうか。ラティの胸に、不安が過ぎる。
「ここにいれば、わたしはこれからどうなるのでしょうか……?」
ラティは尋ねた。アストライアは眉を曇らせる。
「審問にかけられるわね」
その声は重々しく、審問がどのようなものかわからないラティにもその恐ろしさを感じさせた。
「その上で、異教徒だということが認められでもしてしまえば、首を落とされるわ」
「でも、わたしは異教徒ではありませんわ」
ラティは思わず、声をあげた。ラティの体に回した腕に力を込めて、アストライアはうなずく。
「それはわかっているわ。でも、審問員たちがそれを信じてくれるかどうかはわからない」
「ええ、わかりませんわ。でも……」
ラティは、異教徒ではない。ラティの信仰するのはアウェルヌス神のみ。その真実を前に、審問ではそのことを繰り返すしかない。言を尽くせば通じるはず――ラティはそう信じるしかない。
「お前を姫巫女として扱う者は、もういない。姫巫女でありながら異教徒だったということで、ほかの異教徒よりももっとひどい目にあわされるわ」
深く眉間に皺を刻み、アストライアは言った。ラティの手を取って、ぎゅっと握ってくる。そのままラティを連れ出そうというように、力を込めてきた。
「でも、わたしは。信じてもらうほかありません」
ラティは取られた手を握り返す。信じてもらうしかない。それ以外にラティには、かけられた異教徒という疑いを晴らす方法はない。そして、その信を得るためには。
ラティは、アストライアとつなぎ合わせた手をそっと離した。そのことに、アストライアは驚いたようだった。
「わたし、アストライアさまとはまいりません」
そう言ったラティに、アストライアは驚いた表情をした。
「どういうこと? なぜここから逃げないの?」
「逃げてはいけないと思いますの、わたし」
異教徒と疑われることと、もうひとつ。ラティはもうひとつの罪を犯し、その罪を問われることを恐れた。
「わたしは、罪を犯してはいけないと思いますわ。逃亡の罪を……」
ラティは、アストライアから一歩退く。追いかけるアストライアは、大きく目を見開いてラティを見ている。ラティは、低く息を呑んで言った。
「アストライアさまのお手引きとはいえ、獄舎から逃げたとなれば、罪に問われることは間違いがないでしょう?」
以前、剣術の大会に出るアストライアの姿が見たくて神殿を抜け出したときとは違う。異教徒との疑いを晴らさないうちに新たな罪を犯せば、そのことが審問にどんな影響を与えるかわからない。
「その罪ゆえに、二度とアストライアさまに会えなくなる方が、辛い」
ラティの言葉に、アストライアは驚きの表情を浮かべたままだ。居心地が悪くなるくらいにじっと見つめられ、ラティは思わずうつむいてしまう。
アストライアは、言うべき言葉を探しているようだ。ラティを見つめたまま唇を薄く開き、ややあって、彼女の口からは吐息が洩れた。
「そうね、お前の言うとおりだわ」
ため息とともに、アストライアは言った。
「お前をここから逃がしては、確かにそれは逃亡の罪だわ。お前は本当に異教徒ではないのですもの。その疑いを晴らすことが肝要なのだわ」
そこまで言って、アストライアは頭を垂れた。
「わたくしが、よけいなことを言ったからなのね。だからお前をこんな目に合わせて……」
そして何度も、首を横に振る。自分自身に呆れたように、彼女は息をつく。
「だめね。お前のこととなると、わたくしはつい考えなしになってしまって」
「そんな、アストライアさま」
つないだ手を握りしめる。アストライアの顔を覗き込んで、ラティは微笑みかけた。その笑顔にアストライアは驚いたようだった。
「来てくださって、嬉しかったですわ。アストライアさまのおかげで、わたしは力を得ました」
見開かれたアストライアの青の瞳に向かって、ラティはなおもにっこりと笑顔を作る。
「わたしは、異教徒ではありません。だからわたしは胸を張って、審問に向かいますわ」
「ラティ……」
じっとラティを見つめてくるアストライアの表情は、ラティに力をくれた。いつもはラティがアストライアに驚かされてばかりだけれども、このたびは逆なのだと、ラティがアストライアの驚くことを言ってのけたのだと、そのことにラティは奮い立つように感じた。
「それから、どうなるのかはわかりませんけれど……アストライアさまはわたしが異教徒じゃないこと、信じてくださいます?」
「もちろんだわ」
両手でラティの手を握り、アストライアは何度も大きく頷いた。
「わたくし、お父さまにも言っているの。お前が異教徒だっていうのはわたくしの間違いだったって……でもお父さまは、審問も経ずにわたくしの言葉だけでお前を許すわけにはいかないって。だからわたくし、焦れてここまでやってきたのだけれど」
アストライアの手は、温かい。そのぬくもりに身を委ねながら、ラティはうなずいた。
「審問の場がどういうところかはわかりませんけれど……わたし、その場で恐れずに話しますわ。わたしは異教徒ではないって……。だって、本当にそうなのですもの。疑いは晴れるはずです」
ラティは手を伸ばす。アストライアの背に手を回し、抱きついた。こうやって自分から抱きつくことは初めてだったけれど、胸を高鳴らせながらも彼女に身を委ねた。
アストライアの胸に額を押しつけて、ラティはつぶやく。
「わたしが姫巫女の任を解かれれば、本当におそばに置いてくださいます?」
「当たり前よ……」
胸に抱いたラティに回す腕に力を込めて、アストライアは言った。
「……その日を、待ってるわ」
アストライアはそうつぶやき、ラティを抱きしめる腕に力を込める。そして、はっとしたように顔をあげた。
「時間だわ。看視が来る」
ラティの肩に、アストライアの手がかかった。惜しむようにそっと遠のけられ、ラティは小さく息をつく。
アストライアは、ラティの肩を引き寄せた。くちづけられる。柔らかい唇はそっと重なってきて、唇を合わせる愉悦にラティは溺れた。
唇はすぐに離れてしまう。それを惜しく思いながら、アストライアと体を離した。アストライアは未練を残すようにラティの肩に置いた手に力を込め、そして遠のける。
「お前は、勇気ある者だわ」
つぶやくように、アストライアは言った。
「お前がそんなふうに言うなんて、思わなかったの。わたくしはお前のことを、よく知らなかったのかもしれない」
「呆れられました?」
少し戯けて尋ねると、アストライアは大きく首を振る。彼女の金色の髪がきらめいた。彼女の浅紅の唇が、動く。
「愛してるわ、ラティ」
アストライアは、目をすがめてそう言った。その言葉に驚くラティを残して手を離し、体を離す。そのまま遠のき、踵を返して扉を抜けてしまう。
(あ、アストライアさま……!)
残されたラティは、唖然とアストライアの去ったあとを見た。体が反射的に追いかけようとしてしまい、慌てて踏みとどまった。
(アストライアさま、何を……)
アストライアは、何という言葉を残していくのか。以前、くちづけを落とされたときと同じくらいに体が燃える。
自分の顔が赤くなっていることがわかっていた。顔だけではない、ともすれば体温も上がっているかもしれない。アストライアの言葉ひとつに煽られる自分の反応を恥ずかしく思いながらも、彼女にその言葉を向けられたことを何よりも嬉しく思う。
立ち尽くすラティの耳には、アストライアと獄卒が話すのが聞こえた。何を話しているのかはわからないが、アストライアの声はすぐに去った。
獄卒は、慌てた足取りでラティの独房にやってくる。アストライアに金貨を掴まされたという獄卒だろう。床に倒れ伏せたままの仲間を見て驚いた顔をしたが、彼らを引きずり出して、また外から錠を下ろされる。がちゃん、と大きく音が響く。
鍵のかかる音は、今までのようにラティに恐怖を与えはしなかった。今のラティは、勇気に満ちていた。審問がいつあるものかわからないけれど、どんな恐ろしいものであっても耐えられる。アストライアが裏切ったのではないということがわかったから。それどころかラティとともにいたいからこそのことであったこと――その短絡さはアストライアらしくないと思ったが、それだけに彼女の想いが強く伝わってくるように感じられた。
――愛してるわ、ラティ。
(アストライアさま……)
その言葉はこの冷たい部屋の中、胸の奥に咲いた一輪の花だ。その花をそっと両手で包み込み、ラティはさらなる勇気を奮い起こそうとする。
(審問がどのようなものかわからないけれど……)
その花に触れながら、ラティは考える。
(恐ろしくないわ。アストライアさまとともにいるためですもの)
大きく、ぶるりと身を震わせた。自分の腕に手を置き、ぎゅっと己自身を抱きしめる。そして目を閉じ、アストライアののしてくれたすべてを再び思い描こうとした。
審問の間は、大きな白い部屋だった。
広間の中央に、アストライアの立つ場所がある。そのまわりを囲むように十の席がしつらえられ、そこには今は、誰もいない。
そのまわりを囲む無数の席は、人で埋まっている。座る者たちは皆長い衣をまとっていて、かぶっている帽子の形から、審問に出席する神官に文官たちだということが推測できた。
彼らは遠慮もなくじろじろとラティを見、果たして姫巫女だった異教徒がどのような顔をしているのか、見届けようとでもいうようだ。
(こんな、たくさんの人たちの前で……)
その視線に、たじろがなかったといえば嘘になる。努めて自分を落ち着けながら、それでも下だけは向かないようにと彼らを見返して、その中にアストライアの顔を見つけた。
(アストライアさま……!)
