6 / 8
第五話
しおりを挟む
ラティが初めてアストライアに会ってから、四年。アストライアが十六歳になったばかり、ラティももうすぐ十六になるという、春の日差しの中だった。
アストライアがラティを訪ねてくるのは、相変わらず窓からだ。その昔『姫巫女が王女に会いに神殿を抜け出す』という事件があって以来、王女が姫巫女を訪問することは禁じられていた。だから正式な形での訪問はなくとも、ほぼすべての一の曜日に、アストライアはラティを訪ねてきた。顔を見ただけで帰るときもあれば、陽が暮れるまで部屋にいるときもある。
最初はなぜアストライアの訪問がばれないのだろうと、不思議に思っていた。女官が突然扉を叩いて、アストライアが慌てて窓から飛び出すこともときどきあった。それでもアストライアの姿が見咎められたことはない。まるでふたりの邪魔をしないようにとでもいうように。
なぜばれないのか、今ではラティも知っている。ばれていないのではない、神殿に住まう者たちの中にはラティに同情的な者も多く、アストライアの訪問を黙認しているのだ。彼らが気を遣ってくれて、アストライアが来ているときにはあえて誰もラティの部屋を訪れないのだ。だからふたりは、一の曜日ごとの逢瀬をゆっくり楽しめるのだ。
春の日差しが、ラティの部屋の中に差し込んできていた。ラティが部屋から出て、甘味の棗の皿を――自分が食べたいのだと言って――料理番にもらってきて部屋に入ると、アストライアは卓に突っ伏して眠っていた。
(お疲れなのね)
その寝姿を前に、アストライアは息をついた。
(十六歳におなりになって、急に公的な行事が増えたとおっしゃっていたもの。正装をまとって近隣国のお客さまをお迎えすることが増えて、馬に乗る暇もないと言ってお嘆きなのだから)
アストライアの鼻先に、棗の皿を置いた。変わらずアストライアの好物である棗の甘い匂いに、彼女が目を覚まさないかと思って。
小さな声をあげたアストライアは、ややあって目を開いた。目の前の棗の皿に驚いたように、じっと見つめている。
「棗が現われたわ」
「どうぞ、お目をお覚ましになって」
くすくす笑いながらラティがそう言うと、アストライアは気怠げに体を起こした。髪をかき上げながら、大きくため息をつく。
「昨日は、さんざんだったわ……」
なおも息をつきながら、アストライアは言った。
「レーシンが、ものすごい量の書簡を置いていったの。全部このハルシア王国の縁起に関する書簡なの。それを片っ端から暗記しろというのよ」
「まぁ、それは」
「そのようなこと、言うのは簡単だけれど、実際にするとなればそうそう簡単にできることじゃないわ。おかげで乳母が蝋燭を取り上げるまで格闘する羽目になってしまって、寝不足よ」
「お気の毒に」
ラティがそう言うと、アストライアはまた息をついた。そして棗をまとめてふたつつまみ上げると、口の中に放り込む。
「お前だって、もうすぐ十六じゃないの。十六になれば、姫巫女も姫巫女としての新しい任があると聞いたけれど?」
「詳しいことは、私も知らないのです」
肩をすくめて、ラティは言った。
「ただ、お部屋を替わるということは聞いていますわ。お部屋が替わっても、いらしてくださいね。アストライアさま」
「もちろんよ」
棗を噛みながら、アストライアはうなずく。
「新しい部屋が二階でも、木を伝って登っていくわ。お前がどこの部屋に移ったとしても、一の曜日の訪問はやめないから」
「楽しみにしてますわ、アストライアさま。アストライアさまが木を登っていらっしゃるところ、見てみたい」
「わたくし、木登りも上手よ? そうね、お前にも見せてあげるわ。きっと感心してしまうわよ」
ふたりは目を見合わせて、噴き出した。口もとがほころぶのを止められない。一緒に笑い合いながら、ラティの頭をよぎる考えがある。
こうやって、アストライアとの関係は続いていく。こっそりとしか会うことはできないけれど、この先もふたりの習慣が壊れることはなく、ふたりはこれからもずっとこのままで――。
「わたしが姫巫女でなければ、今すぐにでも拝見することができますのに」
笑いながら、ラティは言った。
「姫巫女でなければすぐにでもここから出ていって、アストライアさまが木に登られるところを拝見できますわ。アストライアさまの腕のほどを見せていただけますのに」
