虹の架け橋とふたりの乙女

月森あいら

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第四話

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 その話を聞いたのは、レーシンとの学習の時間の始まる前だった。
「ラティさまは、きちんとお勉強してくださいね」
 改まった調子で、レーシンはそう言った。その口調はまるで誰かほかに勉強しない者がいて、その者に困らされているとでもいうようだ。ラティは首をかしげて尋ねた。
「どういうこと?」
「いえ、王女のことなのですけれどね」
 さも困ったというようにレーシンが言うのに、ラティは目を見開く。王女。レーシンのもうひとりの生徒である、アストライアのことだ。
「剣術の大会が次の一の曜日にあるのです。そのために王女は張りきって、お勉強も手に着かないくらいなんです」
 ため息とともにそう言ったレーシンは、単なる愚痴としてそう言ったのだろう。しかしそれは、ラティの胸を鷲掴みにする話題だった。思わず卓の上に身を乗り出してしまったラティを、レーシンは不思議そうに見た。
「剣術の会に出られるの? アストライアさまが?」
「そう。王子もお出になるのですけれど、王子よりも王女の方が張りきっているくらいで。お勉強に集中していただくのが大変なのですよ」
 またレーシンはため息をつく。書簡を広げ、ペンとインクを用意しているレーシンの手もとを見ながら、ラティはわくわくする胸を押さえられない。
(アストライアさまが、剣術の大会に出られる)
 その話はラティの脳裏を支配した。思わずぎゅっと胸を押さえ、上目遣いにレーシンを見る。
(アストライアさまの剣を見られるかも、しれない……)
 そう考えて、ラティは固唾を呑んだ。頭の中で想像する。トゥニカに身を包んだアストライアが、剣を握って大人の男性と対峙する。剣をきらめかせて身をかわす。
 ラティは人が剣を使うところを見たことがないものだから、頭の中の光景はあやふやな想像でしかない。しかしアストライアが誇らしげに剣をかざし、笑っているところは想像できた。馬と同じくらいに剣が好きだと言っていたアストライアだ、剣を握れば実際にはもっと、素晴らしい笑顔を見せてくれるに違いない。
「ラティさま?」
 ひとり、想像に身を任せていたラティはレーシンの声にはっとした。勉強の用意を整えたレーシンは、不思議そうにラティを見やっている。ラティは慌てて背を正した。
「どうなさったのですか、ラティさままでお勉強に身が入らないのですか」
「そんなことはないわ、頑張るわ!」
 首を横に振りながらそう言って、ラティはレーシンに微笑みかける。その笑みは、どこかぎこちないものになってはいないだろうか。
 ラティの胸には、ある考えが浮かんでいた。それをレーシンに見破られないように、ラティは懸命に笑みを作る。
(見に行きたい。アストライアさまの、剣技を)
 そう思うと、いても立ってもいられなくなった。しかし剣術の大会はいつ、どこであるのか。そのことをまったく知らなければ行きようもない。だからそっと伺うようにレーシンを見て、恐る恐る問う。
「剣術の大会って、どこであるの?」
 なぜそんなことを尋ねるのかと訝しがられるかと思ったのに、レーシンはあっさりと答えてくれた。
「王宮の、武闘場ですわ。ここしばらくは次の一の曜日に向けての飾りつけに、忙しいこと」
 レーシンはため息をついた。武闘場は、王宮にあるらしい。きっとそれは王宮を上げての行事で、王宮はその準備に追われているのだろう。だからアストライアも落ち着かないのだ。
「皆さま、学習は学習と、集中していただきたいものですけれど」
「そうね……」
 ラティは生返事をしながら、広げられた書簡に目をやる。文字を凝視して勉強の内容に集中しているふりをしながらも、頭の中は剣術の大会のことでいっぱいだ。
 王宮への道は、以前アストライアに教えてもらった。実際に行ったことはないけれど、歩いても充分行ける道だとアストライアは言っていた。そう、頭からかぶる布を探さなくては。目立つ銀の髪を隠す布を。
「ラティさま?」
 はっと顔を上げた。レーシンが、訝しそうな顔をしてラティを見ている。
「ラティさままで王宮の騒ぎに影響されておいでですか? やめてくださいませよ」
「そんな、影響なんてされてないわ……」
 言いながらも、ラティは上の空だ。いつ抜け出そうか、やはり抜け出すのは窓からか。頭にかぶるのにふさわしい布はどこにあったか。ほかに何を持っていけばいいのか。そのようなことばかり考えてしまって、またレーシンに叱られてしまった。


 一の曜日。朝餉のあと、女官が下がる。
 ラティはひとりになった。そっと部屋の隅の戸棚に向かい、一番上の抽斗を開ける。その奥はヘタイラとラティしか知らないからくりになっていて、中にはあのメダイの入っている箱がある。それを取り出し、中身を見た。
 銅のメダイには、少女の横顔が彫ってある。端整な容貌の少女だ。手の上にメダイを置き、じっと見つめる。そうすると思い出すのはヘタイラのことだ。
 ヘタイラには、このメダイは誰にも見せてはいけないといわれている。その理由を、一度ヘタイラが教えてくれたことがあった。
(ラティさまのお母さまは、異国から嫁いでいらっしゃった方だそうです)
 ヘタイラはそう言った。
(このメダイに描かれているのは、お母さまの祖国の神だというお話です。何でも人間界と神の宮殿とを結ぶ、虹の橋の守人である、「虹の乙女」ということで)
 それでは、この少女は異教の神だということになる。だからヘタイラは、ほかの者に見せるなと言ったのだろう。
(どうしてヘタイラは、そんなこと知ってるの?)