彼女の姿に、ラティに視線は釘づけられた。
アストライアは文官たちの中に混ざって、不安げな顔をラティに向けている。アストライアがそのような表情をすることなど、考えてもみなかった。アストライアはいつでも自信に満ちた揺るぎない表情をしていて、凛々しく勇ましく、ラティを魅了してきたのに。
そんな彼女がそのような表情を見せていることに、駆け寄って話しかけたい衝動に駆られた。アストライアの姿があることに、ラティは力を得たのに。アストライアがいてくれるから、この先の審問に耐えられると感じたのに。それなのに、そんな表情をしないでほしい。微笑んで、もっとラティを力づけてほしい。
ラティは、低く息を吐く。足に力を込めて、アストライアにもらった勇気でその場にしっかりと立とうとした。
「十席の官がまいります」
声が響いた。はっとそちらを見ると、白い衣をまとった十人の男たちが広間に入ってきた。その中には国王、神殿長の姿もある。
彼らはそれぞれ席に着く。最後のひとりが椅子に腰を降ろすと、広間はしんと静まり返った。神官のひとりが立ち上がる。この審問の議の長である彼は、声高に述べた。
「姫巫女・ラティ。異教徒である罪状の裁きを、ここに始める」
審問が始まった。ラティは体中に力を込めて、その場に立つ。上ずる呼気を抑えながら、十の席の官たちを端から順に見つめた。
神殿長と目が合った。ラティとまなざしのかち合った神殿長は、かつての彼ではない。親身になってラティを姫巫女として教育してきてくれた人物だったのに、今はラティを糾弾するためにここにいる。
神殿長はじっとラティを見た。その目には恐ろしいものを嫌悪する色が浮かんでいる。長が言った。
「姫巫女・ラティ。その者、姫巫女の立場でありながら異国の神を信仰し、国と神殿を欺いていた旨、誤るところなしと明言する」
(誤るところなし、って……)
すでにラティが異教徒であるということは、認められてしまったというのか。ラティが異教徒であると皆が信じているというのか。逃れられない事実として、認識されてしまっているのか。
ラティは、声をあげた。
「わたしは……」
いきなりラティが声をあげたことに、広間の者は皆ラティを見た。視線を注がれることに、体中に緊張が走る。ラティは息を呑むと、言葉を続けた。
「わたしは、異教徒ではございません」
広間が、ざわりと揺れた。その場の者が皆驚いたような声をあげ、そのざわめきに押されて、ラティはよろめきそうになった。また足に力を込める。
そんなラティに、声がかかる。
「そのような言い逃れが通用してか」
嘲笑う声。
「では、あのメダイはどう説明する。異国の神が彫ってあるものを肌身につけて……それで異教徒ではないなどと、誰が信じると思っているのだ」
怒声。いろいろな声が飛び交い、広間は騒然とした。それを破ったのは神殿長だ。彼は立ち上がり、ラティを射抜くような口調で告げた。その口調に、ラティの背筋に震えが走る。
「お前の信仰する神の名を、答えよ」
(知らない、そんなもの……)
ラティは低く固唾を呑む。名前など、知るわけがない。仮に知っていても、メダイに彫られた異国の神は、ラティの信仰する神ではない。
声をあげる前に、大きく息を吸った。そして広間にいる誰もが聞き逃さないような、はっきりとした声で声高に言った。
「わたしの信仰するは、アウェルヌス神のみ。ほかの神はあり得ません」
ラティの言葉に、審問の場はざわめいた。
「その名を、軽々しく口にするな!」
神殿長は荒々しい声をあげる。目の前の卓を強く叩いた。
「異教徒だということが知れたから、逃げようとしたのだろう? このようなものを持って……」
神殿長に促され、十席のうちのひとりが取り出したのは、あのメダイだ。卓の上に置かれたそれは、鈍い輝きを放ってラティの目の前にあった。
「お前が異教徒でないというのなら、これは何だ」
「それは……」
ラティは固唾を呑んだ。ラティの答えを待つように、広間はしんと静まり返る。
「それは、わたしの母が持たせてくれたもの」
震える声で、ラティは言った。声がうまく出なくて、二度同じことを繰り返した。
「母の形見として持っているもので、他意はありません」
ラティの言葉に、その場は揺れた。十席の官の者たちが声をあげる。
「母? 姫巫女の母のものだというのか」
「姫巫女の母だと?」
ラティが口にした内容は、よほどに意外なものであったらしい。神官や文官たちも動揺したように、口々に言葉をこぼした。
「姫巫女は、その生みの母と顔も覚えていないころから離されているはず」
「それなのに未だこのようなものを持ち、母を慕っているとは?」
「そのような者が、姫巫女として今まで崇められてきたとは」
「そのように甘えた者が、姫巫女だとは……あり得ない。あってはならない」
その言葉を、ラティは消え入りそうな思いで聞いてきた。十六になっても母を慕うような子供だと、詰られているように感じたからだ。
ざわめく空気を破るように、立ち上がった者があった。ラティははっと、そちらを見る。立ち上がったのは十の席の官のうちのひとり、国王だ。
「姫巫女が母を慕うなど、おかしな話だ」
国王は立ち上がりじっとラティを見据えて、まるでラティが何を考えているか読み取ろうとでもいうようだ。ラティは全身に力を込める。
国王、アストライアの父。ラティは、アストライアの言葉を思い出した。
(アストライアさまは、わたしが真実異教徒ではないと、王に進言してくださっていると言っていた……)
固唾を呑んで、ラティは王を凝視した。
(王が、アストライアさまのお言葉を信じてくだされば。わたしが異教徒ではないと信じてくだされば……!)
王は口を開いた。王が何を言うのか、それはラティにとってどういう意味を持つ言葉なのか。ラティは身を強ばらせ、全身を耳にして王の言葉を待った。
「姫巫女・ラティには、姫巫女の資格がないのではないか」
王はそう言った。意外な言葉に、ラティは大きく目を見開く。
「いや、しかし……!」
十席の官のひとりが、王の言葉に反論する。
「銀の髪と赤い目は、神の使者の証。その容姿を持ちながら、姫巫女ではないなどと」
「その姿は、神が気まぐれに与えたものなのではないか?」
飛び交う声に、王は応えた。
「神のなさることは、我々の関知できることではない。姫巫女ではない者が銀の髪と赤い目を持っていることも、あり得るのではないか?」
そんな王の言葉を、神官たちは驚いたように聞いていた。互いに顔を見合わせ、王の言葉に戸惑っているかのようだ。
王は続けた。
「神に最も近い姫巫女たる者が、人間の母を慕い、母の形見を持っているなどおかしなこと。この娘に神のなされたことは、その気まぐれ……」
王は、ラティをまっすぐに見た。国王が何を言おうとしているのかわからない。ラティは混乱して、呆然と王の目を見返した。
「姫巫女・ラティは、姫巫女ではない」
王は、はっきりとした口調で言った。聞かされた言葉に、ラティの脳裏を貫いた考えがあった。
(わたしが姫巫女でなければ……アストライアさまと一緒にいられる?)
アストライアが言ったことを思い出した。ラティが姫巫女の任を解かれれば、アストライアがラティの身柄を預かるつもりだと。アストライアの侍女にするつもりなのだと。
ラティは慌てて、密かに首を振った。
(いいえ、姫巫女でなければなんて。そんなことを考えてはいけない。そんな、勤めを嫌がるようなこと……)
胸もとに手を置いた。ぎゅっと力を込め、国王を見やる。そんなラティを、国王も見た。射抜いてくるような視線に、ラティはたじろぐ。
国王は、言った。
「母の形見を持ち、母を慕う……ただの娘だ」
そう言った王は、神殿長を見やった。神殿長は何と反論していいものか迷うように顔をしかめている。そんな神殿長の胸のうちを読み取るようなまなざしをして、王は続けた。
「姫巫女でない者が審問を受けるというのも、おかしなこと。この審問自体、成り立たないのではないか?」
「そのような、こと……」
神殿長は、言葉に詰まる。王は、静かに神殿長を見た。
「そうではないか? その一方で姫巫女ではない者を姫巫女として捧げ奉っていた罪、そなたはそれに問われることになるとは思わぬか」
「そ、んな……!」
王に責められて、神殿長は大きく体を震わせた。
その展開を、ラティは唖然と見ていた。異教徒として糾弾されることを覚悟してこの場に臨んだのに、思いもしない展開にラティは戸惑うしかない。
(わたしは、姫巫女ではない?)
それは意外なことだったけれど、不思議にラティの胸に落ちた。
(姫巫女ではない。私は、姫巫女では……)
大きくまばたきをしながら、ラティは繰り返し考えた。
姫巫女でなければと思ったことは幾度もある。しかしラティは今まで姫巫女以外の何者でもなかったし、そうでない自分など考えたことはなかったはずだ。
それなのに自分が姫巫女ではないという言葉をラティは自然に受けとめていて、そんな自分に驚いた。そして王は、ラティは姫巫女ではなく、この審問の場にいるべきでさえないと言うのだ。
ラティを困惑させるのは、それだけではない。ラティがここに立っているのは、別の理由のゆえであったはずだ。
(わたしが異教徒だという話は、どうなったの……?)
いつの間にか論旨は別になっていて、ラティが姫巫女であるか否かということに焦点が置かれている。今まで姫巫女であったはずのラティは、姫巫女ではないと糾弾されて、ただ唖然とこの場に立ち尽くしていた。
王はラティを視界にとらえ、うなずいて言った。
「この者に罪があるとすれば、姫巫女ではないのに姫巫女と偽ったこと……それも自分の意志ではなく、だ」
重々しい声だ。ラティは思わず視線を踊らせる。アストライアと目が合った。アストライアは不安げな表情のままだったが、視線が絡むと薄く微笑んでくれた。
彼女の様子に、力を得たような気がする。考えもしなかった方向の進む審問に戸惑うラティを、励ましてくれる笑みだ。
王は、なおも重々しい声で言った。
「神殿長だけではない。我々は、間違ったのだ。姫巫女ではない者を姫巫女と仰いできた。偽の姫巫女は、その資格を剥奪されなくてはならない」
(資格を、剥奪……)
その言葉に、ラティは固唾を呑んだ。王は立ち上がり、皆の注視を集める。その上で王は、重ねてはっきりと口を開いた。
「姫巫女でない者には、神殿にいる資格はない。すみやかに神殿から出る必要がある。その身柄は王宮で預かろう。それでどうだ」
王は神殿長を見て言った。神殿長は未だに戸惑っているようだが、王の問いかけにうなずいた。そしてつぶやくように言う。
「誠、姫巫女が、姫巫女ではないのだとすれば」
審問の場は、静まり返っている。その中で、ラティは考えた。
(わたしが姫巫女でなくなれば……アストライアさまのおそばにいられる?)
そんな話を、アストライアとした。神殿を出て、アストライアのそばにいる夢想を抱いた。しかしそれが現実になるかもしれないとは、考えもしなかった。胸に置いた手に、力を込める。
(アストライアさまの、おそばに?)
