虹の架け橋とふたりの乙女

月森あいら

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第三話

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 ラティの衣装は白い、裾の長いものだ。袖は長く甲までを覆っていて、見えている部分は顔と手の先だけだ。
 その裾を、ラティはたくし上げた。アストライアに教えられたとおりに結び、足を剥き出しにする。そして窓の桟に手を置いた。腕を伸ばして桟を乗り越え、足を表に出して外を見る。
 通る者はない。このようなところをまた女官に見られれば大騒ぎになるところだが、静かな昼下がり、まわりには誰もいなかった。ラティは足をぶらぶらさせる。
 しかし、その先を降りていく勇気はなかった。革靴の足で窓枠を蹴って、地面に降りる勇気はどうしても絞り出せなかった。だから座ったまま足を揺らし、吹き抜ける風の心地よさを感じていた。
(これだけでも、充分気持ちがいいわ。こうしてるだけでも、何だかいつもと違う気がするもの)
 ふと視線を向こうに向けたのは、誰かに呼ばれたような気がしたからだ。窓の桟に腰掛けたままラティは視線をひょいと向こうに向けて、そしてそこに見た姿に驚愕した。
「アストライアさま……!」
 そこにいたのは、アストライアだ。やはり来てくれたのだ。ラティは身を躍らせた。そのまま走って、アストライアのもとに駆け寄る。
「アストライアさま!」
「まぁ、ラティ!」
 驚いた顔をしているアストライアに、ラティは抱きついた。彼女の胸に、顔を埋める。
「来てくださると思っていましたわ……!」
 来ないかもしれない。そう思いながらも、やはりラティはアストライアを待っていた。来てくれるのを待っていた。こうやって窓から訪ねてきて、そしてラティを神殿から連れ出してくれるのを――。
 抱きついてきたラティに、アストライアは笑い声を上げた。背に腕を回し、ぎゅっと抱きしめてくる。彼女の、甘い香りが鼻をついた。それにどきりと胸を突かれ、ラティは一歩退こうとしたが、アストライアの腕がそれを許してくれなかった。
「ラティ、窓から出てきたのね? お前がそんなことをするとは思わなかったわ」
「え?」
 振り向くと、ラティの背後には部屋の窓があった。自分が窓を乗り越えたのだ。乗り越えて、アストライアのもとに走ってきたのだ。そんな自分の大胆さが恥ずかしくなったけれど、目の前にアストライアがいるという喜びに代わるものではない。
「しかも、そんな格好をして。素敵ね」
 アストライアは小さく笑う。見ればラティは衣服の裾を持ち上げ結びつけた格好で、両足がすっかり見えている状態に肩をすくめた。
「これは……アストライアさまが教えてくださったのではないですか」
「そうね、でも本当にするとは思わなかった」
 そう言って、アストライアはまた笑った。アストライアの笑い声は優しく響き、その声はラティの体に染み渡るように思う。
「秘密の抜け道を、通っていらしたの?」
「そうよ。今日はお前を訪ねてはいけないと、お父さまがおっしゃるものだから」
 不満げにアストライアは唇を尖らせる。そんな表情はかわいらしくて、ラティの頬はほころぶ。
「秘密の抜け道、教えてあげる」
 アストライアは、どこか得意げに言った。ぎゅっとアストライアの手を取る。引っ張られて慌てたが、アストライアに手を取られて走るのは思いもしない心地よさだ。
「ねぇ、アストライアさま……」
「しっ」
 口の前に、アストライアが指を立てる。ラティは慌てて口をつぐむ。遠目に、書簡を抱えた神官が歩いてくる。
 アストライアに引っ張られて、木陰に身を隠した。狭いところに身を寄せ合って、通りかかった神官が去っていくのをやり過ごした。
 目が合ったアストライアは、含み笑いをする。ラティも小さな声で笑い、ふたりして懸命に声を堪えながら、人影がなくなるのを待った。
「見つかっては、連れ戻されてしまうから」