アストライアに会うまでは、そのようなことを思ったことはなかった。自分が姫巫女でなければ、なんて。アストライアに会った四年前まで、そのようなことは考えたこともなかったのに。そう思うと、ラティの笑いは萎んでしまう。
「つまりませんわ、姫巫女なんて」
「ラティ」
呼ばれて、顔をあげた。目の前のアストライアの表情は、いたずらめいて笑っている。
「でもお前が姫巫女だからこそ、わたくしたちは会うことができたのよ。お前が姫巫女でなければ、会うことはかなわなかったわ」
「でも……」
「いいから、ラティ」
アストライアは手を伸ばし、ラティをいざなった。
「ここにお座りなさい」
言われるがまま、ラティはアストライアの隣の椅子に座る。アストライアは板すらめいた表情をするとひとつ棗をつまみ、首をかしげるラティの口もとに押しつけてきた。
「じ、自分で食べられますわ!」
「詮ないことを考えないで。そのようなときは、甘いものを食べるのが一番よ」
「甘いものはいただきますわ、でもひとりで大丈夫ですわ!」
「遠慮しないでいいのよ、わたくしが食べさせてあげるから」
「王女殿下のお手を煩わせるわけにはまいりませんわ!」
ふざけてそう言ったラティに、アストライアは笑いながらなおも棗を押しつけてくる。ラティは笑い声とともに彼女から逃げ、体をひねった拍子に椅子が均衡を崩した。
「あ、ぁ!」
「ラティ!」
大きな音がして、椅子が倒れた。腰を打った痛みに顔をしかめながら目を開け、気づけばラティは床の上に仰向けになっていた。
ラティの両耳の脇に、アストライアが手をついている。上からラティを、見下ろしている。
「あ、……」
アストライアの顔は思わぬ近くにあって、ラティの胸は大きく跳ねる。腰の痛みなど忘れてしまうほどの距離だ。
「大丈夫? 腰でも打ったんじゃなくて?」
「い、え……」
心配そうに尋ねてくるアストライアに、ラティは慌てて首を横に振った。
「大丈夫ですわ! 本当に、平気ですの」
「なら、いいのだけれど……」
目の前に、アストライアの顔がある。垂れ下がる金色の髪、心配そうにしかめられた眉、ラティを見つめる青の瞳。アストライアの顔はあまりに近くにあって、ラティは胸を高鳴らせながらも彼女に見とれてしまう。
「大丈夫、ですから……」
ラティの言葉は、しかし最後まで音にならなかった。アストライアは手を伸ばし、ラティの手を頭上で抑える。
「……あ」
そのままアストライアは、顔を臥せてくる。ゆっくりと、ふたりの唇が重なった。柔らかい感覚が、口もとを包む。
(あ、……ぁ……)
指一本も、動かすことができない。柔らかい彼女の唇に口を塞がれて、湿った甘さを感じている。舌先でそっと唇の合間をなぞられて、びくりと肩が震える。それを、アストライアの手が抑えた。くちづけはますます深くなる。
(アストライア、さま……)
彼女にくちづけられている。不意の出来事にラティの頭はついていかない。くちづけはとても長い時間、続いたような気がする。いつまでもくちづけられて、呼気も何もかもアストライアに奪われてしまって、すべてがアストライアのものに――。
「ラティさま、どうかなさいましたか?」
扉の向こうからのその声に、アストライアがさっと身を翻した。くちづけがほどかれて、離れた体温に寂しさが浮かぶ。アストライアは何も言わずに立ち上がり、挨拶も残さずに風のように窓から消えてしまった。
残されたラティは、床の上に横になったままだ。唇が熱い。アストライアの体温が残っているようで、くちづけてきた彼女が、まだここにいるようで――。
「失礼いたします」
扉が開いた。入ってきたのは顔なじみの女官だ。彼女は床に転がっているラティを見て、大きく目を見開いた。
「いったいどうなさいましたの!?」
「何でもないわ……」
呻くようにそう言って、ラティは体を起こす。見れば体のまわりに、棗の実がいくつも転がっている。
「棗のお皿を落としそうになって、椅子から転げ落ちちゃったの」
「まぁ、お怪我はありませんか?」
「大丈夫よ」
乱れた髪を整え直し、ラティは起き上がる。転げ落ちたときに打った腰が、やはり少し痛い。
女官は手を貸してくれて、ラティは立ち上がった。女官は服の埃を払ってくれる。そうやって触れてくる女官の手さえもが、何だか気恥ずかしい。唇がまだ燃えるようで、ラティはそっと自分の唇に触れた。
「ラティさま?」
女官が、心配そうに顔を覗き込んでくる。ラティは慌てて首を左右に振った。
「本当に、大丈夫だから」
(アストライアさまは、なぜ急にあんな……?)