 そう尋ねたラティに、ヘタイラは言った。
(ラティさまのお母さまに、直接伺いました。これは娘を守るものだから、だからこっそり持たせてほしいと)
 ラティは母の顔を覚えていない。だからそのさまを想像することもできなくて、ただ首をかしげた。そんなラティの頭を撫でて、ヘタイラは言った。
(お母さまは、その直後に亡くなられてしまいました。きっとこのメダイには、そんなかわいそうなお母さまのお心がこもっているに違いありません。だから、大切にお持ちください。ほかの誰にも、見られないように)
 メダイを見ながらヘタイラのことを思い出していると、まるでヘタイラにそう言われているような気がする。つい涙ぐみそうになって慌ててまばたきをすると、メダイを丁寧に箱にしまう。もとのように抽斗のからくりの奥に押し込めた。
(そう、メダイを見ている場合じゃなかった)
 ラティは慌てて、抽斗の中身を取り出す。大きめの白い布は事前に探してあった。引っ張り出して小脇に抱え、窓に向かう。衣服の裾をたくし上げて窓を乗り越え、あたりを見回す。誰も通る者がないことを確認すると、布を抱えたまま庭園を小走りに駆けた。
 アストライアに教えられた抜け道を出る。出たところで裾を戻し布を頭からかぶり、銀の髪を慎重に隠した。そして顔を上げて目の前を見る。初めて馬に乗った日、アストライアが指を差していた土の道だ。ここを行けば王宮に行ける。剣術大会を見ることができる。
 ラティは、緊張しながら一歩を踏み出す。そうやって、薄い皮の靴で土の路を歩き出した。

 神殿の庭を散策する程度しか歩いたことのないラティには、王宮は世界の果てかと思うほどに遠かった。
 もう諦めようか、もうやめようか。何度そう考えたかしれない。しかしラティの足は前にだけ向き、ただひたすらに王宮を目指した。
 王宮に近づくごとに、人が多くなる。ラティと同じ方向を目指して歩いている人たちも、王宮に向かうのだろうか。ラティを追い越していく者は多く、人とすれ違うたびにラティの体は強ばってしまう。
 髪は布で隠れている。しかし髪がどこかからはみ出していないか、また瞳の赤を見咎められはしないか。それが気になって、だから布を引っ張って目深にかぶり、できるだけ急いで先を行く。
「あ、そこ……?」
 やがて視界の向こうに、白い建物の頭が見えた。まわりは背の高い木々に囲まれている。
(あそこが、王宮……?)
 ラティは大きく息をついた。胸に手を置き、よろめきそうになった足を慌てて踏みしめる。まわりの人を見回した。ラティの後ろを、ゆっくりと歩いている老女がいる。ヘタイラと同じくらいの歳の老女の姿に、ここまでずっと緊張していた心がゆるむ。ラティは彼女に話しかけた。
「あの、お尋ねいたしますけれど」
 そう言うと、老女は顔を上げた。ますます彼女はヘタイラに似て見えて、親しみを感じたラティは、少し元気な声で言葉を続ける。
「わたし、武闘場を目指しているんです。こちらの方向でいいのかしら?」
 老女は、ラティをじろじろと見た。慌てて目を伏せる。できるだけうつむいて、老女を直接見ないようにする。
 視力が弱いのか、老女は何度も目をしばたたかせてラティを見た。赤い瞳を見咎められないかと心の臓が落ち着かなく騒いだが、老女は少し首をかしげたものの答えてくれた。
「ああ、こっちでいいよ。今日は剣術大会だとかで、すごい人出だ」
 剣術大会との言葉に、胸が騒いだ。胸の上に置いた手に、ぎゅっと力を込める。懸命に声を抑えながら、ラティは言った。
「わたし、その剣術大会に行くの」
「お前さんみたいな娘さんも、興味があるの」
 老女は驚いたようだった。
「まぁ、離宮からやってきた王女様もお出になるとかいう話だしね。最近は、若い女の子が剣に興味を持つのが流行っているのかねぇ」
 首をひねりながらそう言う老婆に、まさにその王女が見たくて行くのだと言いそうになった。慌てて口をつぐむ。
「ありがとう」
 そう言って、丁寧に頭を下げた。ひらりと衣服の裾を翻し、先を急ぐ。足は痛んだし体の疲れも限界だったが、老女がアストライアの話をしたことに、力を得たような気がした。
 この先には、アストライアがいる。アストライアの剣を扱う姿を見ることができる。それだけを心のよすがに、ラティは歩いた。

 武闘場は、屋根のない大きな建物だった。
 建物のまわりを、たくさんの者が行き交っている。これほどにたくさんの者を見たのは初めてだ。神殿で見る者たちは皆、静かに足音を立てずに歩き、潜めた声で話し、決して大きな音は立てない。しかしここにいる者たちは皆思い思いに話し、大声を上げて笑い、足音を立ててラティの横をすり抜けていく。ラティはただ、唖然と行き交う者たちを見た。
 いったいどこに行けば、アストライアが見られるのだろう。ラティはきょろきょろとあたりを見回し、しかし先ほど話しかけたような老女はいない。行き交う者たちに話しかけるのは恐ろしく、ラティはただまわりを見やるばかりだ。
「お嬢さん」
 声が聞こえた。ラティは、目の前に立っている男を見上げる。若い男だ。愛想のいい笑みを浮かべながら、ラティを見下ろしていた。
「誰か捜してるの?」
「いえ……」
 ラティは、首をかしげた。
「あなたはどなた?」
(どうして、わたしに話しかけてくるの?)
 彼の意図がわからなくて、ラティはますます首をひねる。ラティが顔を上げると、彼は驚いた顔をした。ラティの顔をまじまじと見つめるなぜ彼が驚くのかと考えて、ラティははっとした。
(わたしの、目……!)
 日差しを正面から浴びるこの位置では、ラティの目の色ははっきりと見える。ラティ以外、赤の瞳を持つ者はこの国にはいないと聞いている。赤い瞳は姫巫女の証、それではこの男に自分の身分がばれてしまう。
 ラティは勢いよく踵を返した。話しかけてきた男に背中を向けて、走り出す。
「ちょっと、待って!」
 男はそう言ったけれど、ラティは待たなかった。疲れた足を引きずって走る。しかしどこに逃げていいのかどうかなんてわからない。ただやみくもに走り、息が切れて立ち止まったところでは、たくさんの者が集まって歓声を上げていた。
 あまりにたくさんの者がいることに、目眩がした。しかしここにいる者たちは皆前を向いていてラティには背を向け、ラティが飛び込んで来たことなど目にも入っていないようだった。
(何を見ているのかしら……?)