 アストライアは、ラティの耳もとでそうささやいた。彼女の呼気が、耳に触れる。その熱さにどきりとしながら、ラティは小さくうなずいた。
 神官の姿が遠くなって、ふたりはまた立ち上がる、アストライアの手はラティの手をぎゅっと掴んだまま、緑の森を抜けていく。
 アストライアが入り込んだのは、池の向こうの生け垣だ。背の高さほどの剪定された木が並んでいる中、アストライアがラティの手を引っ張る。そこには人ひとりが出入りできるほどの隙間があって、ラティは驚いてその隙間を見た。
「こんなところから?」
 このような場所に、空いているところがあったのか。どこもかしこも整然と、隙なく整えられていると思っていた神殿にこのように出られる場所があったことに、ラティはただ驚くしかない。
「よくご存じでいらっしゃるのね、こういうところ……」
「ここを出たら、神殿の裏の狭い道に出るのよ。そこにわたくしの馬をつないであるわ。あまり人の通らないところなの、きっとお前も誰にも見つからずに出られるわ」
 ともすれば、こういう場所はほかにもあるのかもしれない。ラティが、神殿からは出られないと思い込んでいただけで。その気になればここからこっそり外に出る方法は、いくらでもあるのかもしれない。
「ほら、これ」
 アストライアが、衣の下から一枚の白い布を取り出したことに驚いた。アストライアは布を広げ、ラティの頭からすっぽりとかぶせる。
「これで、お前の髪を隠さないと。ほら、ここもほどいて」
 次いで、アストライアはラティの足もとにひざまずく。腰にたくし上げた衣服の結び目はほどかれて、ラティは頭からつま先まで、すっかり姿を隠した格好になった。出ているのは顔と手の先だけだ。
「かえって目立ってしまわないかしら……?」
 不安にそう言うラティに、しかしアストライアは笑うばかりだ。
「今日お前を連れていくのは、狩りの野だもの。あのような広い場所、誰もほかの者を見咎めたりしないわ」
 どこまでも快活に、アストライアは言った。
「それに、陽に灼けるのを恐れてお前のような格好をして乗馬するご婦人はたくさんいるわよ」
 きょろきょろとあたりを見回した。背の高い生け垣、土の道。今まで知っていたのとは、まったく違う場所。
 ラティは、外にいた。あまりにあっけなく禁じられた境界線を越えたことに驚き、戸惑うラティは顔を上げた。
「わたし……」
「簡単なことだわ」
 アストライアは笑う。笑ってラティの手を取って、ぐいと引き寄せる。引き寄せられてアストライアの胸に身を寄せたラティは、その柔らかさに息を呑んだ。同時に鼻腔をつく香りに、身震いする。
(甘い匂い……)
 それはアストライアの好きな棗の匂いのような気もしたし、ほかの何かのような気もする。アストライアの胸の中で感覚と嗅覚、両方を突かれてラティは戸惑い、身悶えするように彼女の腕の中から離れた。
「ラティ?」
「いいえ、何でも……」
 アストライアの体温が近くにあることは、心の臓に悪い。どうしても動揺してしまう。離れなくてはと思うのに、それでいて彼女が遠くなることはせつない。ずっと近くにいてほしい。近くにいて、抱きしめてほしい。
 そんなことを考える自分に驚いた。抱きしめてほしいなんて、そんな。それでも彼女の腕の中に抱きしめられた感覚ははっきりと残っていて、ラティは小さく身震いする。
「早くおいでなさい。こちらに、わたくしの馬が待っているわ。お前も一緒に乗るのよ」
 手を引かれて路を行く。そうやって、決して乗り越えることのできないと思っていた線を乗り越えたラティは、アストライアの少し固い手にぎゅっと握られたまま、薄い革靴で道を走った。


 初めて直接乗った馬は、激しく揺れてラティを戸惑わせた。頭からかぶった布を抑えながら、ラティは困惑した声をアストライアに向ける。
「アストライアさま、こんなに揺れるなんて……!」
「慣れないうちは声をあげないほうがいいわよ、舌を噛むわ」
