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第三章 偽り、過失、祈り、見えない傷

第61話 婚約者は誰か

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 今は食事を終え、全員で応接室に移動しアーサーの帰りを待っている。リヴィアは祈る様な気持ちで窓越しの空を仰いだ。

「失礼いたします」

 ノックと共に家令がドアを開け、綺麗な礼を取ったあとに人を通した。リヴィアはその顔を見て僅かに動きを止める。知った顔だ。その男性が部屋に入ると同じように辺りの空気が一瞬固まったように感じた。

「お前……何故ここへ」

「何でお前がここに来れるんだ!」

 呆然と呟く辺境伯と怒りを露わにするイリス。対局のような表現を見せた二人をリヴィアは振り返った。

「頭は大丈夫ですか?ゼフラーダ卿」

 入室してきた男のその言葉に、イリスは青ざめた顔で後頭部を押さえた。
 ……なかなか嫌な言葉選びをする人物のようだ。リヴィアは目を眇めた。
 昨日のイリスの痴態を知らない者は、その発言でイリスの頭の中身を心配する事だろう。彼の頭の中身は既に痛ましいようではあるが、そもそもの発言者が嫌味な事には変わらない。それとも二人の仲が悪いだけか。

「誰ですの?」

 ライラが首を捻って誰にともなく問う。

「わたくしが呼んだのよ。このような事態になるとは思っておりませんでしたし、殿下にお目通ししておきたかったのです」

 ディアナがふうとため息を漏らせば、黒髪の青年が膝を折った。

「ヒューバードと申します」

「彼はこのゼフラーダの次期領主となる者です」

「まあ!」

 ディアナの言葉にライラは口元を押さえて驚いているが、おそらくイリス程ではないようだ。

「は、母上。こんな場でお辞め下さい!次期領主なら僕がいるじゃないですか!」

 慌てた様子で辺境伯を振り返る。

「父上!」

「う、うむ」

 息子から促されても辺境伯から抗議の声は出ない。

「既に旦那様にもお話をさせて頂いている事。全く。よく似た親子だこと。アンジェラ嬢があなたの子をみごもっている事。既に人を介して広まっていると言うではありませんか。イリス、これはあなたの為なのです」

 言い聞かせるような夫人の言葉にリヴィアも目を丸くする。昨日自分に迫っておいて何を考えているのだ。いや、だからこそリヴィアと結婚をしてでも、その地位を固めようとしたのだろうか。……ゲスすぎる。

「そ、それとこれとは話は別でしょう。そもそもアンジェラは平民なのだし、愛人で充分です」

「シディス家は一貴族にも引けを取らない豪商です。そんな戯言が通じるとでも」

 つまり先立つ物では解決出来ないのだろう。弱味でも握れるものなら交渉の余地もあるが、イリスに出来るのは、精々そのシディス家の手の上で踊る位ではなかろうか。

 でもとかあのとか先の続かない言葉を言い募っている、自分の元婚約者を残念なものを見る目で眺めていると、ヒューバードが近づいてきたのでそちらに顔を向けた。

「あなたは何者なのです?」

 思わず警戒を含んだ口調になってしまったのは、そもそもの彼の雰囲気によるもののような気がする。

 確かに次期辺境伯と言われれば納得してしまいそうな、たくましい体躯にどこか油断ならない眼光。アーサーも軍上がりで思いの外逞しいと思ったが、目の前の彼はもう少し大きく感じるし、威圧感が凄い。
 父からもこういう圧を感じる事があるが、こうも直接的に向けられると気合いを入れて睨み返すのがやっとだ。

 リヴィアの目の前まで来たヒューバードはそのまま騎士のように膝を折った。

「あなたの未来の夫だ」

「え……」

 驚いて後ろに反り返るリヴィアの手をすかさず掬い取り唇を落とす。取り返そうとする手には痛い位力が込められ、その向こうでは紅い瞳が怪しく細められている。

「嘘だ!父上の愛人の子じゃないか!お前に爵位の継承権なんて無い!」

 その言葉に思わずリヴィアはイリスを見る。確かに庶子には相続権は無いが……何やらそれ以上の事を聞いてしまった気がするのは気のせいか。

「それを決めるのはあなたではありません。イリス」

 眉間を揉みながらディアナが口を開くのを、リヴィアは目を丸くしたまま眺めてしまう。

「どうして、僕は母上の子なのに!どうして僕が!何でコイツが!」

「あ、あなたはゼフラーダ卿の弟なのですか?」

 喚くイリスは一旦置いておき、リヴィアは思わずヒューバードに声を掛けた。

「いや、兄になる」

「え……」

 え、ええええっ?

 貴族の良識からも外れている。
 知らずリヴィアは辺境伯に蔑みの視線を投げていた。リヴィアの良識とも違うが……一応貴族の恋愛は、夫婦間に子を宿してから、というものがあるのだが……

 当の伯は肘をついて組んだ両手に顔が殆ど隠れているが、隙間から見えるそれはどこか悲壮感にも似たような表情で、リヴィアは呆れた。

「あの、ゼフラーダ卿のお兄様」

「ヒューバードと呼べ」

「いえ。そうではなく」

 手を取り返せないので、距離を保てないのも困るし、そもそも庶子は爵位を相続できないのと、何故リヴィアと結婚する事になっているのか。聞きたい事があり過ぎてどう言葉を選べばいいのかわからない。迷いがそのまま瞳に宿り、うろうろと彷徨いだす。

