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第一章 予想外の婚約破棄

第1話 婚約破棄された令嬢

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 夜の帳の向こうから男女の話し声が聞こえてくる。
 リヴィアは足を止め、耳を澄ませた。
 長く続く回廊の向こう、どうやら夜会が開かれている広間から大分離れた場所のようだ。

「どうしようかしら」

 眉をしかめ、ひとりごちる。
 夜会から離れた場所での男女の話声なんて、おおよそ面倒事である。自分ではどうしようもなかろう。

 ……かといって屋敷を誰かが勝手にするのを見逃す事も如何なものか。誰かを呼びにいくべきか。

 リヴィアは逡巡するも、多少様子を見ておかないと、どう伝えていいものか分からないと判断する。

 そろそろと回廊を進み、柱の陰から声のする方をそっと伺った。

「でもあの方はもう結婚されたではありませんか!」

 切羽つまった女性の声にリヴィアは思わず息を呑んだ。

 ◇ ◇ ◇

「婚約破棄されたんですってね。お可哀想に……」

 子爵である叔父夫婦の結婚二十五周年を記念した夜会。

 そもそもリヴィアは社交が苦手だ。更に今の状況は少しリヴィアに居心地の悪いものである。

 真っ直ぐな黒髪にごく普通の水色の瞳。

 扱いにくいこの髪は、夜会用に整えるには侍女の手を煩わせるし、何より鏡を覗くと見返してくる、自分の顔がリヴィアは嫌いだった。

 青白い顔にややキツい眼差し。

 もう少し優しい面差しだったら良かったのに。
 背も平均よりも高めで可愛らしさからには更に遠ざかる。

 そうして叔母や従姉妹の顔を思い浮かべてはため息をつく。そもそも自分にどんな色が似合うのかもよく分からない。

 だけど二十五周年のこの夜会は、夫妻も楽しみに準備を進めていた。その為叔父が父を説得し、リヴィアも是非にと言われての出席だった。

 誘われた事は嬉しかったが、社交経験の低い自分が参加して場に迷惑を掛けないだろうかと不安があった。

 だから夜会の取り仕切り方や叔母の立ち回りを学びたいと申し出たのだ。これならもし何か事が起こっても、身内がフォローに入れて問題も少ない筈だ。

 叔父夫婦はリヴィアの後ろ向きな姿勢を注意したが、日ごろから可愛がって貰っている叔父に、こんな晴れの舞台でまで迷惑を掛けたくない。

 普段から令嬢らしくない振る舞いをしている自覚はあるが、リヴィアにだって常識くらいある。
 だからこういう経験もやがて役にたつだろうしやりたいのだ、と明るく装って叔父夫婦を説得した。

 それに叔母は少し前に足を痛めてしまっている。大した事は無いらしいが動き回るのは辛いだろう。
 出来る事なら大事を取って欲しいし、自分が動き回る事で叔母をサポートしたかった。

 そうしてあまり華美では無いドレスに身を包み、挨拶程度の社交にリヴィアは安堵していた。

 けれどそんな時間はすぐに終わりを迎えた。

 叔母の指示の出し方や家令の動きを見ながら、広間の様子を見て控えていたところ、壁の花になっていた令嬢を従兄に任せようと話しかけたのだが……。
 返ってきた言葉がこれである。

 目を丸くして固まっているリヴィアを、令嬢は気の毒そうに扇で口元を覆い、そっと視線を逸らしながら続ける。

「ごめんなさい、私、ゼフラーダ辺境伯のご子息と懇意にしている方と仲が良くて。つい……」

 ご令嬢は本当に申し訳無さそうにしているが、この話を聞いただけでも、少なくとも、その辺境伯子息の懇意にしている方とやらに、何某かを頼まれてこの夜会に出席しているのだろう。