手をつないできたり頬に指を這わせたり、そのようなことはしょっちゅうだった。しかしくちづけられるなど――アストライアがそんな直接的な行動に出たのは初めてだ。彼女の意図がわからずに、ラティはただ混乱する。
(あんな、ことを……)
それでいてラティは、今までもアストライアとの触れ合いにときめいてきた。彼女に触れられることに、胸を騒がせてきた。手を取ってくる力の強さ、抱きしめられる腕の優しさ。いつだったか涙を吸われたこともあって――そのときの胸の揺らぎが蘇る。そして先ほどのくちづけ。ラティだけに与えられたくちづけ。ほんのわずかの炎のような触れ合いはラティの胸を焼き、どうしようもない焦燥に誘う。
「ラティさま、大丈夫でいらっしゃいます?」
傍目にもはっきりとわかるほど、ラティはぼんやりしていたのだろう。ラティは、はっと女官の方を見やって微笑んだ。しかしうまく笑みになっていたかどうかはわからない。
(どういう意味で、くちづけを?)
ラティの胸はかき乱され、息がうわずるほどに動揺している。それを女官に見咎められたくなくて、ラティは寝台に倒れ込んだ。そのまま敷布に顔を埋めてしまう。
「ラティさま、そんなにお痛かったのですか? あまりにも痛むようでしたら医師を……」
「いいえ、痛いんじゃないの」
ラティは、ゆっくりと首を左右に振った。
「痛いんじゃないの」
痛むのではない、苦しいのだ。息がうわずって、上手く呼吸ができなくて。アストライアのことを、アストライアの残したくちづけのことを思い返すだけで、胸の奥に何かが詰まっていくような気がして。
「あの、姫巫女さま」
「大丈夫よ、いいから、下がって」
詰まっていくのは、甘い思い。それが今にもこぼれ出しそうな、奇妙な感覚。今までアストライアといて、熱い甘い思いは何度も味わったけれど、これほどに大きく、圧迫されるようなものは初めてだ。
頭をよぎるのは、アストライアのこと。彼女の姿、彼女の声、彼女の心に彼女の――。
(……アストライアさま)
彼女のことばかりが脳裏を占めて、今にも火が着きそうだ。火が着いて燃え上がって、そのまま焼き焦がされてしまいそうだ。
(こんな、あの方のことばかり……)
寝台の上で、身をのたうった。姉のように慕っている。彼女に会うことが楽しみで、彼女の笑顔を見ることが嬉しくて。しかしあのくちづけに喚起された感情は、それだけでは説明できない。ただそれだけだというにはあまりにも熱くて、苦しくて、ラティはただ混乱するばかりで――。
アストライアは、その次の一の曜日には来なかった。そのまま会わずに、七つの曜日が過ぎた。
アストライアがラティを訪ねてくるのは、相変わらず窓からだ。その昔『姫巫女が王女に会いに神殿を抜け出す』という事件があって以来、王女が姫巫女を訪問することは禁じられていた。だから正式な形での訪問はなくとも、ほぼすべての一の曜日に、アストライアはラティを訪ねてきた。顔を見ただけで帰るときもあれば、陽が暮れるまで部屋にいるときもある。
最初はなぜアストライアの訪問がばれないのだろうと、不思議に思っていた。女官が突然扉を叩いて、アストライアが慌てて窓から飛び出すこともときどきあった。それでもアストライアの姿が見咎められたことはない。まるでふたりの邪魔をしないようにとでもいうように。
なぜばれないのか、今ではラティも知っている。ばれていないのではない、神殿に住まう者たちの中にはラティに同情的な者も多く、アストライアの訪問を黙認しているのだ。彼らが気を遣ってくれて、アストライアが来ているときにはあえて誰もラティの部屋を訪れないのだ。だからふたりは、一の曜日ごとの逢瀬をゆっくり楽しめるのだ。