「あの……」

 不意にライラが控え目に口を開いた。その口元が楽しそうに綻んでいるのは気のせいだろうか。

「この事をアーサーは知っているの?先程夫人がアーサーの名前を出していたでしょう?」

「殿下には昨夜お伝えしてあります」

 ライラの問いにディアナはしっかりと頷くも、リヴィアは少なからずショックを受けた。

「ヒューバードは養子として我が家に迎え入れる事とし、イリスはシディス家へ婿入りとなります」

「なっ!本気なのですか?本当に僕に平民になれとおっしゃるのですか?母上!」

 喚くイリスを無視し、淡々と告げるディアナにリヴィアは呆然と視線を送る。

 ……凄い。

 それはある意味感嘆によるものだった。
 夫の不貞を受け入れ、自分の息子を切り捨て、更に愛人の子を養子に迎える……

 家の利になる事を優先し私情は後回し。それが貴族というものなのだろう。ゼフラーダが国境の要という事もあり、甘さは隙になる。しかしそれをこうも徹底しているとなれば……リヴィアは思わず喉を鳴らした。

 リヴィアは貴族が嫌いだ。それは家の為の結婚であり、ご都合主義の不義であり、己を顧みないただの身分による貴賤をつけるところである。
 けれど、それらの嫌悪が子どもじみた反発だと言わんばかりのディアナの立ち振る舞いに、思わず崇拝してしまいそうになる自分もいた。

 すぐ横には対照的な辺境伯親子がいるので台無しではあるが……

「アーサーが了承しているのならねえ」

 嬉しそうなライラにリヴィアは我に返る。

「ですが何故わたくしと結婚となるのです?」

「家同士の婚姻では相手がその兄弟に変わる事など良くある事です」

 ディアナは片眉を上げ、その問いこそ疑問とばかりに淡々と答える。ぎゅっと力を込められた手に導かれるようにリヴィアはヒューバードを見た。

「……あなたは魔術持ちなのですね」

 そう、彼からは隠しきれない程の魔術の素養を感じる。リヴィアのような僅かな魔術しか保有していない者でも感じとってしまう高い資質。

 古の魔術士たちは一様に紅い目をしていたそうだ。今も紅に近い色を瞳に持つ者には高い素養が出やすい。
 リヴィアは彼らが迫害されていた歴史を読み解き、その根拠の無い粛正に憤りを感じていたが、今なら少しだけ分かる気がしてしまう。

 この紅に抗えない程の、異様さと恐怖を感じてしまって……
 リヴィアは一度目を閉じ、ぐっと腹に力を入れてヒューバードを見つめかえした。

「ですが、わたくしの婚約者はアーサー殿下です」

 訝しそうに眉を顰めるライラとディアナにも目を向けてリヴィアは言い切った。

「わたくしどもの婚約は皇族がその名を以って取り決めた事」

 それが例え一時の事であっても。

「それにわたくしには、家長である父の意向を無視した勝手を決める権限など持っておりません」

 この不安定な場面で、予想外の展開に流され、首を縦に振る事はしない方がいい。それはリヴィアの勘であり、アーサーの婚約者役だからこその判断である。

「アーサーは同意しているのに?何の感情もないただの契約に縋るなんて惨めではなくて?」

 契約が終わればアーサーが自分に背を向ける事が分かっている。惑わされる過剰な演技も、優しい眼差しも。
 口元だけ笑みを作り、問いかけるライラにリヴィアは向き直った。

「何と言われようと、わたくしはアーサー殿下の婚約者です」

 今だけはアーサーの負担になるような選択をしたくない。

「手を離して下さい」

 ヒューバードに静かな瞳を向ける。
 一瞬だけ瞠目し、ヒューバートは紅い目を楽しそうに細めた。

「ああ」

 もう一度唇を落とすのを見てリヴィアは顔を顰めたが、その後思い切り手を振り払った。そのまま両手を上げ余裕の笑みを浮かべるヒューバードを睨みつける。

「なんです?」

 この場の女王然たるディアナが興味深そうに問いかける。

「何でもありませんよ」

 淡々と返事をしているが、ヒューバードはどこか楽しそうにしている。

 ……舐められたわ。

 リヴィアは唇を噛み締め、自分の手を守るようにもう片方の手できつく握った。
 そもそも別の男性と婚約中のリヴィアを欲しがる理由ってなんなのだろう。

 ディアナにとっては父────リカルドの娘というのはそれ程大きな理由なのだろうか。それが皇族に楯突くようになっているというのに。それとももしかして、この人たちアーサーを軽視している?

 辺境伯は社交のシーズンも自衛を理由に領地から出ないと聞いた事がある。この地で国宝ともいえる陣を守り、自領で自分より高い地位の者などいる筈もない。何より、ここへは皇族が・・・二年に一度訪れる構図が出来上がっているのだ。

 リヴィアは思わずディアナに目を向ける。そもそもディアナは貴族の中でもかなり高位の出身だ。
 ────まさかそれで?たったそれだけの事で────?

 何もかも自分たちの好きにしていいと思っているのだろうか?

「ディアナ」

 思いがけず静かな声が聞こえてきて、リヴィアははっと辺境伯へ顔を向けた。

「なんですの旦那様」

 どことなく様子のおかしい伯にディアナも怪訝な顔をしている。

「それがお前の考えか。イリスを廃嫡しヒューバードを嫡男にする。強いてはアーサー殿下の婚約者をも欲すると」

「そうですわ旦那様。今更なんですの」

「いや、もういい。わかった」

 そう言いまた組んだ手の中に顔を埋めてしまった。
 伯がどんな顔をしているのかは、誰も分からなかった。
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