神殿から出てアストライアのそばにいる――それは彼女の胸に甘えての戯れ言だったはずなのに。ただそれだけのことだったと思ったのに。
それが、本当のことになるかもしれないのだ。
「それでは、審問は終了だ」
王は、有無を言わせない口調でそう言った。審問の広間は静まり返り、反論する者は誰もない。
「終了を告げよ」
王の言葉に、議の長は慌てたように審問の終わりを告げた。広間は再びざわめき始める。そのざわめきにラティは、はっと目を見開いた。
背後から、神官たちがやってくる。ここに入ったときと同じように腕を後ろ手にとらえられ引き出されようとしたラティの目には、こちらにまっすぐ歩いてくるアストライアの姿が入った。
アストライアは、ラティの方に手を伸ばす。彼女の手はラティをとらえている神官の腕に伸び、強く掴んだ。
「そのような扱いは許しません」
彼女は、はっきりとした声でそう言った。
「この者の身柄は、王宮で預かります。そなたたちはお下がり」
厳しい声でそう言われ、神官はたじろいだように後ずさりをした。神官はラティの腕から手を離し、代わりに手を取ってきたのはアストライアだ。彼女は目をすがめ、ラティを見て言った。
「そなたは王宮に来ることになる。その先の処遇は詮議の上、決する。それまで王が、そしてわたくしが、そなたの主人」
ラティの腕にかかったアストライアの手に、力が込められた。その力はしかし優しく、先ほどのまなざし以上にラティを励ましてくれるものだ。
「わたくしのそばにいるのよ」
アストライアはそっと、ふたりだけに聞こえる声でささやいた。
「ずっと、わたくしのそばに」
「……はい」
ラティも、ふたりにだけ聞こえる声でつぶやいた。そっとアストライアを見やる。アストライアはいつもの彼女の、凛々しく堂々とした笑みを浮かべていて、それにつられてラティも微笑んだ。
「姫巫女さまは、あと半年で十六歳におなりになります」
低い、重々しい声で神殿長が言った。神殿の控えの間、ラティは頭を垂れて神妙に聞き入る。
「十六歳は、アウェルヌス神との交信の年。その日のために身を清め、清廉な生活を送らねばなりません」
ラティは小さくうなずいた。その話は聞いていた。十六歳になれば、今までと違う生活が始まる。今まで以上に姫巫女としての修練は厳しくなるだろうし、勉強も神学に割合が多く置かれるようになるだろう。ラティの反応を見るように神殿長はしばらく言葉を切って、そして続けた。
「姫巫女には、明日から北の塔に移っていただきます。そこで来たる十六歳の日まで、身を清めた生活をなさいますように」
(北の塔――?)
ラティは大きく目を見開いた。胸の奥で、思わず叫ぶ。
(北の塔、ですって……?)
北の塔は大きな石造りの建物で、文字通り神殿の敷地の北にある。ラティも儀式のために何度か行ったことがあるが、真昼のさなかでも薄暗いのは窓がとても小さいからだ。上の方、明かり取りのために四角く切り取られているだけで、とても人が通れるような大きさではない。
(北の塔なんて、そんな……)
ラティは胸に手を置いた。ぎゅっと力を込め、見開いた目で神殿長を見た。
(そのような場所、アストライアさまが来られない……!)
その場によろけそうになって、懸命に体を支える。神殿長はラティの反応に驚いたような顔をしている。いったいどうしたのかというような表情だ。
「どうかなさいましたか、姫巫女」
「い、え……」
掠れた声で、ラティは言った。神殿長は少葉を切ったが、改めて話し始めた。
「北の塔は、もっとも神聖な場所。めでたく十六歳になられた暁には、北の塔でお暮らしになられるのですから」
そう言って、神殿長はうなずく。満足そうに微笑んだ。
「そのためにもさっそく、北の塔に移る準備をお進めください。浄めの日を、一日でも早く始めましょう」
(一日も早く、ですって……?)
ラティは固唾を呑んだ。十六歳になれば本格的に姫巫女としての生活が始まる。そのための準備があるということは聞いていた。しかしそれが北の塔に行くことであるとは、思ってもいなかった。
アストライアに会う前なら、彼女とこれほどに心を通わせる前なら。北の塔に行くことにも特に感慨を持たなかっただろう。
しかし、今となっては。これほどにアストライアとの逢瀬が心の支えになっている今では、北の塔に居住の場所を移すというのは、身を引き裂かれる思いだ。いくらアストライアが身軽でも、北の塔の窓から入ってくるわけにはいかないだろう。ラティが本格的に姫巫女になるとなれば、まわりの者も今までのようにアストライアの訪問を黙認してはくれないかもしれない。
(このまま、アストライアさまの……)
この先、アストライアに会えないかもしれない――このまま、二度と。
神殿長は去った。ラティはよろよろと立ち上がる。女官が心配そうに見やってくるが、ラティには何をも言う気力がない。
「ラティさま?」
返事をしようとしても、ラティの口はうまく動かない。ラティの脳裏はただひとつのことだけに占められている。
(そんな、北の塔なんて……)
部屋に戻る間中も、ラティの考えを支配していたのは、神殿長に聞かされたその話だ。
(アストライアさまが、来られない。来ていただけない)
それは、胸のつぶれそうな考えだった。アストライアに二度と会えないと考えるだけで、その場に倒れてしまいそうだ。
どうやって部屋に戻ってきたのか覚えていない。気づけばラティは卓の前の椅子に座っていて、唖然と宙を見つめていた。
いつも身の回りの世話をしてくれる女官が入ってきた。丁寧に頭を下げて、ラティに告げる。
「ラティさま、神殿長のご命令でまいりました。塔移りの準備をいたします」
「準備……もう?」
「一刻も早く準備を整え、北の塔へお移りになるようにとのお言葉でございます」
先ほどその話を聞いたばかりなのに、もう準備に着手しなくてはいけないとは。ラティは思わず椅子から立ち上がり、そんなラティを女官は驚いたように見た。
「ラティさま?」
「いいえ……」
準備とは言っても、ラティの持っているものはほとんどない。何枚かの着替えと髪を梳く道具、爪の手入れをする道具に――あのメダイ。
ラティは慌てた。準備の手伝いをすると言った女官は、ラティを不思議そうに見た。
「自分でやるから、いいわ!」
「ですけれど、ご自分でとおっしゃいましても……」
自分の身の回りのことを自分でするなど、姫巫女の身分にふさわしくない。そう言われることはわかっているが、ラティは首を左右に振った。
「いいから、手伝いがいるときは言うわ。今日はもう下がってちょうだい」
なおも不思議そうに、女官はラティを見やる。しかしラティが重ねて退室を促したことに、もうひとりの女官とともに丁寧に挨拶をして部屋を辞した。ラティは大きく息をついて、メダイの入っている抽斗を見る。
(アストライアさま……)
北の塔に行ってしまったら、もう会えないかもしれない。そのことを思うと背筋がぞくりと震え、ラティはまた固唾を呑んだ。
(行こう、わたしから)
震える胸を押さえながら、ラティは自分にだけ聞こえる声で言った。
(わたしから、アストライアさまに会いに行こう)
決断するラティの声は、震えていた。握りしめた拳が、震える。
(二度と抜け出さないと約束したけれど……でも、北の塔に行く前にアストライアさまにお目にかからなければ。一生後悔するわ)
神殿から王宮への道は、覚えている。四年前のあの日、王宮の武闘場を目指して歩いたこと。あのとき皆に心配をかけて、二度と神殿を勝手に出ないことを誓ったけれど。
(行って、アストライアさまにお目にかかるだけ。お目にかかったら、すぐに帰ってくるわ)
北の塔に行ってしまう前に、アストライアに会っておかなければ。そうしなければ、姫巫女の任さえちゃんと勤められないと思った。
(行こう。アストライアさまに会いに……)
ラティは、衣の裾を引き上げた。腰のところで結んで、身動きしやすいようにする。ふと視線を抽斗の方にやる。
歩いていって、メダイを取り出した。細い紐を見つけ出し、メダイのてっぺんの小さな輪に通した。首からかけて、衣服の中にしまう。白い布も引き出した。頭の上からかぶって、髪と瞳を隠すようにする。
そして窓を乗り越えた。こうするのは四年ぶりだったからうまくできるかどうかは自信がなかったけれど、どうにか転がり落ちずに窓の外に出ることができた。庭園を通る者がないかまわりを見て確認し、そしていつもアストライアがやってくる以前と同じ道を抜けて、神殿の敷地を出た。
道の様子は、四年前に通った記憶のままだった。昔歩いたとおりに土の道があり、その道をラティは急ぎ足で歩いていた。
王宮に行く。アストライアに会う。しかし王宮のどこに行けばアストライアに会えるのか、ラティは知らない。知らないままに懸命に歩くのもあのときと同じだと思った。それでも部屋にじっとはしていられなかった。
こうやって歩いて、そしてアストライアのもとに行く。アストライアに、ともすれば最後になるかもしれない面会をする。その思いだけで、ラティは歩いた。
すれ違う者から髪と目を隠しながらの道は長く、足がずきずきと痛み出す。しかし声をあげることも、うずくまることもできない。そうやって誰かに声をかけられて、この髪と瞳を見られては神殿の姫巫女だとすぐにばれてしまう。ばれてしまって、連れ戻されることはいやだった。その前に、アストライアのもとにたどり着きたかった。
そうでなくても北の塔に移る直前のこの時期、神殿を抜け出したとなればどのような罪に問われるかもしれない。皆にも、以前以上の心配や迷惑をかけてしまうだろう。それは四年前の比ではないかもしれない。
それでもラティの足は止まらなかった。ラティの足はまっすぐ王宮に、アストライアのもとに向かう。ただ彼女だけを目指して進む。
すれ違うのは歩く者だけではない、馬の者もある。ときおり砂埃を立てて脇を行き過ぎる馬もいて、上がった砂埃にラティは咳き込んだ。目に砂が入ってしまい、何度も目をしばたたかせる。衣服についた砂を払い、なおもラティは歩いた。
(あ、……?)
横を通り抜けた馬があった。白い差し毛のある栗色の馬は、最初はラティの横を行き過ぎた。しかしすぐに戻ってくる。
馬上の者が、ラティを覗くようにしてきた。ラティはことさらにかぶった布を深くして、顔を見られないようにした。しかし馬に乗った男はなおも訝るように、ラティを覗き込んでくる。
(いやだ、あっちに行って……!)