 そう言われて、慌てて口をつぐんだ。ラティはアストライアの前に腰を降ろしていて、手綱を持つアストライアの胸の中に抱え込まれる格好になっている。彼女の体温を間近に感じるこの姿勢も揺れる馬も、何もかもがラティの動揺を誘い、ラティは馬の頸にしがみついていることしかできなかった。
「あっちに行くと、王宮なのよ。馬で来なくても、歩いてでも充分来られる距離だけれど」
「そうなのですか……」
 ラティはそちらの方向を見やった。アストライアの指差す方向には土の道が延びていて、ラティの足でも歩いていけそうだ。王宮に行ったことはないけれど、いつかこの道を歩いてアストライアにラティの方から会いに行くこともできるのではないかと考えた。
「でも、今日はこちらね。お前に見せたいところがあるのよ」
「きゃっ!」
 馬が少し体を揺らして、均衡を失ったことにラティはぎゅっと目をつぶる。こんな不安定なところでは、アストライアの体の柔らかさや、ときおり触れる手の温かさに胸を高鳴らせている場合ではない。
「ラティ、見てごらんなさい」
 だからアストライアにそう言われたとき、ラティはただ馬の頸に齧りついているだけだった。言われるがままに、そっと目を開ける。目に飛び込んできたのは、一面緑の草原だった。
「ま、ぁ……」
 ラティは言葉を失った。どこまで続くのか想像もできない広い場所、ところどころに背の高い木があって、草木は風に揺れている。
「こんな、広い場所……」
「素晴らしいでしょう。ここはわたくしのお気に入りの狩り場よ」
 胸を張って、アストライアはそう言った。彼女はぐいと手綱を引き、それにラティは慌てて馬の頸にしがみついた。
「兎に狐に、いろいろな生きものがいるのよ。秋にはもっと大きな動物が現われるとお兄さまがおっしゃっておいでだったから、秋の狩りの宴が今から楽しみなの。きっと、一番の獲物を仕留めてみせるわ」
「アストライアさまは、狩りに慣れていらっしゃるの……?」
 恐る恐る、ラティは尋ねた。アストライアはうなずく。
「もちろんよ、離宮でも狩りはわたくしの一番の楽しみだったの。獲物が捕れなくても、遠乗りするだけで楽しいわ」
 にっこり微笑んで、アストライアはラティに顔を寄せてきた。頬ずりをするような距離で、また微笑む。
「お前と遠乗りができるなんて嬉しいわ。お前をあの神殿から連れ出すことができて、もっと嬉しい」
「わたしこそ……楽しい、ですわ」
 こうやってアストライアと一緒にいられるのは、ラティも嬉しい。しかしいかんせん慣れない馬の上、ラティはいささか顔を引きつらせながら、そう言った。アストライアは、声を立てて笑う。
「無理しなくていいのよ。でも、すぐに慣れるわ。お前、そうやってしがみついている様子も、なかなかさまになっているじゃないの」
「そんな、アストライアさま……」
 また笑ったアストライアは、手綱を引いて馬を走らせる。そうは言っても今ではラティもだいぶ馬上に慣れた。馬の頸にかける手は震えているが、それでも顔を上げてあたりを見回す余裕があるのだ。
「あの先は、どうなっているのですの?」
 ラティの指差した先を、アストライアは見やった。
「あそこは、森よ。ここからだとまばらに木が生えているだけにしか見えないけれど、中に入っていくに連れてどんどん深くなっていくの。秋にはあの奥に狩りに行くのだって聞いているわ」
 わくわくした調子を隠しもせずに、アストライアは言う。その口調だけでも、アストライアが秋の狩りを楽しみにしているのだということが伝わってくる。
「行ってみる? わたくしも、まだ深いところにまで行ったことはないの」
「わ、わたしが……?」
 森の中に行く。初めての乗馬でそのような先にまで行くことはラティには恐ろしく、思わず顔が引きつってしまった。それをアストライアには、しっかり見られてしまったらしい。
「また今度にしましょうか。お前、そんなに脅えているのだものね」
 そう言って、アストライアはラティの頬にそっと触れる。触れる指の感覚にびくりと震え、アストライアはまた笑った。
「脅えてなんか、いませんわ……」