 荒い息を吐きながら、彼らが見ているものを見ようとする。背伸びをして男たちの肩越しを見やり、見えたのは土の広場だ。遠目に見えるその場所にはふたりの人物がいて、きらめく剣を持って向かい合っている。
(剣術の大会の会場だわ――!)
 それに気がついたラティは、思わず声をあげそうになった。ラティはこれを見に来たのだ。アストライアが剣を振るうところを見に来たのだ。しかしここからではよく見えない。前に進もうとしても人が多すぎて前には進めず、かといってかき分ける勇気も力もない。
 遠目に見える、剣技大会の会場。そこで剣を振るっているふたりの人物。ひとりは赤いマント、ひとりは白いマントをまとって対峙している。懸命に背伸びをして遠い場所を見るラティの集中力を乱すのは、まわりの男や女たちの声だ。何をもかき消すような大声に、ラティはくらくらとした。
「アストライアさまは、今日もおやりになるかな」
「そりゃあそうだろう! 名だたる剣士にも引けを取らないお方だもの。今日だって勝ってくださるに違いないよ」
(アストライアさま……あそこにいらっしゃるのは、アストライアさまなの?)
 ラティは懸命に目を懲らした。武闘場のふたりは軽やかに剣を振るい、剣のぶつかり合う音が響いてくる。白いマントをまとった人物の顔が鮮やかに陽に照らされて、ラティは飛び上がりそうになった。
(アストライアさま……!)
 白いマントをまとっているのはアストライアだ。陽の光に鋭くきらめく剣を振りかざし、赤いマントの相手に向かっていっている。
 赤いマントの主は、アストライアの倍ほどはあろうかという体つきの大きな男だ。どう見てもアストライアは不利に見える。
「あんな大男に当たるなんてね、アストライアさまも不運だな」
「何を言ってる、体が大きけりゃいいってもんじゃないよ。アストライアさまの腕だ、あんな男なんてすぐ倒してくれるよ!」
 まわりの者がアストライアの噂をしている。アストライアが褒められることをラティは誇らしく思うものの、しかしあのような大きな男を相手に、本当にアストライアは勝てるのだろうか。
 ラティは胸の前で手を組み、神に祈る格好を取る。目は剣技大会の場に釘づけられたまま、動かない。アストライアの剣が、男の真上に振り下ろされた。
(きゃっ――)
 アストライアの剣が、男の脇に逸れる。しかし男は見かけによらず身軽らしく、マントを翻してアストライアの剣をかわした。アストライアはそのまま前に数歩走り、くるりと振り返って男に向かうと再び剣を構える。
 今度は男が、アストライアに向かって剣を振り下ろす。アストライアの白いマントが空を切り、ラティははっと息を呑んだ。アストライアの姿が一瞬見えなくなったのだ。
「アストライアさま!」
 ラティの隣の女が金切り声を上げる。ラティもそのまま凍りつく。しかし次の刹那、アストライアの姿は男の懐にあった。
 アストライアの剣が、男の咽喉もとに突きつけられる。男を見上げるアストライアは鋭い笑みを浮かべていて、それはラティの見たことのない表情だ。
 青い瞳が、きらりと光る。赤いマントの男は引きつった顔を見せ、しかし剣を落として両手を天にあげた。
「アストライアさま!」
「アストライアさま、アストライアさま!」
 歓声が、広場を埋め尽くす。
 アストライアは剣を引き、一礼する。優雅な仕草で踵を返し、走ってきた従者に剣を渡した。響く歓声に軽く手を上げて応えたアストライアは、そのまま建物の中に姿を消した。
「さすがだね、さすがアストライアさまだ!」
 ラティの隣の女が、興奮気味に叫んでいる。
「アストライアさまはお勝ちになるって言っただろう? 見た、あの剣さばき?」
「見た見た、素晴らしかったね。あんな一瞬の動きで相手を翻弄するなんて、普通の剣士にできることじゃないよ」
 まわりの者の讃辞を聞きながら、ラティはぼんやりとその場に立っていた。アストライアは、勝った。鮮やかな剣さばきで倍ほどの大きさの体つきの男を倒し、皆の歓声を受けている。そんなアストライアを誇らしく思うのと同時に、あれは本当にアストライアなのだろうか――アストライアを訪ねてきてくれた、馬に乗せて狩り場に連れていってくれたアストライアなのだろうかと、そんな考えがラティの脳裏に渦巻いた。
 両手は胸の前で組み合わせたまま、ラティは半ば唖然と広場の方を見やっている。ラティの頭から、布がはらりとほどけて落ちた。
「あ――!」
 すべり落ちる布を抑えようと、とっさに手を伸ばした。しかしその前に布は地面に落ちてしまい、通りかかった男に踏みつけられる。ぱらりと、銀色の髪が露わになる。
「お前、その髪……」
 隣にいた男が、声をあげた。彼は目を見開いて、ラティを凝視している。その隣の女も振り向いた。大きく目を開いて、ラティを見た。
 男は叫ぶ。
「……その、目!」
(見られた!)
 ラティは慌てた。あまりにも慌ててしまって隣の男に肩がぶつかり、するとその男も振り返ってラティを見て声をあげ、騒ぎはますます大きくなってしまった。
 まわりの者は、もう広場を見ていない。皆ラティに注目していて、注がれる視線の中、ラティはどうしていいものかわからない。おろおろと立ち尽くすだけだ。
 ラティを囲む人だかりの中、聞こえる言葉がある。皆口々に、ラティを見やっては同じことを言っている。
「あれは、神殿の姫巫女じゃないのか?」
「まさか。どうして姫巫女がこんなところにいるんだ?」
「だけど、銀の髪に赤い目……」
「色も白いぞ! こんなに色が白いのは、姫巫女以外にはあり得ない!」
 まわりに注視され、ラティはただ戸惑う。こうやって囲まれていては、逃げることもできない。まわりの者はラティを遠巻きに、騒ぐ声をあげるばかりだ。
「神殿の姫巫女だ!」
「姫巫女が、どうしてここに?」
(どうしよう、どうしたらいいの……?)