全身で男を拒否しながら、ラティはなおも歩く。しかしいくら早足で歩いても馬を撒けるわけはなく、男は馬を歩かせてラティについてくる。
(何かしら、この人……早くあっちに行ってくれないかしら)
そこに、もう一頭に乗った男が現われた。彼らが互いに目を見交わすのをラティは見た。何ごとかと身を固くしたのと同じに、馬の男がラティに声をかけてきた。
「姫巫女」
(ばれた……!)
ラティは立ち止まってしまう。男たちは馬を下り、ラティの前にひざまずいた。まわりの者たちが、何ごとかと足を止めて三人を見ている。
「姫巫女、お捜しいたしました。どうぞ、神殿にお戻りを」
「皆が待っております」
(つかまってしまった……)
ラティは絶望した。アストライアに会う前に、つかまってしまった。ぎゅっと、ラティは目をつぶる。男はラティに手を差し出してきて、それをラティが取るのを待っているようだ。
「馬にお乗りください。神殿まで、お連れいたします」
「姫巫女、お早く。神殿長もお待ちしております」
ふたりは声を揃えて、ラティを急かす。ラティは手を出せなかった。彼の手を取れば、二度とラティは神殿から出られない。これからは北の塔での勤めに励む毎日が待っていて、そこにはアストライアの姿はなくて――。
(そんなの、いやっ!)
ラティは身を翻した。そのまま道を走り出す。男たちの驚く声が背後に聞こえたが、ラティは足を止めなかった。懸命に走り、しかしすでに疲れた足はうまく動かずに、その場に転んでしまう。拍子にかぶった布が取れて、ラティの銀の髪がこぼれ落ちた。
「姫巫女!」
「神殿の姫巫女じゃないのか、あれは?」
まわりの者が騒ぎ出す。馬の男たちはすぐに追いついて、しかし彼らは今度はひざまずかなかった。
「素直にお戻りいただけないときは、無理やりにでもと仰せつかっておりますので」
「失礼をお許しください」
ひとりがラティの手を伸ばす。いきなり背と膝の裏に腕を伸ばされ、抱きあげられた。
「な、何をするのっ!」
「姫巫女が、お逆らいになりますので」
どこか無礼な物言いで、男は言った。そのまま馬の上に抱え上げられ、ラティは手足をばたばたさせる以外抵抗の術はなくなってしまう。
「おとなしくなさいませ。お逆らいになるときは、縄で縛ってもいいと仰せつかっております」
(縄で……?)
ラティは思わず身を強ばらせた。男はラティを馬にまたがらせ、来た方向を戻り始める。もうひとりの男も、ラティが飛び降りて逃げるのを警戒するように、ぴったりと横についたままだ。
(縄で縛ってなんて、穏やかじゃないわ)
逃げたくても、男の両腕が体の横に回っている状態では逃げようがない。ラティが馬の前に座り、その後ろに男が座っている体勢は、以前アストライアに遠乗りに連れていってもらったときを思い出したが、あのときと今では状況が違いすぎる。
(わたしは、逃亡したことで連れ戻されるのよね……?)
ラティを乗せた男はまっすぐに前を向いて、ラティが話しかける余裕もない。その表情は、単に逃げ出した姫巫女を連れ帰るというには険しすぎるような気がする。
(本当にそれだけなのかしら。何だか、罪人でも引っ立てるみたいな……)
その考えに、ぞっとした。確かにラティは、こっそり神殿を抜け出した。自分のしたことが決して褒められたことではないのは承知の上だ。罪に問われるのも覚悟の上だ。しかし縄をかけてでも連れて帰れとは、あまりにも穏やかではない命令ではないだろうか。
(何かほかに……何かがあるというの?)
いやな予感が、体を走る。ラティはぞくりと身を震わせた。そんなラティに気づいているのかいないのか、男たちはまっすぐに前を見たまま、馬を走らせる。
神殿の、白い建物が見えてきた。
ラティを見つけた男たちに連れられて、ラティは神殿に入った。連れていかれたのは懺悔の間で、なぜここに自分が連れてこられるのか、ラティには理解できなかった。
そこに待っていたのは神殿長だ。彼は険しい顔をしてラティを見つめ、重々しく口を開いた。
「姫巫女。お逃げになっても、無駄でございます」
彼の口調は、尖っていた。神殿長のそれほどに尖った口調をラティは聞いたことがない。体の真ん中に、冷たい杭が刺さったような気がした。まっすぐに背筋を伸ばして立つラティを、神殿長は口調以上に厳しいまなざしで見つめている。
「姫巫女の秘密を今まで存じ上げなかったのはわたしの不覚、しかしそのことが明らかになった以上、姫巫女をとらえることもやぶさかではございません」
「秘密……?」
ラティは、大きくまばたきをした。ラティは、逃亡の罪でとらえられたのではなかったのか。しかしラティをとらえた男たちが言っていたこと――ラティを縄をかけてとらえることも許されているということ――を思い出した。
(わたしの、秘密?)
ラティは胸に手を置く。そして思い当たったことにはっと息を呑んだ。
(メダイのこと……?)
ヘタイラは言っていた。メダイを誰にも見せてはいけない、誰にもその存在を知られてはいけない。だからメダイはからくり仕掛けの抽斗の中にしまわれて、誰の目に触れることもなかったのだ。このメダイのことを知っているのは今は亡きヘタイラとラティ、そしてラティがメダイを見せたアストライアだけ――。
「姫巫女は、獄舎につながれる」
重々しい声。聞いたことのない口調で、神殿長は言った。
「異教徒と知れた姫巫女は、この神殿にはふさわしくない。しかし仮にも姫巫女の任にあった者。獄舎に連れ行かれる前に、この場で懺悔を。なぜ異教徒であることを隠して、姫巫女として人々を欺いてきたか」
「異教徒、ですって――?」
ラティは驚愕した。その場にへたり込みそうになり、慌てて足に力を入れる。ふとあたりを見回した。神官に神殿女官、皆見知った顔ばかりだ。それなのに皆、今までラティに向けてくれていた表情ではない、何か恐ろしいものを見るような目でラティを見ていて、そのまなざしにもラティは震えた。
「異教徒、ですって……わたしが?」
そう問うラティを、神殿長は睨みつけた。ラティのもとにつかつかと歩み寄り、目の前に手を突き出された。
「姫巫女は――否、姫巫女であった者。そなたはメダイを持っているだろう。異国の神の顔の彫られた、メダイを!」
(やっぱり、メダイのこと……?)
下半身から力が抜け、ラティはその場に座り込んだ。しかし誰もラティを助けない。ラティは思わず胸に手をやった。そこにはラティが紐を通して首にかけたメダイが収められている。
「わたしは、異教徒ではありません。信仰しているのは、アウェルヌス神ただひとり……」
「その穢れた口で、アウェルヌス神の名を口にするな!」
神殿長は、ラティのもとに乱暴な歩調で歩み寄ってくる。彼はラティの肩を押さえた。思いのほか強い力に、ラティはひるむ。神殿長の指はラティの首に触れ、紐ごとメダイを引き出した。神殿長の表情が変わる。
「これだ。異国の神の、メダイだ――!」
ざわめきが走る。皆口々に恐ろしいものを見たと声をあげ、しかしそれは神殿長の一喝で鎮まった。震え上がるような沈黙が、あたりに広がる。
憎々しげに、神殿長は言った。
「このようなものを、よく今まで隠し持っていた。我々を裏切り、姫巫女という自分自身の身分さえも裏切り、このようなものを……!」
神殿長は、メダイが焼けた石でもあるかのように床に叩きつけた。かちゃん、と音がしてメダイが転がる。ラティは反射的にメダイを追いかけて拾おうとしたが、注がれる視線の強さに、はっと顔をあげた。
「背信者……!」
吐き捨てられた言葉は、ラティの指先までを凍らせた。ラティの手はメダイを追いかけた形のまま固まったように動かなくなった。がたがたと震えた、自分でも動かせない。
(こんな、恐ろしいことになるなんて……)
震えながら、ラティは考えた。
(だからヘタイラは、メダイのことを誰にも言ってはいけないと言ったのだわ。異教徒だと……背信者だと思われて、このような……このように、恐ろしいことになるから……)
しかしメダイのことは、誰も知らなかったはずだ。ラティが留守の間、何らかの方法で抽斗のからくりが解かれ、中身を見られてしまったというのならわかる。しかしラティは、メダイを身につけていた。それなのになぜ、今この機にメダイのことが皆に知られることになってしまったのだろう。
(どうして? どうして今なの?)
ラティは懸命に顔をあげた。嫌悪に顔を歪ませている神殿長に向かって、やはり震える声で心のうちを口にする。
「どうして、メダイのことを……」
「王女殿下のおっしゃっていたとおりだ」
ラティには答えず、神殿長は言った。
「姫巫女は異国の神のメダイを持っていると、異教徒だと。王女殿下のお話しのとおりだ」
(王女殿下、ですって――?)
(王女殿下……、アストライアさま……?)
いきなり出てきた名に、ラティは驚愕した。大きく目を見開き、神殿長を見る。
「王女殿下にお知らせいただかなければ、いつまでも欺かれているところだった。こんな、異国の神を信仰する姫巫女など――!」
神殿長の、サンダルを履いた足がメダイを踏みつける。ラティは悲鳴を上げた。それに、懺悔の間にある者すべてがラティを注視した。まるで穢らわしい者でも見るかのように。そのうちの何人かは、近くにさえいたくないとでもいうように、すぐに目を逸らせてしまった。
(アストライアさまが、わたしが異教徒であると告発した……?)
(なぜ、アストライアさまが?)