春の日差しが、ラティの部屋の中に差し込んできていた。ラティが部屋から出て、甘味の棗の皿を――自分が食べたいのだと言って――料理番にもらってきて部屋に入ると、アストライアは卓に突っ伏して眠っていた。
(お疲れなのね)
その寝姿を前に、アストライアは息をついた。
(十六歳におなりになって、急に公的な行事が増えたとおっしゃっていたもの。正装をまとって近隣国のお客さまをお迎えすることが増えて、馬に乗る暇もないと言ってお嘆きなのだから)
アストライアの鼻先に、棗の皿を置いた。変わらずアストライアの好物である棗の甘い匂いに、彼女が目を覚まさないかと思って。
小さな声をあげたアストライアは、ややあって目を開いた。目の前の棗の皿に驚いたように、じっと見つめている。
「棗が現われたわ」
「どうぞ、お目をお覚ましになって」
くすくす笑いながらラティがそう言うと、アストライアは気怠げに体を起こした。髪をかき上げながら、大きくため息をつく。
「昨日は、さんざんだったわ……」
なおも息をつきながら、アストライアは言った。
「レーシンが、ものすごい量の書簡を置いていったの。全部このハルシア王国の縁起に関する書簡なの。それを片っ端から暗記しろというのよ」
「まぁ、それは」
「そのようなこと、言うのは簡単だけれど、実際にするとなればそうそう簡単にできることじゃないわ。おかげで乳母が蝋燭を取り上げるまで格闘する羽目になってしまって、寝不足よ」
「お気の毒に」
ラティがそう言うと、アストライアはまた息をついた。そして棗をまとめてふたつつまみ上げると、口の中に放り込む。
「お前だって、もうすぐ十六じゃないの。十六になれば、姫巫女も姫巫女としての新しい任があると聞いたけれど?」
「詳しいことは、私も知らないのです」
肩をすくめて、ラティは言った。
「ただ、お部屋を替わるということは聞いていますわ。お部屋が替わっても、いらしてくださいね。アストライアさま」
「もちろんよ」
棗を噛みながら、アストライアはうなずく。
「新しい部屋が二階でも、木を伝って登っていくわ。お前がどこの部屋に移ったとしても、一の曜日の訪問はやめないから」
「楽しみにしてますわ、アストライアさま。アストライアさまが木を登っていらっしゃるところ、見てみたい」
「わたくし、木登りも上手よ? そうね、お前にも見せてあげるわ。きっと感心してしまうわよ」
ふたりは目を見合わせて、噴き出した。口もとがほころぶのを止められない。一緒に笑い合いながら、ラティの頭をよぎる考えがある。
こうやって、アストライアとの関係は続いていく。こっそりとしか会うことはできないけれど、この先もふたりの習慣が壊れることはなく、ふたりはこれからもずっとこのままで――。
「わたしが姫巫女でなければ、今すぐにでも拝見することができますのに」
笑いながら、ラティは言った。
「姫巫女でなければすぐにでもここから出ていって、アストライアさまが木に登られるところを拝見できますわ。アストライアさまの腕のほどを見せていただけますのに」
アストライアに会うまでは、そのようなことを思ったことはなかった。自分が姫巫女でなければ、なんて。アストライアに会った四年前まで、そのようなことは考えたこともなかったのに。そう思うと、ラティの笑いは萎んでしまう。
「つまりませんわ、姫巫女なんて」
「ラティ」
呼ばれて、顔をあげた。目の前のアストライアの表情は、いたずらめいて笑っている。
「でもお前が姫巫女だからこそ、わたくしたちは会うことができたのよ。お前が姫巫女でなければ、会うことはかなわなかったわ」
「でも……」
「いいから、ラティ」
アストライアは手を伸ばし、ラティをいざなった。
「ここにお座りなさい」
言われるがまま、ラティはアストライアの隣の椅子に座る。アストライアは板すらめいた表情をするとひとつ棗をつまみ、首をかしげるラティの口もとに押しつけてきた。