 ここから逃げ出そうか。しかし、どこへ? それにラティには、もう走る力は残っていない。その場によろめき、そして座り込んでしまった。
「おい……大丈夫か」
 ひとりの男が、手を差し出そうとした。しかし別の男がそれを遮る。
「神殿の姫巫女だぞ? 迂闊に触っちゃ、どんな天罰が下るかもしれない」
(天罰なんて、下らないのに)
 うつむきながら、ラティは荒く息をついた。この場から消えてしまうことができたらと思う。アストライアの戦う姿を見ることができたのは嬉しいが、このように衆人の目に晒されるなんて。このようなことになるなんて、思ってもみなかった。
(どうしよう、どうすればいいの?)
 この場を切り抜けるには、どうしたらいいのか。ラティは困惑のただ中にあった。
 遠くから、歓声が聞こえる。アストライアの名前が聞こえる。うつむいたまま、ラティは大きく目を見開いた。
 アストライアを呼ぶように聞こえた歓声は、幾人もの女の黄色い声だ。その声が近づいてくる。
「ラティ!」
 声がかかって、ラティははっと顔を上げた。知っている顔、知っている声――アストライアの声だ。
(アストライアさま……!)
「騒ぎが起こっていると思って、来てみたら」
 アストライアだ。驚いた顔をしたアストライアが、ラティの目の前にいる。彼女はたくさんの、さまざまな年齢の女たちに囲まれている。そのただ中のアストライアはまっすぐにラティに歩み寄ってきて、手を差し出してきた。ラティは、唖然とアストライアを見上げる。
「ラティ。どうしてこのようなところにいるの?」
「アストライア、さま……」
 ラティは、ぼんやりと彼女を呼んだ。アストライアの差し出してきた手に応えることにも思い及ばずに、ラティはぼんやりと彼女の青い瞳と金色の髪を見た。アストライアの金の髪が、さらりと吹いた風になびく。
(どうして、アストライアさまがここに……?)
 信じられない。どうしてここに。ラティの声はうまく言葉にならず、ただ彼女を見上げて唇を震わせるだけだ。
「アストライアさま……本当に……?」
「本当よ」
 言って、アストライアは笑った。アストライアはしゃがみ、ラティの目の前に手を差し出してくる。ラティはその手を、怖ず怖ずと取った。強い力で引き上げられ、立ち上がらされる。女たちが、悲鳴のような声をあげた。
「どうしてこのようなところにいるの。どうやってここまで来たの?」
「歩いて……」
 アストライアの腕に抱えられるようにして、ラティは立ち上がっていた。まわりの者は皆驚きさざめく声をあげ、そんな中、アストライアは苦笑とともにラティの衣に突いた土埃を払ってくれた。
「歩いて? 歩いてここまで来たというの?」
「アストライアさまを、見たくて。剣術の大会にお出になると聞いたものだから」
「まぁ。じゃあ、わたくしの出番を見てくれたの?」
 足に力が入らない。再びその場にしゃがみ込みそうになるが、アストライアの手が腰に回って支えてくれた。アストライアの唇が、耳に触れそうになる。慌てて背を反らせると、アストライアの笑顔が目の前にあった。
「出番が終わってあたりを見て回っていたら、騒ぎが起こっているじゃないの。何かと思ったら銀色の髪が見えて、その真ん中にいるのがお前だった。わたくしがどれくらいびっくりしたか、想像してちょうだい」
 アストライアの口調は、笑いを孕んでいる。その笑いに体の緊張がほどけたような気がして、ラティは大きく息をついた。
「歩いてきたんですって? 神殿から?」
「アストライアさまが、道を教えてくださったから……」
「それにしたって、このようなところまで。神殿から出たことのないお前が」
 労るように、アストライアはラティの髪を撫でてくれた。それにまた息をつき、しかしまわりを見回して身をすくめてしまう。まわりの者は皆ラティたちを見ている。アストライアを取り囲んでいた女たちは視線を尖らせてラティを見ていて、思わず目を逸らせてしまった。
「髪も目も、隠さずに来たの? よく見咎められなかったわね」
 ラティは、首を左右に振った。
「アストライアさまがしてくださったみたいに、布をかぶって出たのですわ。でも、取れてしまって……」
「そう」
 アストライアは、先に向かって歩き出す。ラティを見て騒ぐ者たちの波はますます大きくなったが、アストライアはそのような騒ぎなど意にも介していないように、ラティの手を取ったままゆっくりと歩いた。足の痛むラティでも着いていける歩みだ。
「お前が来てくれて、嬉しいわ」
 歩きながら、アストライアはささやく。
「お前の姿を見たとき、まさかと思ったのよ。まさか、お前がこんなところにいるわけがない。でも、本当だった。本当に、お前だった」
 アストライアはラティを見て、微笑む。つないだ手を、ぎゅっと握りしめられた。嬉しげな笑顔を向けられる。
「しかも、わたくしを見に来てくれたんですって?」
「……ええ」
 アストライアが剣術の大会に出ると聞いて、それが見たくてたまらなくて。矢も楯もたまらずにここまで来た。
「アストライアさまが、剣を振るわれるところが見たくて」
「そんなの、いくらでも見せてあげるわ! わざわざこのようなところに来なくても」
 アストライアは楽しげに笑った。その笑いにつられて、ラティの笑顔も引き出される。アストライアは足をとめた。手を伸ばし、ラティの頬に指を這わせてきた。
「お前がわたくしのために、このような遠くまで来てくれるなんて。こんなに嬉しいことはないわ」
「わたしも、嬉しいです……アストライアさまの素晴らしい剣技が見られて」
 重ね合った手を、再び強く握られる。それに力を得たような気がして、ラティは再び微笑んだ。アストライアはラティの手を引いて、再び歩き出す。ふたりが手をつないで歩く姿に、女たちが声をあげる。
「どこにいらっしゃるの?」
「だって、そのままでは帰れないでしょう?」