その考えが、ラティの頭をぐるぐる回る。
(メダイを見せたとき、確かにアストライアさまは異教の神だと言って、少し恐ろしそうな顔をされた。けれどこれはわたしの守り神だといって、返してくださったわ)
(丁寧に……わたしの大切なものだといって、しまっておくようにおっしゃってくださったのに)
床に座り込んだままのラティの後ろに、男がふたり立った。警備兵だ。その腕はラティの倍ほどの太さで、ぐいとラティの両腕を掴んだ。
「痛、っ……!」
ラティは呻いた。しかしラティの呻きなど頓着しない彼らはラティの腕を掴んで引き上げ、立ち上がらせた。ラティはよろよろと床に立つ。
顔をあげると、神殿長がラティを睨んでいるのが目に入った。まるでラティの全身に『異教徒』との文字が彫り込まれているとでもいうように。ラティのすべてが、彼に嫌悪を抱かせるというように。
神殿長だけではない。今まで世話をしてくれた神殿女官たち、祭祀のたびに顔を合わせた神官たち。彼らがすべて、ラティに嫌悪の表情を向けている。ラティを憎むように、ラティが視界の中にいることを嫌がるように。
(ああ……)
今まで親しんできた者が、手のひらを返したように敵となってしまったことを知って、ラティの体から力が抜ける。しかし警備兵の腕はラティを離さない。腕だけでつり下げられるような格好に、ラティはまた悲鳴を上げる。
(アストライアさま……!)
今のラティを支えるのは、その名だけだった。アストライアの名がラティを助けてくれる、アストライアのことを思えば耐えられる。しかし先ほど神殿長が口にしたことが、脳裏を過ぎった。
(アストライアさまが、わたしのメダイのことを告げた……?)
ラティは腕を引かれ、引きずられるように懺悔の間を出た。いつも歩く回廊ではない、裏口を通って出たところには神殿の外で、木を打ちつけただけの箱馬車と、警備兵が三人いた。
そのうちのひとりがラティを後ろ手に縄で縛る。ぎりぎりと食い込む縄の強さに、ラティは悲鳴を上げる。しかしその悲鳴に頓着する者はない。ラティが痛いだろうなどと気遣ってくれる者は誰もなく、ラティは罪人そのものにとらえられ、粗末な馬車に乗せられた。
(なぜ、アストライアさまが……アストライアさまは、どうしてわたしを……?)
(アストライアさまが、わたしを裏切った……?)
神殿長の厳しい声も、神殿女官や神官たちの冷たい視線も、警備兵のぞんざいな扱いも、しかしその衝撃の上を行くものではない。
アストライアが、ラティを裏切ったのかも知れない。こうやってラティがとらえられることがわかっていて、それなのにメダイのことを告げたのか――。
(どうして、アストライアさま……?)
その思いばかりが、ラティの脳裏を駆けめぐる。
ラティの連れ行かれたのは、神殿から半刻ほど行ったところにある獄舎の塔だった。
厳しい声をかけられて、馬車から降ろされる。後ろ手に縛られたままのラティは、獄舎の塔の寒々しさに身震いした。神殿の白さとは対照的に、陰気な色をした石を積み重ねて作られた塔は昼なお冷たくそこに建っている。
警備兵が縄を引き、ラティは石の門をくぐる。引きずられるように冷たい石の廊下を歩き、小さな扉の前でとまる。
扉の向こうは、小さな部屋だった。窓は小さく差し込む光は少なく、建物の外観以上に冷たい様子にまた大きく身を震う。
その部屋に押し込められるように、ラティは背を押された。後ろ手に縛られた縄はほどかれたが、目の前で扉が閉まる。そしてラティは、ひとり石の独房に残された。がちゃん、と乱暴な金属の音がする。
(こんな、場所……)
今までいた部屋とはまったく違う。独房の中には何もなく、ただ隅に用を足すための道具と乱雑にたたまれた毛布が置いてあるだけだ。顔をあげなくては窓の外も見られずに、しかもわずかに空が見えるばかり。
「出して……!」
ラティは扉に駆け寄った。扉に手をかけ、力を込めて揺らす。
「ここから、……出して!」
しかし表から錠でもかけられたのか、扉はがたがたと空しい音を立てるばかりだ。響く音はこのような場所に閉じこめられる恐怖をいや増して、ラティは震えた。その場に座り込むと、石畳の冷たさが直接上がってくる。
(こんなところで、こんな……)
石の冷たさに震えながらも、ラティは立ち上がることができない。片手を扉にかけたまま、ただそこに座っていた。
もう何日が経ったのか、ラティから時間感覚は失われていた。
扉が開けられるのは日に二度、食事のときだけだ。最初のころは、その数を数えてもいた。数を数えて何日経ったのか記憶していたのに、しかしもうそれもおぼつかなくなった。
もう何日が経ったのか、いくつの曜日が過ぎたのか。ラティの脳裏はぼんやりと、徐々にものを考える力も失われていってしまっているようだ。
(なぜ、わたしはこのようなところに……)
そんなことを考えることもある。どうして見慣れないこの、陽の差さない小さな独房で、体を清めることも許されずに、日がな一日座っているだけなのか。なにひとつ心を慰めるのものないこの部屋で、巡る考えに身を委ねているだけなのか。
(そう、わたしは異教徒との疑いで……)
そのことを思い出す。そのことが頭を貫くたびに頭はきりきりと痛み、続く名前に息もできなくなるような気がする。
(アストライアさま、が……)
なぜ彼女は、ラティが異教徒であると告げたのか。どうしてこのような場所に追い込んだのか。どうして、なんのために。
(アストライアさまが、わたしが異教徒だと……)
ラティは深く、長く続く息を吐いた。
(アウェルヌスの神を裏切っていると。私が、裏切り者だと……!)
また、頭が痛む。きりきりする頭を抱えて、ラティはその場にうずくまった。
(アストライアさま、アストライアさま……)
その、愛おしい名前。このような場所では、アストライアにも会えない。北の塔どころの騒ぎではない。
それでも、この状況を作り出したのはアストライアなのだ。その名の主が今のラティの苦しみを生み出している。いつもラティに幸福をくれたアストライアが、今のラティの不幸を作り出している。だとすればラティはもう、何をよすがに生きていけばいいものかもわからない。
(わたしは、どうなるのかしら……)
また、思考はぐるぐると巡り出す。この狭い独房、迫るようにそびえる壁はラティを追いつめ、脅えさせ、暗い考えに導き出す。
(この先、審問にかけられるのかしら。異教徒として裁かれて、そしてその先――?)
その考えに、ラティはぶるりと身を震わせた。自分で自分の体を抱く。そんな自分のぬくもりでさえ、今は慰めだった。自分がまだ生きていると感じさせる、自分の体温。この石の床ではその体温さえも奪われてしまうけれど、それでもそれが自分自身を確かめる唯一の方法だ。
(アストライアさま……)
気づけば、その名前を口にしている。気づけばアストライアのことを思い描いている。ラティを今のこの状況に追い落としたのはアストライアなのに、それでもラティはアストライアに抱く気持ちを消してしまえない。アストライアの名に、愛おしい思いを抱くばかりだ。
(なぜわたしを、異教徒だなどと……?)
アストライアに会いたい。その真意を尋ねたい。
(どうして、なぜ……?)
またラティは、大きく震えた。自分の体を抱いて、ぎゅっと目をつぶった。
ぎぃ、と音がして扉が開いた。
あたりは闇だ。真夜中の冷たさの中、ラティは眠っていた目を開けた。くるまった毛布の中、音のした方向にはっと目を向ける。
(誰……こんな夜中に)
入ってきたのはひとりではない。ふたつの姿が、わずかな月明かりの中に見える。この狭い独房の中、ふたりの影はすぐにラティのもとに近づいてくる。
「きゃ、……っ!」
ラティは腕を取られた。強く握られて、眠りの中にあった意識は一気に覚醒する。無理やり起きあがらされて、ラティは声をあげようとした。
「騒ぐな」
しかし、乱暴な手はそれを許さない。後ろから口を強く塞がれる。そのまま体を押し伏せられて、仰向けに石の床に転がされた。
「な、に……!」
口を押さえる手は強い。息ができないどころか、顔を無理やりねじ曲げられてしまうような痛みがある。必死にその手に抗いながら、ふたりの顔を見ようとした。
はっきりとは見えないがふたりとも男性で、まとっている衣装から、獄卒のうちのふたりであろうことが見て取れる。
「おとなしくしろ、異教徒が」
男は、荒れた声でささやいた。その言葉に、ラティは大きく震えた。
「本当なら、獄舎に入ることもなく即刻打ち首だ。姫巫女だったことが、幸いしたな」
(なに、何なの、いったい……!)
そう問いたくても、声にはならない。ラティは冷たく固い床の上に押しつけられて、その痛みに呻いた。そんなラティを侮るように、男たちは続ける。
「姫巫女か。うまいものを食ってきれいな衣を着て、神に祈っていればいいだけの羨ましい身分だ。こんな目にあったのも、その報いに違いない。いい気味だ」
男たちの悪しざまの口調に、ラティはの震えは大きくなる。彼らがラティに敵意を持っていることは明らかだ。しかし男たちの、強い腕からは逃げられない。
ひとりはラティの両手首と口を、ひとりはラティの両足を押さえている。足を押さえた男の手が、ラティの衣装にかかった。長いこと閉じこめられて垢じみた布を、乱暴にぐいとめくりあげた。
「や、ぁ……っ!」
声をあげた。ラティの白い二本の足が剥き出しになる。そこでやっと、男たちの意図に気がついた。彼らは、ラティを凌辱するつもりなのだ。自分の迂闊さに歯噛みするが、それでも強い力の前、ラティには抵抗の術などない。
「やめ、っ……、!」
攻めての抵抗にあげたラティの声は、男の手の下でくぐもってしまう。男はラティの足を持ち上げる。足を開く格好を取らされて、ラティは暴れた。男の強い力の下ではラティの抵抗など微々たるものだったが、それでもなすがままになるわけにはいかなかった。
(助けて……!)
胸の奥から声を絞り出す。男の手が、内腿に触れる。撫で上げてくる。それにぞっと震えながら、ラティはなおも叫び声を上げようとした。
(助けて、アストライアさま……!)
とっさに洩れた名は、ラティの心を救ってくれるものだ。アストライアの名をつぶやくだけで、このような場においても落ち着きを取り戻せるような気がした。男たちの手から逃れられる方法を見いだせるような気がした。
ラティは、渾身の力を足に込めた。足に手をかける男の手を蹴り上げると、男は驚いたように手を離す。その隙に体をよじろうとしたが、しかしもうひとりの男の手がそれを許さなかった。
「暴れるな、この女……!」
いきなり頬を殴られた。口の中が切れたのか、血の味がする。殴られるなど初めてのことで、その痛みにラティは呻いた。
「おとなしくしてろ、異教徒のくせに抵抗なんてしやがって」
「かわいがってやるんだ、ありがたく思え」
男たちは口々に勝手なことを言い、改めてラティの体を征服にかかる。今度は手の力はいっさいゆるまず、ラティの骨が軋むほどの力を込めてラティを床に縫いつけ、衣服を剥がしていく。両足を大きく広げさせられる。ラティは大きく咽喉を仰け反らせた。
(アストライアさま!)
