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13. できれば聞きたかった事
しおりを挟む葵 朔埜。
朔埜は祖父に引き取られて暫く、四ノ宮を名乗るのを躊躇った。葵は母の旧姓だ。義父の姓を名乗るのも嫌で、気付けばそう名乗っていた。
その頃はまだ四ノ宮と認識されるのが嫌で、誰にでも苗字で呼ばせていた。苗字なのか名前なのか分からない響きが丁度よく、朔埜の心に平穏をくれた。
(──今思い返すと少し恥ずかしいわ)
朔埜は金になるまで脱色した髪にタバコを咥え、不貞腐れた態度のガキだった。
そんな十五歳の餓鬼は三芳を散々手こずらせた……らしい。朔埜にしてみたら鉄拳制裁の三芳に敵った記憶など、とんとないのだけれど。
四ノ宮を名乗るようになったのは祖父に正式に後継を命じられてからだ。その頃やっと三芳にも認められ、成長を見守る親のような眼差しで労われた。
(ったく。何かってーと、昔話をほじくり返すんやから)
朔埜にとって葵は、癇癪を起こした子供のような存在、言わば黒歴史である。
気まずさを誤魔化したくて、続けて三つ、菓子を頬張った。
◇
「僕は辻口と言います」
三芳の座敷を後にして、先程史織を案内してくれた青年がそう名乗った。今は部屋へと案内をしてくれてる。
最初はじっくり観察する余裕なんて無かったけれど。歳の頃は三十くらい。
涼しげな目元に落ち着いた佇まい。だけど、なんて言うか、眼差しは冷たい気がする……
口利きで来た新人に良い印象を持っていないのかもしれない。
しかし彼は三芳の下で働いているが、手が足りない時は朔埜の手伝いをする事もあるとの事。
……これは貴重な情報源である。
「西野です。改めてよろしくお願いします、暫くお世話になります」
相手の心情はこの際置いておく。史織は早々に確信を持ち、この仕事を終えてしまいたいのだ。
だから出来るだけ笑顔で接するように心掛ける。
とことこと進む廊下の左右を見渡して、窓から覗く紅葉や趣ある造りにひっそりと感動してしまう。少しくらいなら許して欲しい。凛嶺旅館を楽しみにし来たのだから。
「西野さん、今まで接客業の経験はございますか?」
ふと振られた会話に史織は自分の接客スキルを思い浮かべる。
「えーと、居酒屋でアルバイトを少々……」
「……」
黙られてしまった。
(うーん)
旅館業の経験は無いのだから、ここは素直に無いと言うべきだったか。
「……ごめんなさい。ホテル業は、ありません」
「……そうですか」
「……」
(……なんだろう、何か気まずい)
辻口は背中だけで会話をしてくる。
声音は柔らかいが、探るような雰囲気が急に居た堪れなくなってしまう。
「僕もありません」
「え?」
不意に振り向いた辻口が史織に目を細めた。
「仲間ですね」
「……えっと、はい。よろしくお願いします」
「厳しいですが、ここで紹介状を頂けると、この業界では信頼を得られますから」
「わあ、流石ですね!」
流石、憧れの宿ランキング常連の凛嶺旅館。
声を弾ませる史織に辻口は冷静さを欠かさないまま首肯する。
「ええ、本当に。ですのでしっかりと精進する事をお勧めします」
「……はい」
辻口は真面目そうな青年だ。
けれど史織に対する態度は、それだけで無いような、そんなものを覚えた。
◇
「お忙しい中すみません、ありがとうございました」
辻口から一通りの説明を受け、史織は頭を下げた。
教育係は三芳だが、細かい世話は辻口がやいてくれるらしい。ここは同性を希望したいところだが、紅葉シーズンの繁忙期。世話になっている身としては我儘は言えない。
「別に構いません」
……本当に何でも無いと言うふうに口にする人である。
生活に必要な場所を教えて貰い、旅館の地図を渡された。内線番号表に担当者名。シフトの時間と注意事項。