 アストライアがラティを連れていったのは、天幕の中だ。中には従者がふたりいて、アストライアの連れてきた人物を見て目を丸くした。
「足を洗ってやってちょうだい。何か飲むものも」
「アストライアさま、わたし……」
 ラティの身の回りの世話をする者は、女ばかりだ。男である従者ふたりに世話をされるということに気後れして、つい心細い声をあげてしまう。
「大丈夫よ、わたくしの腹心の者たちばかりだもの。それにお前も、早く神殿に戻らないと皆が心配するでしょう?」
「……ええ」
 心配するとの言葉に、ラティはうなずいた。そう、ラティは黙って神殿を抜けてきたのだ。こんなに長い時間部屋を空けて、皆心配していることだろう。自分のしたことの無謀さを改めて感じ、ラティはぎゅっと目をつぶった。
「そんな顔をすることはないわ。大丈夫、わたくしが送ってあげるから」
 そう言ってアストライアは、ラティの肩に手を回してきた。抱き寄せて、耳もとに口を寄せられる。それにラティは、びくりと震えた。
「わたくしが一緒に謝ってあげるわ。だから、そんなに悲しそうな顔をしないで」
「ええ……」
 従者に促されて椅子に座り、足に触れられる。足を洗われるのには慣れているが、それが男の手だったことはない。ラティは身を固くして耐え、しかし頼りのアストライアは天幕の外に出ようとする。
「アストライアさま……!」
「馬を用意してくるだけよ。すぐに戻るわ」
 言って、アストライアは姿を消した。知らない男と天幕の中に残されてラティの不安は頂点に達したが、ややあって馬の嘶きが聞こえてほっとした。
「もういいわ……、ありがとう」
 丁寧に足を拭ってくれる従者にそう言って、ラティは立ち上がる。彼の近くから離れたくて慌てて裸足のまま天幕を出ると、そこにはアストライアがいてほっとした。以前、遠乗りに連れていってもらったときに乗った馬が、アストライアに引かれてそこにいる。
「まぁ、ラティ。靴は?」
「アストライアさまが、おいでにならないから……」
 彼女の姿に安堵しながら、ラティはアストライアに近寄った。
「せっかく洗ったのに、また汚れてしまうわ。おいで」
 アストライアは言って、ラティの手を取る。天幕の中に連れて入ると、またラティを椅子に腰を下ろさせた。
 今度はアストライアが、手ずから靴を履かせてくれる。従者に足を触れられるときには焦燥しかなかったが、アストライアに触れられるのは心地いい。アストライアの手はさっと靴を履かせてくれたが、ずっとこの時間が続けばいいのにと思うくらい、心地のいい時間だった。
「わたしが、姫巫女でなければ」
 ラティは、小さくそう言った。
「わたしが姫巫女でなければ、いつもこのようにアストライアさまと一緒にいられるのでしょうか。こんなふうに、神殿ではない場所でずっと……」
「ラティ……」
 アストライアは、顔をあげてラティを見た。その表情はラティを気の毒がるような、それでいてどこか深い思惑があるような。その表情に、ラティははっとする。
「いいえ……つまらないことを。申し訳ありません」
 しばらくラティを見やっていたアストライアは、従者たちに目を向ける。彼らはひざまずき、顔を伏せた。
「姫巫女を送ってくるわ。すぐに戻ってくるから、お前たちはここにいて」
「御意」
 従者たちは声を揃えた。アストライアはラティに、布を手渡してくれた。ラティがかぶるための布だ。自分のかぶってきた布は、誰かに踏みつぶされてしまっている。ラティは、はっとアストライアを見上げた。
「いつの間にお持ちになっていたの?」
「馬と一緒に持ってきたのよ。お前、これをかぶりなさい。姫巫女が武闘場に現われたことは知れ渡っているけれど、無用な騒ぎを起こさないためにもね」
 そして、靴を履かせたときと同じくらいに丁寧に布をかぶせてくれる。アストライアの髪を中にたくし込み、瞳も見えないように深くかぶせられた。アストライアの少し固い温かい手が手際よく作業をしていく感覚を、ラティはうっとりと感じていた。
「行きましょう、遅くならない方がいいわ」
 あの日と同じようにラティを助けて馬に乗せてくれ、アストライアもその後ろにまたがる。アストライアが手綱を引くと馬は走り始め、まだ二度目にしかならない体験に、ラティは悲鳴を上げた。
「少し飛ばすわよ」
 アストライアは言って、馬の腹を蹴る。馬は軽快に走り、しかしその足取りに、ラティは少し沈んだ気分を味わった。せっかくアストライアに会えたのに、またすぐに別れなくてはいけない。馬の頸にしがみついたまま、ラティはそっとアストライアを振り返った。
 目が合うと、アストライアは笑いかけてくれる。その笑顔はラティを労ってくれる優しいもので、剣の試合に勝ったときの鋭いものとは違う。
(あんな顔もなさるのだわ、アストライアさまは)
 今日だけで、知らなかったアストライアの表情を知ることができた。剣の試合も観られたし、これ以上何を望むことがあるのかと思う。
 馬が少し変則的に跳ね、ラティは慌てて馬の頸にしがみついた。そんなラティの反応に、アストライアが楽しげに笑う。その微笑みに、胸の奥がふわりと温かくなるのがわかった。
 自分は、神殿を抜け出してきたのだ。神殿の女官たちも、どれほどに心配していることか。
(それなのに、嬉しい気持ちばかりなのはどうしてなのかしら。アストライアさまに会えて嬉しいと思う気持ちばかりなのは、どうしてなのかしら)
 今のラティはアストライアとともに馬に乗れて、こうやって一緒に駆けることができる喜びしかないのだ。
(アストライアさまとご一緒にいられて、嬉しい)
 その思いを、噛みしめた。
(お目にかかれて、ご一緒に馬に乗れて……嬉しい……)
 ラティは、知らない間に笑っていたのだろう。アストライアは少し驚いた顔をしてラティの顔を見ていて、しかしすぐにまた微笑んでくれた。そうやって彼女が笑うことに、再び温かいものを感じた。

 アストライアは、神殿の正門の方角に向かった。ラティは不安にアストライアを見やる。
「アストライアさま、正門に向かわれるのですか? 秘密の抜け道ではなくて?」
「きっと、お前がいないことで騒ぎになっているわ」
 手綱を操りながら、アストライアは言った。
「いろいろなところを捜しているはずよ。抜け道から入ったら、あそこが抜け道だって知られてしまう」
(そうだわ、きっと庭園も皆が捜しているはず)
 アストライアに会うずっと前、庭園の木々の間から空を見上げている間に眠ってしまったことがあった。そのときも庭園の方々を皆が捜し、目を覚ますと騒ぎになっていたことを思い出す。
「だから、正門に向かったほうがいいわ。わたくしが誘い出したことにしてあげるから」
「そんな、アストライアさまにこれ以上ご迷惑を……!」
 しかしラティがそれ以上を言う前に、正門が見えてきた。門の前に馬をつけると、駆け寄って来たのは警備兵たちだ。警備兵は突然現われた馬上のふたりを訝しむように目を向けてきたが、ラティが頭にかぶった布を取ると、驚愕した声をあげた。
「姫巫女さま、どこにおいででいらしたのです! 皆が捜しております!」
「そう、姫巫女を送ってきたわ。神殿長に取り次いでちょうだい」
 かしこまりました、と警備兵は声をあげ、慌てて門をくぐる。アストライアはふわりと馬を下り、ラティが下馬するのを手伝ってくれた。
「ありがとうございます」
 地面に足が降りたとき、ラティはそう言った。アストライアは首を振り、眉根を寄せた。
「わたくしに礼などいいわ。それよりも、叱られるのではなくて?」
「恐らく……」
「お前がそんな、無謀な子だなんて思いもしなかったわ」
 アストライアは、ため息をついた。そんなアストライアに、ラティは心配の目を向ける。
(呆れられてしまった?)
「ひとりで抜け出して、王宮まで歩いてくるなんて。こんなことなら、王宮への道など教えない方がよかった?」
「ごめんなさい……」
 改めて自分が、人に迷惑をかけることをしたのだということを思い起こす。アストライアに会いたいばかりに足を踏み出したのだけれど、結局アストライアを始め、いろいろな人の手を患わせることになってしまった。
「わたくしはいいのよ、だって、お前ってば……」
 顎に手をかけられた。上を向かせられ、するとそこにはいたずらめいた色に光るアストライアの目がある。
「お前って、予想もしないことをやってのけるのね。そういうところ、とても面白い」
「面白い?」
 思いもかけない言葉をかけられて、ラティはきょとんと目を見開いた。ラティの顎に手をかけたまま、アストライアは笑う。
「さすがのわたくしにも思い及ばないいたずらだわ。予想もしなかったもの、お前がやってくるなんて」
 顔を寄せられた。目を近づけられて、胸がどきりと大きく跳ねる。もう少しでアストライアの吐息を直接感じられるという距離で、後ろから声がかかった。
「これは、姫巫女さま……王女殿下も!」
 振り返る。そこにいたのは神殿長と神官たち、神殿女官たちの顔もある。皆一様に驚いた顔をしている。
「姫巫女さま、どこにおられたのですか!」
「お捜し申し上げておりました、よもや心のよくない者に連れ去られでもしたのではないかと、皆で心配しておりました」
「ごめんなさい」
 ラティは、銀色の髪を揺らして謝った。ラティが素直に謝ったことにどう反応していいかわからないといったような神殿長だったが、アストライアの方を見て首をかしげる。
「なぜ、王女殿下がこちらに?」
「ラティは、わたくしの剣術の試合を見に来てくれたのよ。わたくしが誘ったの」
「いいえ、違いますわ!」
 ラティは声をあげた。皆がラティを注視する。
「ラティ」
 アストライアがラティをたしなめる。しかしラティの口は止まらない。
「わたしが勝手に行ったんです。アストライアさまは悪くありませんわ!」
 互いに違うことを言うふたりを前に、神殿長は戸惑っているらしい。アストライアとラティを交互に見やり、皺の寄った首をひねる。まわりの者たちも、ざわめいている。
「姫巫女が、剣術の試合に行った? いったいどうやって」
「歩いて……」
 ラティの衣服は汚れている。足だけは洗ってもらったのできれいだが、その格好を前に、神殿長は眉をしかめた。
「歩いて、王宮にまで行かれたというのですか。姫巫女が」
「ええ」
 ためらいながらラティはうなずいた。これほどに驚いた神殿長の顔を見たことがない。ラティはうつむいて、自分の足に目を落とした。そっと顔を上げると、眉間の皺を深くした神殿長の顔がある。
「姫巫女は、神殿から出ぬのが掟」
 驚きの中、自分の威厳を取り戻したらしい神殿長は重い声で言った。
「姫巫女も、それをご存じないわけではいらっしゃらないでしょう」
「……はい」
 ラティは、また視線を下に落とした。肩をすくめ、身を小さくする。
「それなのに、このような。掟破りにもほどがございます。姫巫女には、今一度ご自分のおられる立場をご自覚いただきたい」
「待って、ラティを罰するのならわたくしも!」
 ラティの両肩に手を置いたアストライアは、声をあげた。
「ラティはわたくしを見に来てくれたのよ、わたくしにも相応に罪があるわ」
 しかし、声をあげたアストライアを、神殿長は静かな瞳で見やるばかりだ。
「王女殿下には、王宮にお戻りいただきたい」
 重々しい声で、神殿長は言った。
「王女殿下の御身については、国王陛下がご沙汰されるでしょう。人をつけますゆえ、殿下には早々のお戻りを」
「ラティを罰するの?」
 心配そうな声でアストライアは言った。ラティは、そっとアストライアを見上げる。彼女がそのように焦燥しているのは初めて見た。
「やめてちょうだい、本当にラティは……わたくしを見に来てくれただけなのよ」
「殿下のご心配になることではございません」
 冷ややかに、神殿長は言った。かたわらのふたりの神殿女官に何ごとかを言いつけ、女官たちはラティの傍らに立つ。頭を下げて、そして腕を取った。