「じ、自分で食べられますわ!」
「詮ないことを考えないで。そのようなときは、甘いものを食べるのが一番よ」
「甘いものはいただきますわ、でもひとりで大丈夫ですわ!」
「遠慮しないでいいのよ、わたくしが食べさせてあげるから」
「王女殿下のお手を煩わせるわけにはまいりませんわ!」
ふざけてそう言ったラティに、アストライアは笑いながらなおも棗を押しつけてくる。ラティは笑い声とともに彼女から逃げ、体をひねった拍子に椅子が均衡を崩した。
「あ、ぁ!」
「ラティ!」
大きな音がして、椅子が倒れた。腰を打った痛みに顔をしかめながら目を開け、気づけばラティは床の上に仰向けになっていた。
ラティの両耳の脇に、アストライアが手をついている。上からラティを、見下ろしている。
「あ、……」
アストライアの顔は思わぬ近くにあって、ラティの胸は大きく跳ねる。腰の痛みなど忘れてしまうほどの距離だ。
「大丈夫? 腰でも打ったんじゃなくて?」
「い、え……」
心配そうに尋ねてくるアストライアに、ラティは慌てて首を横に振った。
「大丈夫ですわ! 本当に、平気ですの」
「なら、いいのだけれど……」
目の前に、アストライアの顔がある。垂れ下がる金色の髪、心配そうにしかめられた眉、ラティを見つめる青の瞳。アストライアの顔はあまりに近くにあって、ラティは胸を高鳴らせながらも彼女に見とれてしまう。
「大丈夫、ですから……」
ラティの言葉は、しかし最後まで音にならなかった。アストライアは手を伸ばし、ラティの手を頭上で抑える。
「……あ」
そのままアストライアは、顔を臥せてくる。ゆっくりと、ふたりの唇が重なった。柔らかい感覚が、口もとを包む。
(あ、……ぁ……)
指一本も、動かすことができない。柔らかい彼女の唇に口を塞がれて、湿った甘さを感じている。舌先でそっと唇の合間をなぞられて、びくりと肩が震える。それを、アストライアの手が抑えた。くちづけはますます深くなる。
(アストライア、さま……)
彼女にくちづけられている。不意の出来事にラティの頭はついていかない。くちづけはとても長い時間、続いたような気がする。いつまでもくちづけられて、呼気も何もかもアストライアに奪われてしまって、すべてがアストライアのものに――。
「ラティさま、どうかなさいましたか?」
扉の向こうからのその声に、アストライアがさっと身を翻した。くちづけがほどかれて、離れた体温に寂しさが浮かぶ。アストライアは何も言わずに立ち上がり、挨拶も残さずに風のように窓から消えてしまった。
残されたラティは、床の上に横になったままだ。唇が熱い。アストライアの体温が残っているようで、くちづけてきた彼女が、まだここにいるようで――。
「失礼いたします」
扉が開いた。入ってきたのは顔なじみの女官だ。彼女は床に転がっているラティを見て、大きく目を見開いた。
「いったいどうなさいましたの!?」
「何でもないわ……」
呻くようにそう言って、ラティは体を起こす。見れば体のまわりに、棗の実がいくつも転がっている。
「棗のお皿を落としそうになって、椅子から転げ落ちちゃったの」
「まぁ、お怪我はありませんか?」
「大丈夫よ」
乱れた髪を整え直し、ラティは起き上がる。転げ落ちたときに打った腰が、やはり少し痛い。
女官は手を貸してくれて、ラティは立ち上がった。女官は服の埃を払ってくれる。そうやって触れてくる女官の手さえもが、何だか気恥ずかしい。唇がまだ燃えるようで、ラティはそっと自分の唇に触れた。
「ラティさま?」
女官が、心配そうに顔を覗き込んでくる。ラティは慌てて首を左右に振った。
「本当に、大丈夫だから」
(アストライアさまは、なぜ急にあんな……?)