身をよじろうとして、また殴られた。懸命に両足を閉じようとしても、そうすればそうするほど男たちの手の力は強くなっていくようだ。
(アストライアさま、アストライアさま……)
扉の方から、何か音がしたような気がした。しかし今のラティには、その音の正体を考えている余裕はない。ただ自分を蹂躙しようとする男たちの手に抵抗して、体に力を込めることしかできない。ぎゅっと目をつぶり、懸命に暴れようとした。
「ぐ、ぁ……!」
ラティを組み伏せる男が、呻き声を上げた。ラティには何が起こったのかわからない。男の体から、いきなり力が抜ける。
自分の体の上に、男の体が落ちてきて驚いた。同時に両足を征服しようとしていた男の腕の力が抜けたことにも気がついた。
「な、に……?」
顔をひねって見上げると、そこには新たな人物の姿がある。わずかな月明かりに、短剣の刀身が光る。ラティは、唖然とその人物を見た。
「何だ、お前……!」
男たちの手は、ラティから離れた。短刀の主は素早く手首を返す。短刀の柄が男のひとり、続けてもうひとりのみぞおちを打つ。彼らはどうと石床に倒れた。短剣が床に落ちる。
「ラティ、怪我は!?」
声がかかる。強い腕に、ラティは抱き起こされた。
「アストライア、さま……」
目の前にあるのはアストライアの顔だ。彼女は大きく目を見開き、ラティの体を抱きしめる。アストライアの肩口で、ラティは大きく息をつく。
「まぁ、顔を殴られたのね! 許せないわ……」
「アストライア、さま……?」
なぜ彼女がここに。アストライアの腕に抱きすくめられながらもそのことが信じられなくて、ラティはぼんやりとアストライアを呼んだ。アストライアはうなずき、また抱きしめてくる腕を強くする。
「まさか、お前がこんな目に……」
アストライアは、ラティにしがみつく。ラティは、掠れた声で尋ねた。
「どうして、ここに……」
「お前に会わなくてはいけないと思って」
どこか思い詰めた口調で、アストライアは言った。
「話をしなくてはいけないと思って。だからお前に会おうとしたのに、なかなかその機がなかったの」
「なぜ、今夜……」
なぜ、アストライアはラティの危機にやってくることができたのだろうか。なぜ、ラティの犯される直前に現われることができたのだろうか。
そのことを問うと、アストライアは小さく笑う。
「それは、偶然よ」
アストライアは苦笑いをした。
「でも、この偶然を神に感謝するわ。わたくし、どんなに驚いたか……お前が、この」
言って、アストライアはかたわらに倒れている男たちを睨みつける。その強いまなざしで、男たちの体を焼いてしまおうというようだと思った。
「獄卒なのに、任を忘れてこのような振る舞い……」
「アストライアさま、まさか」
殺してしまったのだろうか。かたわらに落ちている剣には、血は着いていないようだけれど。
アストライアは首を、左右に振った。
「殺してはいないわ。剣の柄で急所を突いて、気を失わせただけ」
「そんなこと……」
いったいどうすれば、そのようなことができるのだろうか。しかしそのようなことは今はいい。今のラティのすべては、目の前にアストライアにある。彼女の腕に抱きしめられて、ラティは緊張した体の力が徐々に抜けていくのを感じていた。
「辛い思いをさせたわね、許して」
そう言って、アストライアは頬ずりをしてくる。頬に、そして唇にくちづけられた。
「アストライア、さま」
彼女の腕に甘えてすがって、しかしラティを貫くある事実があった。
優しくラティを抱きしめてくれるアストライアは、ラティを裏切ったのだ。裏切って、ラティがこのような場所に閉じこめられるきっかけを作ったのだ。獄卒たちに襲われたのも、もとはといえばアストライアがラティを異教徒だと告発したことが原因なのだ。
(アストライアさま……)
ラティは、腕を伸ばした。アストライアの腰に手を回し、ぎゅっと抱きつく。
アストライアの裏切りのことを思い返しても、ラティの胸に浮かぶのは愛おしいとの思いばかりだ。抱きしめられて彼女の体温を感じ、抱きしめられる力を感じて。その感覚はすべて、ラティの身のうちに沁みていく。
「アストライアさま……!」
ラティはそう叫び、アストライアにすがりついた。腕に力を込めてさらに強く抱きつく。アストライアもそれに応えてくれた。彼女の腕は背にまわり、ぎゅっと抱きしめてくれる。
アストライアの温度を直接感じ、ラティは大きく息をついた。ここに閉じこめられてからの苦しみも憂いも悲しみも、すべてが洗い流されていくような気がする。
「まぁ、お前。泣いているの」
「だって、アストライアさまが……」
(アストライアさまが、来てくださるなんて)
(いったいどこからいらしたの? ここは獄の塔なのに……いいえ、そんなことはどうでもいいわ。ただ、アストライアさまがここにてくださるのなら)
アストライアは、もう一度ラティを抱きしめてくれた。そして耳もとで、小さくつぶやく。
「お前に、言っておきたいことがあるの」
「何、ですの……」
ラティはごくりと、固唾を呑んだ。
「お前が異教徒としてとらえられたこと。こんなところに閉じこめられたこと。そのことに関してよ」
抱きしめる腕から少し力を抜き、アストライアは息をついた。そして言葉を綴り出す。
「わたくしが、お前を異教徒として神殿に訴えた。それは本当よ」
「あ、……」
ラティは大きく目を見開く。アストライアの腕の力がゆるみ、ふたりの間には距離ができた。彼女と視線が合う。アストライアは少し目を伏せて、後悔を見せる表情をしていた。
「でもね、違うの。お前をこんな目に合わせたくて、そうしたんじゃないわ……!」
「なら、どうして……」
ラティの問いに、アストライアはいたたまれないというような表情を見せた。
「お前が北の塔に入ると聞いたのよ。あのような場所、さすがのわたくしも入ることはできないわ。このままお前に会えなくなってしまう。それが恐ろしくて、だから考えたの」
低い声で、アストライアは続けた。自分の行いを悔いるように。
「お前が異教徒だと認められれば、姫巫女の任を解かれると思って」
子供のような口調で、アストライアは言う。ラティは驚いて、アストライアを凝視した。
「お前は、姫巫女であることの不自由さを歎いていたわね。姫巫女でなければ、わたくしと一緒にいられるのにと言って。お前が姫巫女の任を解かれさえすれば、その不自由さもなくなるのにと、わたくしはずっと考えていたの。お前が北の塔に行くことが、この期だと」
アストライアは、大きく息をついた。そのため息は自分自身に呆れ、自分自身を責めるようだと思った。
「お前が姫巫女の任を解かれれば、わたくしが身柄を預かるつもりだった。お前をわたくしの侍女にするつもりだったのよ」
「そのようなことを、お考えに……?」
唖然と問い返すラティに、アストライアはうなずいた。ラティの手を取り、ぎゅっと握りしめる。
「けれど、わたくしはあまりにも浅はかだった……あまりにも浅はかだと気がついたときには、何もかもがわたくしの手の届かないところで行われてしまって。お前はとらえられ、このような場所に閉じこめられて……何度も面会の申し入れをしたの。それなのにわたくしの申し出は却下されて」
「では、今夜はどうやっておいでになったの?」
ラティが尋ねると、アストライアはほんの少し、いたずらめいた表情を見せた。肩をすくめて、つぶやく。
「獄卒のひとりに、金貨を握らせたのよ。ほんの少しの時間という約束でね。こんなことになっているなんて、思いもしなかったけれど……」
息をつきながら、アストライアはかたわらを見る。アストライアが剣の柄で気絶させたという獄卒たちは、まだ気がつく様子を見せない。アストライアは、彼らを睨みつけながら言った。
「お前を早く出してやりたいの。お前はこのような場所にいるべきではないわ。わたくしの迂闊さで、お前に辛い思いをさせてしまった。その償いをさせてちょうだい」
アストライアは、ラティの手を引く。立ち上がらせようとするアストライアにつられて足を上げたラティは、ふと足もとを見た。
粗末な独房。陽の差さなくて湿っぽい、不健康な居室。ここから出られるのなら、確かに今すぐにでも出てしまいたいけれど。
(このままアストライアさまのお手を取って、ここからこっそり抜け出して……そして?)
そのようなことをしていいのだろうか。ラティの胸に、不安が過ぎる。
「ここにいれば、わたしはこれからどうなるのでしょうか……?」
ラティは尋ねた。アストライアは眉を曇らせる。
「審問にかけられるわね」
その声は重々しく、審問がどのようなものかわからないラティにもその恐ろしさを感じさせた。
「その上で、異教徒だということが認められでもしてしまえば、首を落とされるわ」
「でも、わたしは異教徒ではありませんわ」
ラティは思わず、声をあげた。ラティの体に回した腕に力を込めて、アストライアはうなずく。
「それはわかっているわ。でも、審問員たちがそれを信じてくれるかどうかはわからない」
「ええ、わかりませんわ。でも……」
ラティは、異教徒ではない。ラティの信仰するのはアウェルヌス神のみ。その真実を前に、審問ではそのことを繰り返すしかない。言を尽くせば通じるはず――ラティはそう信じるしかない。
「お前を姫巫女として扱う者は、もういない。姫巫女でありながら異教徒だったということで、ほかの異教徒よりももっとひどい目にあわされるわ」
深く眉間に皺を刻み、アストライアは言った。ラティの手を取って、ぎゅっと握ってくる。そのままラティを連れ出そうというように、力を込めてきた。
「でも、わたしは。信じてもらうほかありません」
ラティは取られた手を握り返す。信じてもらうしかない。それ以外にラティには、かけられた異教徒という疑いを晴らす方法はない。そして、その信を得るためには。
ラティは、アストライアとつなぎ合わせた手をそっと離した。そのことに、アストライアは驚いたようだった。
「わたし、アストライアさまとはまいりません」
そう言ったラティに、アストライアは驚いた表情をした。
「どういうこと? なぜここから逃げないの?」
「逃げてはいけないと思いますの、わたし」
異教徒と疑われることと、もうひとつ。ラティはもうひとつの罪を犯し、その罪を問われることを恐れた。
「わたしは、罪を犯してはいけないと思いますわ。逃亡の罪を……」
ラティは、アストライアから一歩退く。追いかけるアストライアは、大きく目を見開いてラティを見ている。ラティは、低く息を呑んで言った。
「アストライアさまのお手引きとはいえ、獄舎から逃げたとなれば、罪に問われることは間違いがないでしょう?」
以前、剣術の大会に出るアストライアの姿が見たくて神殿を抜け出したときとは違う。異教徒との疑いを晴らさないうちに新たな罪を犯せば、そのことが審問にどんな影響を与えるかわからない。
「その罪ゆえに、二度とアストライアさまに会えなくなる方が、辛い」
ラティの言葉に、アストライアは驚きの表情を浮かべたままだ。居心地が悪くなるくらいにじっと見つめられ、ラティは思わずうつむいてしまう。
アストライアは、言うべき言葉を探しているようだ。ラティを見つめたまま唇を薄く開き、ややあって、彼女の口からは吐息が洩れた。
「そうね、お前の言うとおりだわ」
ため息とともに、アストライアは言った。
「お前をここから逃がしては、確かにそれは逃亡の罪だわ。お前は本当に異教徒ではないのですもの。その疑いを晴らすことが肝要なのだわ」
そこまで言って、アストライアは頭を垂れた。
「わたくしが、よけいなことを言ったからなのね。だからお前をこんな目に合わせて……」
そして何度も、首を横に振る。自分自身に呆れたように、彼女は息をつく。
「だめね。お前のこととなると、わたくしはつい考えなしになってしまって」
「そんな、アストライアさま」
つないだ手を握りしめる。アストライアの顔を覗き込んで、ラティは微笑みかけた。その笑顔にアストライアは驚いたようだった。
「来てくださって、嬉しかったですわ。アストライアさまのおかげで、わたしは力を得ました」
見開かれたアストライアの青の瞳に向かって、ラティはなおもにっこりと笑顔を作る。
「わたしは、異教徒ではありません。だからわたしは胸を張って、審問に向かいますわ」
「ラティ……」
じっとラティを見つめてくるアストライアの表情は、ラティに力をくれた。いつもはラティがアストライアに驚かされてばかりだけれども、このたびは逆なのだと、ラティがアストライアの驚くことを言ってのけたのだと、そのことにラティは奮い立つように感じた。
「それから、どうなるのかはわかりませんけれど……アストライアさまはわたしが異教徒じゃないこと、信じてくださいます?」
「もちろんだわ」
両手でラティの手を握り、アストライアは何度も大きく頷いた。
「わたくし、お父さまにも言っているの。お前が異教徒だっていうのはわたくしの間違いだったって……でもお父さまは、審問も経ずにわたくしの言葉だけでお前を許すわけにはいかないって。だからわたくし、焦れてここまでやってきたのだけれど」
アストライアの手は、温かい。そのぬくもりに身を委ねながら、ラティはうなずいた。
「審問の場がどういうところかはわかりませんけれど……わたし、その場で恐れずに話しますわ。わたしは異教徒ではないって……。だって、本当にそうなのですもの。疑いは晴れるはずです」
ラティは手を伸ばす。アストライアの背に手を回し、抱きついた。こうやって自分から抱きつくことは初めてだったけれど、胸を高鳴らせながらも彼女に身を委ねた。
アストライアの胸に額を押しつけて、ラティはつぶやく。
「わたしが姫巫女の任を解かれれば、本当におそばに置いてくださいます?」
「当たり前よ……」
胸に抱いたラティに回す腕に力を込めて、アストライアは言った。
「……その日を、待ってるわ」
アストライアはそうつぶやき、ラティを抱きしめる腕に力を込める。そして、はっとしたように顔をあげた。
「時間だわ。看視が来る」
ラティの肩に、アストライアの手がかかった。惜しむようにそっと遠のけられ、ラティは小さく息をつく。
アストライアは、ラティの肩を引き寄せた。くちづけられる。柔らかい唇はそっと重なってきて、唇を合わせる愉悦にラティは溺れた。
唇はすぐに離れてしまう。それを惜しく思いながら、アストライアと体を離した。アストライアは未練を残すようにラティの肩に置いた手に力を込め、そして遠のける。
「お前は、勇気ある者だわ」
つぶやくように、アストライアは言った。
「お前がそんなふうに言うなんて、思わなかったの。わたくしはお前のことを、よく知らなかったのかもしれない」
「呆れられました?」
少し戯けて尋ねると、アストライアは大きく首を振る。彼女の金色の髪がきらめいた。彼女の浅紅の唇が、動く。
「愛してるわ、ラティ」
アストライアは、目をすがめてそう言った。その言葉に驚くラティを残して手を離し、体を離す。そのまま遠のき、踵を返して扉を抜けてしまう。
(あ、アストライアさま……!)
残されたラティは、唖然とアストライアの去ったあとを見た。体が反射的に追いかけようとしてしまい、慌てて踏みとどまった。
(アストライアさま、何を……)
アストライアは、何という言葉を残していくのか。以前、くちづけを落とされたときと同じくらいに体が燃える。
自分の顔が赤くなっていることがわかっていた。顔だけではない、ともすれば体温も上がっているかもしれない。アストライアの言葉ひとつに煽られる自分の反応を恥ずかしく思いながらも、彼女にその言葉を向けられたことを何よりも嬉しく思う。
立ち尽くすラティの耳には、アストライアと獄卒が話すのが聞こえた。何を話しているのかはわからないが、アストライアの声はすぐに去った。
獄卒は、慌てた足取りでラティの独房にやってくる。アストライアに金貨を掴まされたという獄卒だろう。床に倒れ伏せたままの仲間を見て驚いた顔をしたが、彼らを引きずり出して、また外から錠を下ろされる。がちゃん、と大きく音が響く。
鍵のかかる音は、今までのようにラティに恐怖を与えはしなかった。今のラティは、勇気に満ちていた。審問がいつあるものかわからないけれど、どんな恐ろしいものであっても耐えられる。アストライアが裏切ったのではないということがわかったから。それどころかラティとともにいたいからこそのことであったこと――その短絡さはアストライアらしくないと思ったが、それだけに彼女の想いが強く伝わってくるように感じられた。
――愛してるわ、ラティ。
(アストライアさま……)
その言葉はこの冷たい部屋の中、胸の奥に咲いた一輪の花だ。その花をそっと両手で包み込み、ラティはさらなる勇気を奮い起こそうとする。
(審問がどのようなものかわからないけれど……)
その花に触れながら、ラティは考える。
(恐ろしくないわ。アストライアさまとともにいるためですもの)
大きく、ぶるりと身を震わせた。自分の腕に手を置き、ぎゅっと己自身を抱きしめる。そして目を閉じ、アストライアののしてくれたすべてを再び思い描こうとした。
審問の間は、大きな白い部屋だった。
広間の中央に、アストライアの立つ場所がある。そのまわりを囲むように十の席がしつらえられ、そこには今は、誰もいない。
そのまわりを囲む無数の席は、人で埋まっている。座る者たちは皆長い衣をまとっていて、かぶっている帽子の形から、審問に出席する神官に文官たちだということが推測できた。
彼らは遠慮もなくじろじろとラティを見、果たして姫巫女だった異教徒がどのような顔をしているのか、見届けようとでもいうようだ。
(こんな、たくさんの人たちの前で……)
その視線に、たじろがなかったといえば嘘になる。努めて自分を落ち着けながら、それでも下だけは向かないようにと彼らを見返して、その中にアストライアの顔を見つけた。
(アストライアさま……!)
彼女の姿に、ラティに視線は釘づけられた。
アストライアは文官たちの中に混ざって、不安げな顔をラティに向けている。アストライアがそのような表情をすることなど、考えてもみなかった。アストライアはいつでも自信に満ちた揺るぎない表情をしていて、凛々しく勇ましく、ラティを魅了してきたのに。
そんな彼女がそのような表情を見せていることに、駆け寄って話しかけたい衝動に駆られた。アストライアの姿があることに、ラティは力を得たのに。アストライアがいてくれるから、この先の審問に耐えられると感じたのに。それなのに、そんな表情をしないでほしい。微笑んで、もっとラティを力づけてほしい。
ラティは、低く息を吐く。足に力を込めて、アストライアにもらった勇気でその場にしっかりと立とうとした。
「十席の官がまいります」
声が響いた。はっとそちらを見ると、白い衣をまとった十人の男たちが広間に入ってきた。その中には国王、神殿長の姿もある。
彼らはそれぞれ席に着く。最後のひとりが椅子に腰を降ろすと、広間はしんと静まり返った。神官のひとりが立ち上がる。この審問の議の長である彼は、声高に述べた。
「姫巫女・ラティ。異教徒である罪状の裁きを、ここに始める」
審問が始まった。ラティは体中に力を込めて、その場に立つ。上ずる呼気を抑えながら、十の席の官たちを端から順に見つめた。
神殿長と目が合った。ラティとまなざしのかち合った神殿長は、かつての彼ではない。親身になってラティを姫巫女として教育してきてくれた人物だったのに、今はラティを糾弾するためにここにいる。
神殿長はじっとラティを見た。その目には恐ろしいものを嫌悪する色が浮かんでいる。長が言った。
「姫巫女・ラティ。その者、姫巫女の立場でありながら異国の神を信仰し、国と神殿を欺いていた旨、誤るところなしと明言する」
(誤るところなし、って……)
すでにラティが異教徒であるということは、認められてしまったというのか。ラティが異教徒であると皆が信じているというのか。逃れられない事実として、認識されてしまっているのか。
ラティは、声をあげた。
「わたしは……」
いきなりラティが声をあげたことに、広間の者は皆ラティを見た。視線を注がれることに、体中に緊張が走る。ラティは息を呑むと、言葉を続けた。
「わたしは、異教徒ではございません」
広間が、ざわりと揺れた。その場の者が皆驚いたような声をあげ、そのざわめきに押されて、ラティはよろめきそうになった。また足に力を込める。
そんなラティに、声がかかる。
「そのような言い逃れが通用してか」
嘲笑う声。
「では、あのメダイはどう説明する。異国の神が彫ってあるものを肌身につけて……それで異教徒ではないなどと、誰が信じると思っているのだ」
怒声。いろいろな声が飛び交い、広間は騒然とした。それを破ったのは神殿長だ。彼は立ち上がり、ラティを射抜くような口調で告げた。その口調に、ラティの背筋に震えが走る。
「お前の信仰する神の名を、答えよ」
(知らない、そんなもの……)
ラティは低く固唾を呑む。名前など、知るわけがない。仮に知っていても、メダイに彫られた異国の神は、ラティの信仰する神ではない。
声をあげる前に、大きく息を吸った。そして広間にいる誰もが聞き逃さないような、はっきりとした声で声高に言った。
「わたしの信仰するは、アウェルヌス神のみ。ほかの神はあり得ません」
ラティの言葉に、審問の場はざわめいた。
「その名を、軽々しく口にするな!」
神殿長は荒々しい声をあげる。目の前の卓を強く叩いた。
「異教徒だということが知れたから、逃げようとしたのだろう? このようなものを持って……」
神殿長に促され、十席のうちのひとりが取り出したのは、あのメダイだ。卓の上に置かれたそれは、鈍い輝きを放ってラティの目の前にあった。
「お前が異教徒でないというのなら、これは何だ」
「それは……」
ラティは固唾を呑んだ。ラティの答えを待つように、広間はしんと静まり返る。
「それは、わたしの母が持たせてくれたもの」
震える声で、ラティは言った。声がうまく出なくて、二度同じことを繰り返した。
「母の形見として持っているもので、他意はありません」
ラティの言葉に、その場は揺れた。十席の官の者たちが声をあげる。
「母? 姫巫女の母のものだというのか」
「姫巫女の母だと?」
ラティが口にした内容は、よほどに意外なものであったらしい。神官や文官たちも動揺したように、口々に言葉をこぼした。
「姫巫女は、その生みの母と顔も覚えていないころから離されているはず」
「それなのに未だこのようなものを持ち、母を慕っているとは?」
「そのような者が、姫巫女として今まで崇められてきたとは」
「そのように甘えた者が、姫巫女だとは……あり得ない。あってはならない」
その言葉を、ラティは消え入りそうな思いで聞いてきた。十六になっても母を慕うような子供だと、詰られているように感じたからだ。
ざわめく空気を破るように、立ち上がった者があった。ラティははっと、そちらを見る。立ち上がったのは十の席の官のうちのひとり、国王だ。
「姫巫女が母を慕うなど、おかしな話だ」
国王は立ち上がりじっとラティを見据えて、まるでラティが何を考えているか読み取ろうとでもいうようだ。ラティは全身に力を込める。
国王、アストライアの父。ラティは、アストライアの言葉を思い出した。
(アストライアさまは、わたしが真実異教徒ではないと、王に進言してくださっていると言っていた……)
固唾を呑んで、ラティは王を凝視した。
(王が、アストライアさまのお言葉を信じてくだされば。わたしが異教徒ではないと信じてくだされば……!)
王は口を開いた。王が何を言うのか、それはラティにとってどういう意味を持つ言葉なのか。ラティは身を強ばらせ、全身を耳にして王の言葉を待った。
「姫巫女・ラティには、姫巫女の資格がないのではないか」
王はそう言った。意外な言葉に、ラティは大きく目を見開く。
「いや、しかし……!」
十席の官のひとりが、王の言葉に反論する。
「銀の髪と赤い目は、神の使者の証。その容姿を持ちながら、姫巫女ではないなどと」
「その姿は、神が気まぐれに与えたものなのではないか?」
飛び交う声に、王は応えた。
「神のなさることは、我々の関知できることではない。姫巫女ではない者が銀の髪と赤い目を持っていることも、あり得るのではないか?」
そんな王の言葉を、神官たちは驚いたように聞いていた。互いに顔を見合わせ、王の言葉に戸惑っているかのようだ。
王は続けた。
「神に最も近い姫巫女たる者が、人間の母を慕い、母の形見を持っているなどおかしなこと。この娘に神のなされたことは、その気まぐれ……」
王は、ラティをまっすぐに見た。国王が何を言おうとしているのかわからない。ラティは混乱して、呆然と王の目を見返した。
「姫巫女・ラティは、姫巫女ではない」
王は、はっきりとした口調で言った。聞かされた言葉に、ラティの脳裏を貫いた考えがあった。
(わたしが姫巫女でなければ……アストライアさまと一緒にいられる?)
アストライアが言ったことを思い出した。ラティが姫巫女の任を解かれれば、アストライアがラティの身柄を預かるつもりだと。アストライアの侍女にするつもりなのだと。
ラティは慌てて、密かに首を振った。
(いいえ、姫巫女でなければなんて。そんなことを考えてはいけない。そんな、勤めを嫌がるようなこと……)
胸もとに手を置いた。ぎゅっと力を込め、国王を見やる。そんなラティを、国王も見た。射抜いてくるような視線に、ラティはたじろぐ。
国王は、言った。
「母の形見を持ち、母を慕う……ただの娘だ」
そう言った王は、神殿長を見やった。神殿長は何と反論していいものか迷うように顔をしかめている。そんな神殿長の胸のうちを読み取るようなまなざしをして、王は続けた。
「姫巫女でない者が審問を受けるというのも、おかしなこと。この審問自体、成り立たないのではないか?」
「そのような、こと……」
神殿長は、言葉に詰まる。王は、静かに神殿長を見た。
「そうではないか? その一方で姫巫女ではない者を姫巫女として捧げ奉っていた罪、そなたはそれに問われることになるとは思わぬか」
「そ、んな……!」
王に責められて、神殿長は大きく体を震わせた。
その展開を、ラティは唖然と見ていた。異教徒として糾弾されることを覚悟してこの場に臨んだのに、思いもしない展開にラティは戸惑うしかない。
(わたしは、姫巫女ではない?)
それは意外なことだったけれど、不思議にラティの胸に落ちた。
(姫巫女ではない。私は、姫巫女では……)
大きくまばたきをしながら、ラティは繰り返し考えた。
姫巫女でなければと思ったことは幾度もある。しかしラティは今まで姫巫女以外の何者でもなかったし、そうでない自分など考えたことはなかったはずだ。
それなのに自分が姫巫女ではないという言葉をラティは自然に受けとめていて、そんな自分に驚いた。そして王は、ラティは姫巫女ではなく、この審問の場にいるべきでさえないと言うのだ。
ラティを困惑させるのは、それだけではない。ラティがここに立っているのは、別の理由のゆえであったはずだ。
(わたしが異教徒だという話は、どうなったの……?)
いつの間にか論旨は別になっていて、ラティが姫巫女であるか否かということに焦点が置かれている。今まで姫巫女であったはずのラティは、姫巫女ではないと糾弾されて、ただ唖然とこの場に立ち尽くしていた。
王はラティを視界にとらえ、うなずいて言った。
「この者に罪があるとすれば、姫巫女ではないのに姫巫女と偽ったこと……それも自分の意志ではなく、だ」
重々しい声だ。ラティは思わず視線を踊らせる。アストライアと目が合った。アストライアは不安げな表情のままだったが、視線が絡むと薄く微笑んでくれた。
彼女の様子に、力を得たような気がする。考えもしなかった方向の進む審問に戸惑うラティを、励ましてくれる笑みだ。
王は、なおも重々しい声で言った。
「神殿長だけではない。我々は、間違ったのだ。姫巫女ではない者を姫巫女と仰いできた。偽の姫巫女は、その資格を剥奪されなくてはならない」
(資格を、剥奪……)
その言葉に、ラティは固唾を呑んだ。王は立ち上がり、皆の注視を集める。その上で王は、重ねてはっきりと口を開いた。
「姫巫女でない者には、神殿にいる資格はない。すみやかに神殿から出る必要がある。その身柄は王宮で預かろう。それでどうだ」
王は神殿長を見て言った。神殿長は未だに戸惑っているようだが、王の問いかけにうなずいた。そしてつぶやくように言う。
「誠、姫巫女が、姫巫女ではないのだとすれば」
審問の場は、静まり返っている。その中で、ラティは考えた。
(わたしが姫巫女でなくなれば……アストライアさまのおそばにいられる?)
そんな話を、アストライアとした。神殿を出て、アストライアのそばにいる夢想を抱いた。しかしそれが現実になるかもしれないとは、考えもしなかった。胸に置いた手に、力を込める。
(アストライアさまの、おそばに?)
神殿から出てアストライアのそばにいる――それは彼女の胸に甘えての戯れ言だったはずなのに。ただそれだけのことだったと思ったのに。
それが、本当のことになるかもしれないのだ。
「それでは、審問は終了だ」
王は、有無を言わせない口調でそう言った。審問の広間は静まり返り、反論する者は誰もない。
「終了を告げよ」
王の言葉に、議の長は慌てたように審問の終わりを告げた。広間は再びざわめき始める。そのざわめきにラティは、はっと目を見開いた。
背後から、神官たちがやってくる。ここに入ったときと同じように腕を後ろ手にとらえられ引き出されようとしたラティの目には、こちらにまっすぐ歩いてくるアストライアの姿が入った。
アストライアは、ラティの方に手を伸ばす。彼女の手はラティをとらえている神官の腕に伸び、強く掴んだ。
「そのような扱いは許しません」
彼女は、はっきりとした声でそう言った。
「この者の身柄は、王宮で預かります。そなたたちはお下がり」
厳しい声でそう言われ、神官はたじろいだように後ずさりをした。神官はラティの腕から手を離し、代わりに手を取ってきたのはアストライアだ。彼女は目をすがめ、ラティを見て言った。
「そなたは王宮に来ることになる。その先の処遇は詮議の上、決する。それまで王が、そしてわたくしが、そなたの主人」
ラティの腕にかかったアストライアの手に、力が込められた。その力はしかし優しく、先ほどのまなざし以上にラティを励ましてくれるものだ。
「わたくしのそばにいるのよ」
アストライアはそっと、ふたりだけに聞こえる声でささやいた。
「ずっと、わたくしのそばに」
「……はい」
ラティも、ふたりにだけ聞こえる声でつぶやいた。そっとアストライアを見やる。アストライアはいつもの彼女の、凛々しく堂々とした笑みを浮かべていて、それにつられてラティも微笑んだ。
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