 懇意にしている────それは恐らくあの人・・・の事。

「でも仕方ありませんわよね。淑女が魔術院勤めだなんて……」

 リヴィアは強張りそうになる顔を綻ばせ、令嬢に笑いかけた。

「本当にご縁が無かっただけの話なのですよ。それに領地が遠く離れている事もあり、一度も顔を合わせた事もありませんもの」

 思っていたより動揺が隠れていて安堵する。

 考えてみれば見知らぬ他人と話す事も滅多にない。
 その上で久しぶりの会話がこれなのだ。会話が成り立っているだけで高い自己評価をつけたいところだ。

「でも、絵姿やお手紙はお互いやりとりされていたのでしょう?」

 ここまでは想定内のやりとりだったのか、令嬢は特に動じた様子もなく、小首を傾げてリヴィアに問いかけた。

 そもそも自分が婚約していたなんて、知らなかったなんて言ったら、信じて貰えるのかしら。

「いいえ?」

 内心の憂鬱を綺麗に隠した笑みを浮かべ、リヴィアはしっかり否定した。

 そう、世間では自分は婚約破棄された可哀想な令嬢で、今現在周りにあるのは好奇と嘲笑と憐憫の感情である。

 元々変わり者の令嬢扱いされていたところにこの話題なのだから、輪をかけて面白がられている。

 こちらとしては、ある日知らない相手に突然婚約破棄する旨の重苦しい手紙を送りつけられるという、不遇の一言につきる状況なのだが。

 貴族らしからぬ話ではあるが、自分が婚約していたなんて知らなかった。

 知らない相手からの手紙を、いぶかしみながらも開け、読んだ事を褒めて貰いたいし、その後に内容に仰天してソファーに倒れ込んだ事を心配して欲しいところだ。

 ただ、理解してもらえるだろうか。

 ────まあ、ありえないだろう。

 目の前には疑わしそうな令嬢である。

 この婚約は父の勝手だ。リヴィアが子どもの頃にとりまとめたらしい。

 流石に今回の事は常識人の叔父が父をいさめた。

 ただ、当の本人はいつもの通り。

 執務室に押し入ったリヴィアが婚約破棄の手紙をつきつけると、目を丸くしたものの、内容を確認すると大きなため息を吐き、

「もう正式な婚約破棄を申請しているとある。仕方がないだろう。先方が気に入らないというのだから」

 と、淡々と話して口を閉じた。

 凪いだ目で見つめられれば、それが自分を咎めるような感覚が襲ってくる。
 それでもそれだけで終わる子ども時代はもう過ぎ去った。

 リヴィアは一瞬固まりはしたものの、父に嫌悪の眼差しを向けた。

 まさかこんな時までいつも通りとは。

 基本父はリヴィアに関心を示さない。

 子どもの頃はその度に自分が悪いのだと青ざめ反省し、父に心を向けてもらう事に必死だった。

 良い子をやりつくした後は悪い子まで色々と行い、父の関心を探った。

 母は既に亡かった。
 だから余計に唯一の家族を求めていたのだと思う。

 何故自分は父に笑い掛けて貰えないのか。頭を撫でて貰えないのか。抱きしめて貰えないのか。

 今思えば、ばかばかしいの一言に尽きる。

 母はリヴィアを産んで間もなく亡くなった。産後の肥立ちが悪かったそうである。

 父は母を亡くして、その理由となったリヴィアを────

 それならまだ良かった。

 単にリヴィアに興味が無いのだ。母にも。

 だからと言って再婚するつもりは無いようで、父にとっての唯一の愛は、遠く昔に別の誰かと結婚してしまった恋した女性に対してのみなのだ。

 知った時は衝撃だった。母も自分も何なのだろうと。

 今は全くもって一途な事だと思うだけだ。
 ただ、だからこそ父のこの反応は些か拍子抜けするものがあるのだが……

 貴族の婚姻は愛では無く義務のみで結ばれるもので、だからこそ跡取りを設けた後は自由恋愛に勤しむのだと言われても、それが熱意のあるものだとはリヴィアは思わない。

 だから公然の秘密と言われるのだし、都合が悪くなれば別れてしまうのだから一過性のものだとしか考えるられない。それが貴族の「恋愛」だ。

 ただ父のそれは真逆であった。

 先に誠の愛があり、その後に政略結婚があった。

 そして彼の愛は結婚後何年経っても揺るがない。

 その気持ちの強さを純愛と呼び美談として劇にでもしたら受けるのかもしれないが。

 だが娘の立場としては、だからこそ父の想いを受け入れる事は出来なかった。

 それ程好きならさらって駆け落ちでもするか、いっそ未婚を通せば良かったのだ。

 それでも結局結婚したのは貴族意識によるものというのだから、なんでも貴族だからで済ませないで欲しい。

 自分の存在が、ただただみじめだ……。

 父は貴族の義務を果たす為に母と婚姻を結んだが、心は昔に違う人に捧げてある。

 だから────

 父はリヴィアを愛さない。母を愛さなかったように。

 自分たちはただ同じ屋敷に住む、家が結んだだけの家族なのだ。

 父の自分に対する無為な感情は、既に諦めている。
 だが、こうして当たり前の様に父の────貴族の都合に巻き込まれると、やはり憤りを感じえない。

 父にしてみれば、婚姻は親が決めるものである以上、本人が知っている必要は無いという事らしいが。

 あまりの非常識ぶりに今までの分も合わせて怒り狂いたかった。

 けれど異変を察した使用人に呼ばれ、慌ててやってきた叔父が執務室に駆け込んできて、リヴィアを必死でなだすかして部屋から追い出した。

 叔父の優しい手にいくらか心を温められながら、リヴィアは執務室を後にした。

 父と叔父の話声を背後に聞きながら、リヴィアはそっと息を吐く。

 元婚約者からの手紙────

「親同士の想いを自分たちが変わりに遂げる事はできない」

 という一文を思い出して。
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