頭に入れねばならない取り決めは思っていたよりも多く、持ってきたB6サイズのメモ帳はひと月で足りるだろうかと不安になってきた。
「後で三芳さんから改めて講義があると思いますが、凛嶺旅館の名を汚すような真似はくれぐれもしないように、と釘を刺されると思います。今から振る舞いにはくれぐれもお気をつけて下さい」
「はい……分かりました気をつけます。ありがとうございます」
その手のコンプライアンス研修は史織も学生時代にから会社でも本格的なものを受けている。特に接客業においては、スタッフの意識が低いと企業は致命的なダメージを受ける。
そういった事件はメディアに直ぐ取り上げられるし、悪質と判断されればアルバイトでも訴えられてしまう。
……史織の場合、絶対に千田の名前を嗅ぎつけられ祖父に迷惑が掛かる。アルバイトの研修を受けた時は、戦々恐々としたものだ。
「取り敢えず今日は初日だし、これ以上確認する事は無いでしょう。夕飯の時間とお風呂の時間は先程渡したシフト表に書かれていますが……西野さんはご自分で着付けは出来ますか?」
「ええ、はい。練習して来ました」
「なら良かった。それなら明日の着物を用意して、夕飯の時間にお声を掛けに来ます」
「何から何まで、ありがとうございます」
「仕事ですから」
本当に、そっけない人だ。
とは言え彼も従業員であるのだし、朔埜の噂を知らないだろうか。何とか聞くタイミングが無いものかと様子を探っていると、ふと辻口がこちらを向いた。
「ああそうだ──念の為ですが……」
「あ、はい?」
「若旦那様には決まったお相手がいます。無意味な期待などなさらないように」
何だろうと居住まいを正せば、意外な言葉が降ってきた。
「……はい?」
「失礼、念の為です。稀にいるのです、身の程知らずが」
「……はあ」
「では」
言うだけ言うと辻口は背を向けて行ってしまった。
それより何も聞けないまま、あっさりと牽制されてしまったではないか。
「決まった相手って、麻弥子ちゃんの事かしら……」
せめてそれだけでも聞いておけば良かった。
でも無言の圧が凄かったし……果たしてこれからもそんな隙があるのだろうかと、史織はがっくりと肩を落とした。
◇
辻口が部屋を出てから。
史織は充てがわれた住み込み用の一室で、布団に突っ伏した。
夕飯までまだ二時間以上ある。
先に風呂の場所を聞いておくべきだった。
布団の上をころりと転がり、先程受け取ったシフト表と旅館の地図、担当表を見比べる。
──心配事しかない。
これを見る限り、明日史織は朝五時には起床して、やる事が満載だ。
(でも、折角だし……ううん、違うわ)
史織のミッションは、四ノ宮 朔埜の恋人の有無を確認する事だ。
そうだそうだと、ぎゅっと拳を作る。
朔埜の情報を集めるのだ。
旅館を散策している間に、あわよくば彼に会えるかもしれない。
史織はスマホを片手に部屋を出た。
勿論カメラ機能を使うかもしれないからだ。紅葉を写真に収めるのは決して第一目的ではない……
廊下に顔を出せば、ちょうど縁側に草履が置いてあったので拝借する。
先程の紅葉とは違う庭に続いているらしく、こちらに面しているのは涼しげな竹林だ。澄んだ空気を吸い込んで、凛とした青の間を縫うように歩いていく。
夜はこの竹の合間を月が覗き、さぞ風流な事だろう。
ふわふわとした気分で歩いていると、前から煙が流れてきた。誰かが焚き火をしているらしい。
竹林を火がぱちぱちと爆ぜる音が響き、薄い煙が覆っている。これもまた風情がある。
「綺麗」
思わずほうっと口にすると、煙の向こうで誰かの影が揺らいだ。
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