「お部屋に、姫巫女」
「え、ええ……」
 また逃げないようにとでもいうのか、女官たちはラティの腕を両方から取って、引きずるように神殿の敷地内に連れていく。
「アストライアさま……!」
 ラティは振り返った。アストライアを仰ぎ見て、アストライアも連れられていくラティを追いかけるように視線を向けた。
「王女殿下も。さぁ、お戻りを」
「ひとりで帰れるわ」
 アストライアは、視線はなおもラティを見たままそう言った。ラティは女官の手で、神殿の中に連れられて行ってしまう。振り返り振り返り、ラティはアストライアに視線を向ける。アストライアは馬の手綱を握ったまま、ラティを見守るように門の前に立っていた。


 まだ陽は高いのに、ラティは寝台の中にいた。
 昨日、神殿を抜け出すという禁を犯して王宮に武闘場に向かったラティは、あれから神殿長にきつく叱責された。貴き身分を何だと思っているのかという言葉は、もう何度聞いたか知れない。そしてラティは、この部屋から出ることを禁じられた。午前中の祭祀のあとは庭への散策も禁じられ、たったひとりでこの部屋にいる。鍵を表から閉められたとき、ラティは自分のしたことの重大さを改めて思い知った。
(わたし……なんて勝手なことを)
 改めて、たくさんの者に迷惑と心配をかけたことが身に染みて、ラティは心底落ち込んでしまった。寝台に伏せて何度もため息をついて、それでも後悔はいや増すばかりだ。
(みんな、わたしがいないことにものすごく心配してくれて。あちこちを捜してくれたって聞いたわ。わたしがよからぬ者に攫われたんじゃないかって、泣いてる者も……)
 そのときのことを思い出すと、罪悪感はますます大きくなる。ぶるりと身震いし、顔を敷布の中に埋める。また大きく息をつき、ぎゅっと目を閉じた。
(アストライアさまにも、ご迷惑を……。アストライアさまも国王陛下に叱られたんじゃないのかしら。あんな、わたしをかばってくださって……)
 アストライアに迷惑をかけたことが、一番堪える。自分のせいでアストライアがひどい目にあってはいないか、ラティのように部屋に閉じこめられることにはなってはいないか。自分なら普段から部屋にしかいないようなものだから耐えられる。けれど、アストライアには辛いだろう。ともすれば、もっと厳しい罰を与えられているかもしれない。その罰の内容はラティには想像もつかなかったけれど、ただその恐ろしさにラティは身震いした。
 ラティは立ち上がる。よろよろと戸棚に向かい、抽斗を開ける。隅のからくりに隠してある箱を取り出し、床に座り込んでそっと開けた。
 母の持たせてくれたというメダイは、いつものとおりそこにあった。彫り込まれている少女の横顔を見ると、少し心が落ち着いたような気がする。皆に迷惑や心配をかけたという罪悪感は薄れないものの、それでも少しだけ気持ちが晴れたように思う。
 なおもメダイを見つめるラティの耳に、物音が聞こえた。はっと顔をあげる。物音は窓の方から聞こえてくる。慌ててメダイを隠す間もなく、ひらりと桟を飛び越えて入ってきた人影があった。
「アストライアさま……!」
 アストライアだ。丈の短いトゥニカをまとい、身軽な格好はいつものもの。快活に光るまなざしも、いつものとおりの彼女のものだ。
「どう、して……」
 アストライアは、罰せられてはいないのか。突然のことに、ラティはただ目をしばたたかせた。
「ラティ、大丈夫?」
 床に座り込んだままのラティに、アストライアの手が伸ばされる。そっと顎に指を置かれ、上を向かされる。
 アストライアの顔が、目の前にあった。美しい瞳、整った顔つき。いつもラティの目を奪うアストライアの顔を目の前に、唇が震えた。
「ラティ!?」
 ぎょっとしたようにアストライアが声をあげる。ラティはしきりに首を横に振り、浮かびかけた涙を振り払おうとした。
「ごめんなさい……」
 とっさに口から出たのは、その言葉だった。
「ごめんなさい、わたし。わたしが勝手なことをしたせいで、アストライアさまにもご迷惑をかけて……」
「迷惑なんかじゃないわ」
 顎に指をかけたまま、まるでくちづけでもしそうな距離で。アストライアは強い口調で言った。
「お前が来てくれて、わたくしは嬉しかったのだから。お前が慣れない道を、歩いてきてくれたって……聞いたわたくしがどれほど嬉しかったか、お前は知らないのね」
「でも、みんなに迷惑をかけて。アストライアさまも、罰されたのでは?」
「罰なんか受けていないわ」
 そう聞いて、少し安堵した。息をつくラティの顎から手を外し、髪を撫でてくれる。何度も撫でられて、そっと頭頂にくちづけられる。その感覚に、アストライアは震えた。愛おしむようなくちづけが繰り返される。
「ラティ」
 言い聞かせるように、アストライアはゆっくりと言った。
「お前が、自分の行動で誰かに迷惑をかけたと思うのなら、もう罰はそれで充分よ」
「え……」
 アストライアは意外なことを言う。ラティは目を見開いてアストライアを見やった。アストライアは、優しい瞳でラティを見つめている。
「どういうことなのです、それは?」
「胸が苦しいでしょう?」
 ささやくように、アストライアは言った。
「泣いてしまうほどに、辛いでしょう?」
 驚くままに、ラティはうなずく。アストライアの手は優しく、ラティの髪を撫で続ける。
「その苦しさ、辛さがお前に与えられた罰なのよ。お前はもう充分苦しんだと思うわ。だったらもう、罰は終わったのよ」
 ラティは、唖然とアストライアを見ていた。アストライアは少し照れくさそうに笑い、指先にラティの髪を絡めた。
「そんな顔で見ないでちょうだい。おかしな気分になるわ」
「おかしなって?」
 ラティは、ただ単純にそう尋ねたのだ。何がアストライアを『おかしな』気分にさせるのだろう。それが知りたくて問うただけなのに、アストライアは答えてくれなかった。何かを振り切るように、アストライアは首を左右に振る。そして少し目をすがめて、ラティの手もとに目をやった。