「嘘。そんなに震えているじゃないの」
「震えているわけではありません、ただ、馬が揺れるので」
「それを震えているっていうのよ」
 アストライアは笑い、手綱を引いた。このまま森に向かってしまうのかと思ったのに、しかし馬は方向を変えて、そのまま草原の中を駆ける。
「でも、だいぶ慣れてきたでしょう?」
「ええ、最初に乗ったときよりは、ずっと」
 事実、馬の頸にしがみつくしかできなかったラティだが、今ではまわりを見る余裕ができてきている。駆ける馬はひたすら続く緑の草原を駆け、そしてアストライアは、ふと馬を止めた。
「どうなさったの?」
「ほら、あそこ。見て」
 アストライアが指差した先、茶色の兎がこちらを見ている。兎は三匹いて、ラティたちが近づいてくるのかどうか、じっと伺っているように見えた。
「兎だわ!」
「ラティったら、兎を見るのが初めてみたいね」
「初めて、ですの」
 ラティがそう言うと、アストライアは驚いたようにラティを見た。
「本当に?」
「ええ、書簡の挿絵で見たことはあるけれど……神殿では生きものは飼われないし、入り込んでくるものも……わたしは見たことはありませんわ」
「姫巫女さまですものね」
 ため息とともに、アストライアは言った。その言葉に、ラティはうつむいてしまう。神殿から出ることを許されない、とらわれの身。そんな自分を自覚させられたかのように感じて、そっと唇を噛んだ。アストライアが慌てて声をかけてくる。
「そういう意味じゃないわ。ごめんなさい!」
 アストライアが、大きく声をあげる。ラティの腰に手を回してきて、抱き寄せるように力を込めた。
「お前を傷つけるつもりはなかったのよ、そんな顔、しないでちょうだい!?」
「いいえ……わたしこそ」
 アストライアの一言一言に振り回される自分が情けない。けれどアストライアの言葉はラティの中で大きく、その中にどこか突き放したような色があるというだけで、どうしても気持ちが沈んでしまう。
「わたしこそ、ごめんなさい」
 だからことさらに元気を装って、勢いよく顔を上げた。すると目の前、ほんの近くにアストライアの顔があって驚いた。
「あ、っ……」
 馬は、何かにつまずいたのだろうか。いきなり大きく歩調を変え、その拍子にアストライアの胸にすがってしまう。ふいと唇を掠めた柔らかいものは、よもやアストライアの――。
「ご、ごめんなさいっ!」
 ラティは慌てて体を遠のける。擦れるように触れ合っただけの唇が、熱を持っているように感じられる。アストライアの腕に抱きしめられたまま、ラティは大きく息をついた。
「大丈夫?」
「え、ええ」
 アストライアは、馬の足を止めてくれた。動かなくなった鞍の上、ラティはそう返事するだけで精いっぱいだった。
 心の臓が落ち着かない。痛いほどに打っている。アストライアと身を近づけるだけで胸は落ち着かなく騒ぐのだ。ましてや唇が触れたとなれば――。
(ほんの少し、触れただけじゃないの)
 そう考えて、ラティは自分を落ち着かせようとする。
(ほんの少し、拍子に触れてしまっただけだわ。何でもないこと、このようなこと、何でも……)
 そう懸命に自分に言い聞かせるものの、やはり心の臓は激しく動いているままだ。身を寄せているアストライアに勘づかれないかと慌てるが、馬上に逃げる場所などない。
「お前、どきどきしてる?」
 アストライアにそう言われて、ラティはもう少しで鞍からすべり落ちるところだった。アストライアの腕が慌ててラティを救ってくれる。そうやってまた強く抱きしめられて、ラティの胸は鎮まる間がない。
「どうしてこんなにどきどきしてるの?」
「それは、アストライアさまが……」
「わたくしが?」
 目の前のアストライアは、いたずらでも思いついたかのように微笑んでいる。
「わたくしが、どうかした?」
 彼女は手を伸ばす。アストライアの手は、ラティの左胸に置かれる。そのような場所に触れられてラティはまた鞍から落ちそうになったが、アストライアが引き寄せてくれる。
