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第10話 見ない振りをしたところで
しおりを挟む「……君は優しいね」
「優しくないわ! 私は、私の心はこんなに意地悪で、醜くてっ!」
夫にしがみつきながらヴィオリーシャは声を張った。
優しい夫は自分の頭をずっと撫で続けてくれている。
「優しいよ」
その言葉にまた涙が溢れる。
自分の気持ちに引導を渡すと共に、彼に今までのお詫びを込めて少しだけ……
ぎゅっと夫の服を握りしめた。
ずっと自分の弟に執着していた女を妻に望んだ馬鹿な男。
……彼にも馬鹿になって欲しかった……少しでも自分に……でも……
それはもう他の誰かの役目となった。
彼が自分と同じ景色を見る事になると知ったあの時に、生まれた優越感が今までの恋心を上回った。……勝ったと思った。そうして緩やかに解けていった、彼への執着。
「今までごめんなさい……」
「いいよ」
この人に助けられておきながら、本気で向き合って来ていなかった。今度こそずっと待っていてくれたこの人と……
「私は君と婚約するずっと前から君が好きだったんだ。ずっと、君を待っていた。……振り向いてくれて嬉しいよ。それだけだ」
ヴィオリーシャは泣きながら笑った。
馬鹿な夫に馬鹿な妻。
きっと自分たちはお似合いに違いない。
夫の背に腕を回し、心の底から愛しいと思った。
◇
フォリムは馬車の中で深く息を吐き出した。
何かが一つ片付き、そして新たに託された何か。
それを持て余したまま、屋敷までの道のりを目を閉じて過ごした。
けれど閉じた眼裏に浮かぶのは、煌めく瞳で自分を見据えるあの少女だった。
◇
マリュアンゼは今日も元気に別邸へ向かう。
背負う母の期待は纏めて横に放ってある。
馬車を降り部屋を借り乗馬服に着替えていると、昨日のフォリムの様子を思い出す。彼は少しだけ変だった。
それはただの勘なのだが、マリュアンゼにとっては大事な感覚だった。
(……怒っていたわ)
フォリムは意地悪だが、あまり感情を出さない人だった。
ただ昨日は、何度かマリュアンゼに対して苛立っていた。理由はよく分からない……けど……
(チャンスかもしれないわ!)
感情の乱れには隙が生じるものだ。
マリュアンゼはぐっと拳を作った。
彼は強い。勝ちたい。
マリュアンゼの中で婚約破棄という目標と、認められたいという感情が少しずつ混ざり始めていた。
◇
右に左に撹乱して、フェイントを入れて────昨日と同じ動き……でも、やっぱり追えていない────ここ! 打ち上げた拳を顎に向けて放てば、一瞬焦りを見せたフォリムの顔が視界の端に写り、思わず口の端を吊り上げた。
その後はよく分からない。
気づいた時には妙な浮遊感が身体を襲い、自分が浮いている事に気づいた。受け身を取らねばと身体を動かそうとするも、腹にじんじんと鈍い痛みが響き、マリュアンゼは頭から落下した。
◇
(あ……ぶなかった……)
落ちるマリュアンゼに慌てて飛びついて地面を転がった。
懸命に撃ち込む拳と繰り出される脚は……自分と離れる為の彼女の懸命なもがき。それに今更打ちのめされた心に引きずられ、自身の身体の動きが鈍った。
ヴィオリーシャの言葉なんて聞く耳持たなかった。今までずっと。
けれど最後に刺されたのはナイフでは無く棘で、抜けずいつまでもジクジクと痛んだ。
ヴィオリーシャはずっと自分を見ていた。
それがうんざりする程の事実である事は、長年囚われていた自分が一番知っている。
(囚われた)
最後の最後に囚われた。呪いのような予言の言葉に。
それなのにフォリムは何故か場違いな事を考えた。
(もし昨日のように、ジョレットが来ていたら……)
きっとあいつが助けていた。
横から掻っ攫われて────
知らず腕に閉じ込めた身体を抱き竦め、ぐっと目を瞑る。
「参った……」
渡したく……無い。
すると腕の中でマリュアンゼがピクリと反応し、ガバリと身を起こした。
「参ったって言った!」
自分の上でマリュアンゼが嬉々とした顔を向けてくる。
何を言わんとしているのかを察し、物凄く気分が悪くなる。
「……言っていない……」
「言いました! これで婚約は白ふぃりひて……」
喜びに紅潮させる白い頬を左右に引っ張りそれ以上は言わせない。
「言ってないと言ってるだろう。大体どの辺で君が私に勝利していたんだ」
ぐっと詰まるマリュアンゼを押し除け、座り直す。
同じ目線でじっと見つめれば、むっと頬を膨らませ睨み返された。
フォリムは思わず頭を抱えた。
(分からん)
自分の事なのに自分の心が分からない。
ただ……あの煌めく瞳が、誰かに向けて唯一の光を宿したら……
そんな想像をしたら心がざわめいた。
そしてこんな乱れた心のままでは、やがて自分は負かされてしまうかもしれない。
それは都合が悪い。だから自分に出来るのは、勝ち続ける事だけで。
「婚約を白紙にして下さい!」
「……断る」
けれど負ける気が無いという事は、見ている未来は決まっていたのだけれど。
気づいているけれど、見ない振りをしている自分の心。
胸を掻き乱すその情の名前が何であるかを、フォリムが知るのは、あともう少しだけ先の話。
◇おしまい◇
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