「それはなに? 何か見ていたでしょう?」
「あ……」
 ラティの手の中には、あのメダイがある。そして同時に蘇ったのは、ヘタイラの言葉だ。
(お母さまの、大切な思い出の品です。決して誰にも、私以外の者に見せてはなりません)
 ヘタイラは、誰にも見せないようにと言った。しかし足もとには箱が転がっているし、目の前のアストライアからこのメダイを隠す術はない。
(それに)
 ラティは考えた。
(アストライアさまだもの。ほかの誰にも見せてはいけなくても、アストライアさまになら……アストライアさまになら、わたしの秘密を見せたい)
 アストライアが手を差し伸べてくれて、ラティは箱を拾って立ち上がった。ふたりで卓の前に座り、そしてラティは手を開いた。メダイが顔を覗かせる。
「まぁ、かわいらしい」
 メダイを見たアストライアは、そう言った。指先でそっと、少女の顔をなぞる。
「わたしの、お母さまが持たせてくれたものだと聞いています」
 ヘタイラに聞いたことを、ラティは思い出しながら言った。
「これはお母さまの祖国の神で、人間界と神の宮殿とを結ぶ、虹の橋の守人なんですって」
「異教の神なのね……」
 どこか何か、恐ろしいものを見たかのようにアストライアは言った。ラティは慌ててアストライアを見上げる。
「虹の乙女というのですって。美しいと思いません? わたし、悲しいことがあったりしたらこのメダイを見るんです。そうしたら、悲しいのがなくなっていくみたい」
「ラティの守り神なのね」
 そうつぶやいて、アストライアはまた彫られた少女の姿を指でなぞった。アストライアの温かい、少し固い手が目の前で少女の彫刻をなぞって動いている。そのさまに、ラティは見とれた。
「でもこれは、しまっておいたほうがいいわね」
「ヘタイラにも、そう言われています」
 ラティはうなずいた。
「ヘタイラ?」
 アストライアが不思議そうに言ったので、ラティはヘタイラが誰なのかを説明した。母とも祖母ともいえる、大切な人だったことを。雪の深い日に亡くなってしまったのだということを。
 ヘタイラの話をしていると彼女のことを思い出し、自然に視界が曇ってしまう。ラティは慌てて目をしばたたかせたが、涙が一粒落ちるのは止められなかった。
「まぁ、わたくし。またお前を泣かせてしまったわね」
「ごめんなさい……」
 アストライアの前で泣くのは、今日で二回目だ。ラティは慌てて目をこすり、何度もまばたきをして涙を乾かそうとした。
「いいのよ、もっといろんなお前が見たい」
「アストライアさま……?」
 アストライアの手が、再び伸ばされる。今度彼女の手はラティの頬に触れ、そして唇が触れてきた。柔らかい唇が目もとに落ちて、そっと涙を吸われる。
 唇は、しばらく目もとに押しつけられていた。まるで涙を味わうように。そうではない、ラティの肌そのものの味を確かめているというように。
 アストライアは、押し出すようにつぶやいた。
「お前の笑っている顔も、泣いている顔も。いろいろな顔が見たいのよ」
「……わたしは」
 目もとに、小さく音のするくちづけをされた。目を見開いたラティは、吐息のかかるほど近くにアストライアの顔を見て、何度もまばたきをする。
「わたしは、アストライアさまの笑顔が見たいです。笑っているお顔が、好きです」
「まぁ、ありがとう」
 アストライアは言って、低く潜めた笑い声を上げた。なぜ彼女が声を潜めているのかと考えて、ふたりがこの部屋にいることが表に洩れないようにだと気がついた。
 もしここに誰かが入ってきたら。アストライアはその身軽さですぐに窓から逃げられるかも知れないけれど、すぐにメダイを隠すことは無理だろう。だからアストライアは、いつも以上に話し声が洩れることに気を遣っているのだ。
 ラティは慌てて立ち上がった。箱の中にメダイをしまい、蓋をする。部屋の隅の戸棚に駆け寄り、抽斗に入れる。慎重に戸棚を閉めた。そんなラティを見てアストライアはうなずく。
「そう、しまっておいたほうがいいわね。姫巫女が異教徒だと知れたら、今回のことどころではない騒ぎになるわ」
 卓の上に頬杖を突いたまま、アストライアは言った。
「わたくしは、異教徒ではありませんわ」
 振り返ったラティは言った。
「わたしは、アウェルヌスの神を信仰しております」
「でも、それを持っているだけで異教徒だと見なされるかも知れないわね」
 アストライアはつぶやく。その目は、じっとメダイのしまわれた抽斗に向いている。
「姫巫女が、もし異教徒だったら?」
 自分自身に言い聞かせるように、アストライアは言う。
「異教徒の姫巫女なんて、ありえないわ。でも神殿が、姫巫女が異教徒だと認めたら……?」
 アストライアの言葉はくぐもった独り言で、ラティにははっきりと聞き取れない。彼女の言葉の意味がわからなくて、ラティは首をかしげた。
「アストライアさま?」
 ラティが問いかけるのに、アストライアははっとしたように顔をあげた。ラティが自分を見ていることに気がついたらしく、慌てたように微笑を浮かべる。
「なんでもないのよ、ラティ」
 薄い笑みを浮かべてそう言ったアストライアは、どこか憂いを帯びて見えた。その笑みはアストライアをラティよりもずっとずっと年上の者に見せて、ラティは胸を突かれる。
(いったい、何をお考えだったのかしら……?)
 ラティは、じっとアストライアを見つめていた。窓からの風になびく金の髪、考えごとをしているらしく伏せられている青い瞳。浅黒く灼けた肌。整った鼻梁に小さな口。少年のような装いと、しなやかな肢体。何よりもその快活さ、ラティの心を掴んで離さない朗らかさ。
 そんなアストライアの、どこまでもラティを魅惑する姿を、いつまでもずっと見ていたいと思った。
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