手をつないできたり頬に指を這わせたり、そのようなことはしょっちゅうだった。しかしくちづけられるなど――アストライアがそんな直接的な行動に出たのは初めてだ。彼女の意図がわからずに、ラティはただ混乱する。
(あんな、ことを……)
それでいてラティは、今までもアストライアとの触れ合いにときめいてきた。彼女に触れられることに、胸を騒がせてきた。手を取ってくる力の強さ、抱きしめられる腕の優しさ。いつだったか涙を吸われたこともあって――そのときの胸の揺らぎが蘇る。そして先ほどのくちづけ。ラティだけに与えられたくちづけ。ほんのわずかの炎のような触れ合いはラティの胸を焼き、どうしようもない焦燥に誘う。
「ラティさま、大丈夫でいらっしゃいます?」
傍目にもはっきりとわかるほど、ラティはぼんやりしていたのだろう。ラティは、はっと女官の方を見やって微笑んだ。しかしうまく笑みになっていたかどうかはわからない。
(どういう意味で、くちづけを?)
ラティの胸はかき乱され、息がうわずるほどに動揺している。それを女官に見咎められたくなくて、ラティは寝台に倒れ込んだ。そのまま敷布に顔を埋めてしまう。
「ラティさま、そんなにお痛かったのですか? あまりにも痛むようでしたら医師を……」
「いいえ、痛いんじゃないの」
ラティは、ゆっくりと首を左右に振った。
「痛いんじゃないの」
痛むのではない、苦しいのだ。息がうわずって、上手く呼吸ができなくて。アストライアのことを、アストライアの残したくちづけのことを思い返すだけで、胸の奥に何かが詰まっていくような気がして。
「あの、姫巫女さま」
「大丈夫よ、いいから、下がって」
詰まっていくのは、甘い思い。それが今にもこぼれ出しそうな、奇妙な感覚。今までアストライアといて、熱い甘い思いは何度も味わったけれど、これほどに大きく、圧迫されるようなものは初めてだ。
頭をよぎるのは、アストライアのこと。彼女の姿、彼女の声、彼女の心に彼女の――。
(……アストライアさま)
彼女のことばかりが脳裏を占めて、今にも火が着きそうだ。火が着いて燃え上がって、そのまま焼き焦がされてしまいそうだ。
(こんな、あの方のことばかり……)
寝台の上で、身をのたうった。姉のように慕っている。彼女に会うことが楽しみで、彼女の笑顔を見ることが嬉しくて。しかしあのくちづけに喚起された感情は、それだけでは説明できない。ただそれだけだというにはあまりにも熱くて、苦しくて、ラティはただ混乱するばかりで――。
アストライアは、その次の一の曜日には来なかった。そのまま会わずに、七つの曜日が過ぎた。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
せんせいとおばさん
悠生ゆう
恋愛
創作百合
樹梨は小学校の教師をしている。今年になりはじめてクラス担任を持つことになった。毎日張り詰めている中、クラスの児童の流里が怪我をした。母親に連絡をしたところ、引き取りに現れたのは流里の叔母のすみ枝だった。樹梨は、飄々としたすみ枝に惹かれていく。
※学校の先生のお仕事の実情は知りませんので、間違っている部分がっあたらすみません。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる