10 / 49
9. 潜入開始
学生時代の史織は親の言う通り、いい子だった。特に「大人しくて控えめ」である事が母の希望だ。
元々俯いて人の影に隠れるような女の子だったから、その要望は難しく無かったけれど。
日常生活や成績に問題も無く、両親に苦言を呈させる事も無かったので、史織も特に「自分」に疑問を持った事は無かった、のだが。
それなのにあの時、葵にはっきり嫌いと言われ、史織は傷付いた。いや、正確には驚いていた。
葵の顔を思い出せば、自分が他の彼の目にどう写っているのかが気になるようになった。それに、もし次に会えた時、良い印象を持たれたいなんていう思いも抱くようにも。
史織は元々内気な自分を嫌っていたけれど、あれではっきりと、変わりたいと思うようになったのだ。
習い事やアルバイトを始めたい。そう必死に両親を説得した。アルバイトは特にいい顔をされなかったが、自分で働いたお金で自己啓発をしたいという訴えに父が頷いてくれた。史織が変化を望む事を、父は気付いたようだった。
史織には自分が無い。
だから作りたいと、変わりたいと思った。
踏み出した一歩は、世界が広がるような、不思議な感覚で史織を包んだ。
穏やかな秋晴れの中、スーツケースを一つ持って。
空と同じように顔を青褪めさせながら、史織は京都の地を踏みしめた。
今更ながら、本当に上手く行くのだろうか。
千田の名前に頼らない、自立した人間になりたいと。そう望んで自分を研磨してきたけれど。
ばくばくと胸が鳴る音が耳に響く。
京都は史織にとって禊の地でもある。
変わりたいと願ったきっかけの場所。
それなのに訳の分からない使命と自分の事情に、変に身体が強張ってしまう。
「本当に、何でこうなったんだろう……」
見上げる先には憧れの旅館。
それなのに、これからのひと月を思うと……心が不安で、胸が張り裂けそうだった。
「ああ、西野さん? お話は聞いていますよ」
「はい、よろしくお願いします」
出迎えてくれた使用人に、史織は急いで頭を下げた。
山際に立つ古民家のような趣の家屋は、新鮮な彩りに囲まれた庭園が覗いている。奥行きある家は屋敷のようで、先に続く奥の間には紅葉が風にそよいでいた。
(うわあ)
憧れの、旅館。
この老舗旅館を経営するのは、四ノ宮家。
古都京都において、未だ名を馳せる名家なのだそうだ。
四ノ宮家は老舗旅館の経営から始まり、今はホテル業、旅行業、運輸業へと手を伸ばし世界規模な事業展開を連ねている。
ただ元は小さな宿屋が商いの始まりであり、代々の当主は本家の旅館を本拠地にする習わしとなっているのだそうだ。
……世界に裾野を広げているのに、何故拠点を京都に置いているのだろうと、少しばかり不思議に思う。……まあ史織には関係ないけれど。
それに麻弥子は四ノ宮家に嫁入りしたら、京都在住になると言う事になる。それは麻弥子は納得するのだろうかと、やや疑問だ。それもまあ、史織にも関係ないけれど……
細やかな疑問から目を背け、自分の仕事は四ノ宮 朔埜の浮気(?)調査なのだと改めて気合いを入れる。
「こちらへどうぞ」
物思いに耽っていると、いつの間にか奥の間へと辿り着いていた。凛嶺旅館は特室とは別に、一般的な宿としても有名な旅館である。
史織が訪れたのは母屋だが、古い宿に増改築を繰り返しているようで、酷く道が入り組んでいる。
果たして自分はどこをどうやってここまで来たのだろう。
後ろを振り返れど、紅葉に染まる庭園に面した渡り廊下の、その先に見える扉をくぐった覚えもないくらい、どう歩いたのかの記憶もない。
(ここで働くって、本当に大丈夫かしら?)
「三芳さん、西野さんがお見えですよ」
密かに案じていると、案内人が襖の中へと声を掛けた。
「入って下さい」
どうぞ、と促す案内人に従い、史織は恐る恐る襖を引いた。
あなたにおすすめの小説
小さくなった夫が可愛すぎて困ります
piyo
恋愛
夫が、ある日突然、幼児の姿になってしまった。
部下の開発中の魔法薬を浴びてしまい、そのとばっちりで若返ってしまったらしい。
いつも仏頂面な夫が、なんだかとっても可愛い――。
契約結婚で、一生愛とは無縁の生活を送ると思っていたノエルだったが、姿が変わってしまった夫を、つい猫可愛がりしてしまう。
「おい、撫でまわすな!」
「良いじゃありませんか。減るもんじゃないし」
これまで放置されていた妻と、不器用に愛を示す夫。
そんな二人が、じれじれ、じわじわとお互いの距離を詰めていく、甘くて切ない夫婦再生の物語
※本編完結済(全26話+後日談1話)、小話追加中
※一章ほのぼの、二章シリアスの二部構成です。
※他サイトにも投稿
完璧な政略結婚のはずでしたが、宰相閣下の“私の妻”扱いが甘すぎます
星乃和花
恋愛
政略結婚のはずでした。
家同士の利も、立場の釣り合いも、全部きちんと整った、完璧に合理的な結婚。
……なのに、夫となった冷徹宰相は、なぜか人前で私を「最高の妻」と紹介し、暮らしを完璧に整え、他人に近づかれると不機嫌になってしまいます。
“天使”と噂される穏やかな令嬢フィオナもまた、
そんな不器用な優しさに少しずつ心をほどかれて――。
これは、条件で選ばれたはずの夫婦が、
いつの間にかお互いを“ただ一人”として欲しくなるまでの、甘くてやさしい政略結婚物語。
(完結済ー全8話)
【完結】冷徹執事は、つれない侍女を溺愛し続ける。
たまこ
恋愛
公爵の専属執事ハロルドは、美しい容姿に関わらず氷のように冷徹であり、多くの女性に思いを寄せられる。しかし、公爵の娘の侍女ソフィアだけは、ハロルドに見向きもしない。
ある日、ハロルドはソフィアの真っ直ぐすぎる内面に気付き、恋に落ちる。それからハロルドは、毎日ソフィアを口説き続けるが、ソフィアは靡いてくれないまま、五年の月日が経っていた。
※『王子妃候補をクビになった公爵令嬢は、拗らせた初恋の思い出だけで生きていく。』のスピンオフ作品ですが、こちらだけでも楽しめるようになっております。
側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません!