 アストライアの手は、ラティの左胸から動かない。胸の膨らみをそうやって抑えられて、ラティは焦燥した。
「アストライアさま、お手を……」
「こんなにどきどきしてる」
 さも楽しげに、アストライアは言った。
「わたくし、何もしていないわ。なのに、お前はどうしてこんなに落ち着かないのかしら?」
「アストライアさま、意地悪をおっしゃらないでください……」
 このままでは、口から心の臓が出てしまいそうだ。ラティはアストライアの手から逃げようとし、しかしアストライアはそれを許さない。それどころかますます身を寄せ抱きしめて、ふたりの体の接する部分は大きくなるばかりだ。
「お手をお離しください。わたし、このままでは……」
 こんなにも胸を高鳴らせたことは初めてだ。誰かの腕に抱きしめられるのも、こんなに近くに顔を寄せられるのも。
「このままでは、なに?」
 なおも意地の悪い調子でそう言ったアストライアは、そっと顔を寄せてくる。
 また、唇が触れた。今度は掠めるだけではなく、確かに彼女の唇の形を感じる。
「ごめんなさい」
 そう言ったのは、アストライアだ。ラティはよほどに硬直した顔をしていたのだろう。彼女は苦笑して謝り、そしてラティの頬を指先で撫でた。
「お前が、あまりにも緊張しているのだもの。そんなに体を固くしなくても、乗馬はできるわよ」
「わかってますわ、それでも……」
 アストライアがこんなに近くにいるから。頬や胸、唇に触れたりするから。だからラティは落ち着かないのだ。そのことに気づいているのかいないのか、アストライアはいたずらめいた表情でラティを見やり、そして優しく微笑んだ。
「アストライアさまが、わたしに触れられるからですわ。わたし、どなたかに触れられることには慣れておりませんの……」
「そうだったわね、ごめんなさい」
 アストライアはまた謝った。彼女が少し体を離してしまったのは、ラティへの気遣いだろう。ラティはそう望んだはずなのに、実際に彼女が離れてしまうと一抹の寂しさを感じる。
(そんな、わがままなこと……)
 そう自分も思う。ラティは自分でも理解できない、困惑の中にいた。触れられたくないのに触れられたい、近くにいてほしくないのにいてほしい。
「そろそろ戻りましょうか」
 馬の手綱を握り直したアストライアは言った。帰りたくない。とっさにラティは、そう思った。アストライアの言うことなのに、うなずくことができない。しかしアストライアは冷静に言った。
「お前がいないのを不審に思う者があるかもしれないわ。もう二度と会えないなどということになってはいけないから、送っていくわね」
「ありがとうございます……」
 そう小さくつぶやいたラティに笑顔を向けて、アストライアは軽く馬の腹を蹴る。馬は小さく嘶いて、方向を変える。ゆるい足取りで走り出した。
 ラティは、馬の頸に手を置いた。しかし歩はゆっくりで、ここに来たときのように振り落とされそうなことはない。馬に揺られながら、ちらりとアストライアを振り返る。目が合うと、にっこりと微笑みかけてくれた。
「次は、いつお前に会えるかしら」
「それなら、次の七の曜日の祭祀で……」
 小さな声でそう答えたラティを、アストライアは驚いたように見やる。
「まぁ、そんなことを言ってるんじゃないわ。祭祀で会うのは、会うとは言わないわよ。こうやってお前と遠乗りしたり、おしゃべりしたりはいつできるのかっていうことよ」
「わたしは、いつでも待っておりますわ!」
 思わず声をあげてしまい、自分の勢いにラティは首をすくめた。それでも言葉を続けた。アストライアに自分の思いを伝えたいと、懸命に言いつのった。
「いつでも、アストライアさまがおいでになるのを楽しみにしております!」
「ありがとう」
 アストライアは言って、手綱を持ったままの手でラティの頬を撫でた。まただ。アストライアは、始終こうやってラティの頬に触れる。
「どうして……」
 触れられながら、ラティは小さな声で尋ねた。
「どうして、わたしの頬に触られるのですか?」
「だって、心地いいのだもの」
 あっさりとアストライアは言った。
「お前の頬は、柔らかくて気持ちいいわ。ずっと触れていたくなる心地よさ」
 そしてまた触れてくる。指先でくすぐるようにされて、ラティはくすくすと笑った。
「お前の髪も、頬も、どこもかしこも気持ちいいのだもの」
 今は布の下に隠れてしまっている髪を愛おしむように、アストライアは言った。
「わたくしが触れるのは、いや?」
「そんなことはありませんわ……」
 ラティは、ふるふると首を振る。触れられたくないのに、触れられたくない。そんな矛盾した気持ちがまた蘇って、思わずぎゅっと目を閉じる。
「じゃあ、触らせて」
 屈託なくそう言って、アストライアはまた頬に触れてくる。くすぐったさにラティが笑うと、アストライアも楽しげに笑い声を立てた。


 ふたりは、神殿の立木の切れ目からこっそりと中に入る。
「気をつけてね、見つからないように」
 手を取り合い、神殿の森をそっと抜ける。出ていったとき通ったのとはとは違う神官が視界の向こうを横切り、また慌てて木陰に隠れる。目が合って、笑い合った。
「騒ぎにはなっていないようね」
「騒ぎ?」
「姫巫女がいなくなったという騒ぎよ。こんな長い間お前を外に連れ出して、いなくなったって騒ぎになるんじゃないかと心配したけれど」
「そのようなこと、心配していらっしゃったの?」
 いきなり窓から現われたり、ラティに窓からの抜け出し方を教えてくれたり、騎馬が初めてのラティを馬に乗せてあんなに遠くに行ってしまうような剛胆な人物とは思えないようなことを、アストライアは言った。
「わたし、ときどきこの森を散歩することがありますから」
 神官の姿がなくなったのを見て、ふたりはまた歩き出す。
「それで、二刻ほど部屋に戻らないこともありますわ。今もそうだと思っているのではないでしょうか」
「庭園の散策は、許されているの?」
 ラティはうなずいた。
「なら、まったく自由がないというわけでもないのね。神殿から出られないのは同じだけれど……」
 その口調が、それならもう自分がラティを外に連れ出す必要はないというように聞こえた。ラティは慌てて声をあげる。
「でも……!」
 そしてぎゅっと、アストライアの袖の端を掴む。
「またおいでください。またアストライアさまとご一緒に馬に乗ったり、森の奥にも行ってみたいですわ!」
 ラティの勢いに、アストライアは驚いたようだ。何度かまばたきをしてラティを見、そしてうなずいてくれた。
「もちろん、来るわ。今日の遠乗りなんてまだまだ序の口よ。お前を、もっと広い場所に連れていきたいわ」
「ほかには、どこに連れていってくださるの?」
「市よ、もちろん。何かお前に似合う、かわいい飾りものを買ってあげるわ」
 飾りもの。そう聞いてラティの頭に浮かんだのは、小さな箱に入ったあのメダイのことだ。鎖に通して首からかけられるようになっている。
(メダイ……いつか、アストライアさまにお見せしたい)
 ふたりはアストライアの部屋の窓に近づいていく。戻りたくないという思いに息をついたが、しかしいつまでもこうしてはいられない。窓から入るところを誰かに見られでもしたら大事だし、それで二度と会えないようなことになれば元も子もない。
 アストライアはひざまずいて、ラティの衣服の裾をからげてくれた。ラティはアストライアほど器用に窓をよじ登ることができなかったけれど、後ろからアストライアが押してくれて、どうにか登ることができた。そうやって体に触れられることにどぎまぎしながら窓を乗り越え、部屋の中に飛び降りる。振り返ると、窓の向こうからアストライアが手を振ってくれていた。
「またね、ラティ」
 まるでふたりは明日も会うことを約束されているかのように、アストライアは言った。
「また来るわ」
 そして彼女は踵を返す。凛々しい後ろ姿に金色の髪が揺れて、そのさまをラティは、見えなくなるまで見送っていた。
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