花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」
婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。
追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。
しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。
夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。
けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。
「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」
フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。
しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!?
「離縁する気か? 許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」
凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。
孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!
余命僅かな大富豪を看取って、円満に未亡人になるはずでした
ぜんだ 夕里
恋愛
傾きかけた家を救うため、私が結んだのはあまりにも不謹慎な契約――余命いくばくもない大富豪の辺境伯様と結婚し、彼の最期を穏やかに看取ることで莫大な遺産を相続する、というものだった。
しかし、人の死を利用して富を得るなど不正義!
そう考えた私が立てたのは、前代未聞の計画。
「そうだ、遺産が残らないくらい贅沢の限りを尽くしてもらえば、すべて丸く収まるじゃない!」
【完結済】隣国でひっそりと子育てしている私のことを、執着心むき出しの初恋が追いかけてきます
鳴宮野々花
恋愛
一夜の過ちだなんて思いたくない。私にとって彼とのあの夜は、人生で唯一の、最良の思い出なのだから。彼のおかげで、この子に会えた────
私、この子と生きていきますっ!!
シアーズ男爵家の末娘ティナレインは、男爵が隣国出身のメイドに手をつけてできた娘だった。ティナレインは隣国の一部の者が持つ魔力(治癒術)を微力ながら持っており、そのため男爵夫人に一層疎まれ、男爵家後継ぎの兄と、世渡り上手で気の強い姉の下で、影薄く過ごしていた。
幼いティナレインは、優しい侯爵家の子息セシルと親しくなっていくが、息子がティナレインに入れ込みすぎていることを嫌う侯爵夫人は、シアーズ男爵夫人に苦言を呈す。侯爵夫人の機嫌を損ねることが怖い義母から強く叱られ、ティナレインはセシルとの接触を禁止されてしまう。
時を経て、貴族学園で再会する二人。忘れられなかったティナへの想いが燃え上がるセシルは猛アタックするが、ティナは自分の想いを封じ込めるように、セシルを避ける。
やがてティナレインは、とある商会の成金経営者と婚約させられることとなり、学園を中退。想い合いながらも会うことすら叶わなくなった二人だが、ある夜偶然の再会を果たす。
それから数ヶ月。結婚を目前に控えたティナレインは、隣国へと逃げる決意をした。自分のお腹に宿っていることに気付いた、大切な我が子を守るために。
けれど、名を偽り可愛い我が子の子育てをしながら懸命に生きていたティナレインと、彼女を諦めきれないセシルは、ある日運命的な再会を果たし────
生まれ育った屋敷で冷遇され続けた挙げ句、最低な成金ジジイと結婚させられそうになったヒロインが、我が子を守るために全てを捨てて新しい人生を切り拓いていこうと奮闘する物語です。
※いつもの完全オリジナルファンタジー世界の物語です。全てがファンタジーです。
※この作品は小説家になろう、カクヨムにも投稿しています。
【完結】モブ令嬢としてひっそり生きたいのに、腹黒公爵に気に入られました
22時完結
恋愛
貴族の家に生まれたものの、特別な才能もなく、家の中でも空気のような存在だったセシリア。
華やかな社交界には興味もないし、政略結婚の道具にされるのも嫌。だからこそ、目立たず、慎ましく生きるのが一番——。
そう思っていたのに、なぜか冷酷無比と名高いディートハルト公爵に目をつけられてしまった!?
「……なぜ私なんですか?」
「君は実に興味深い。そんなふうにおとなしくしていると、余計に手を伸ばしたくなる」
ーーそんなこと言われても困ります!
目立たずモブとして生きたいのに、公爵様はなぜか私を執拗に追いかけてくる。
しかも、いつの間にか甘やかされ、独占欲丸出しで迫られる日々……!?
「君は俺のものだ。他の誰にも渡すつもりはない」
逃げても逃げても追いかけてくる腹黒公爵様から、私は無事にモブ人生を送れるのでしょうか……!?