【完結】京都若旦那の恋愛事情〜四年ですっかり拗らせてしまったようです〜

藍生蕗

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38. 待ち合わせ


「あら、おいでやす乃々夏はん。どうしました?」

 いつものように文机に座り、書き物をしているこの旅館の仲居頭の三芳。乃々夏はいつものように、にこりと微笑んだ。
 けれど、どこか三芳は気付いているのだろう。気まずげに視線を逸らし、一つ息を吐いた。

 ……きっとここにもう、乃々夏の居場所は無いのだ。
 分かっていたような、知りたくなかったような、そんな事。
 
 ◇

『四ノ宮家の息子はハズレだった』
 乃々夏が十歳の時、父がそんな事を言っていた。
『もう落ち目やありまへんの? あの家も。いい加減東郷家が目を掛ける必要もありまへんわ』
 着物の袖口で口元を隠し、母が眉間に皺を寄せる。

『眉唾ですわ、予言だか占いだかに縋るなんて。乃々夏も良かった事。これでもっと将来性のある人のところに嫁げますわ』
 ほっと息を吐く母に対し、今度は父が眉間に皺を寄せた。

『しかしあの家と縁が切れるんはよくない』
『まあ、あなたはあんな胡散臭い家にまだ未練があるんですの?』
『……お前に東郷家の何が分かる』
『またそうやって家を盾に私を追い払おうとして!』
『歩み寄ろうとせんのは、そっちやろ』
『家門と家族とどっちが大事なんです!』
『何でそうなるんや!』

『……お嬢様』
 いつものように始まった夫婦喧嘩を乃々夏は息を殺して聞いていた。その場から離れ、部屋に逃げ込んでも、きっと母が押し入って来るだろう。そうなってしまうとその場で一人、母が父を詰る言葉を聞かなくてはならない。
 それよりは、ここで二人の話に耳を傾けて、やがて自分に矛が向いた時、父がそれを払ってくれる事を期待した方がいい。

 いずれにしても母が落ち着くまで一人にはならない方がいい。
 乃々夏はそっと声を掛けてきた従者の青年を振り仰いだ。

 まだ十八歳と年若い彼は四ノ宮家の代々の側仕えで、今代も東郷と四ノ宮の関係が揺るぎないものである事の証となり、東郷家に奉公に上がっている。

『何、辻口』
 令嬢として、乃々夏は旧華族の夫人に礼儀を躾けられた。だからどんな時でもたおやかに。目の前で父母の口論が繰り広げられようと平静で。
 そんな乃々夏を辻口は痛ましそうな眼差しを向けた。

『席を外しますか?』
 その言葉に首を横に振る。
 そんな事をすれば母は辻口を責めるだろう。四ノ宮を嫌う母は、当然その家から寄越された彼の事もよく思っていない。手近にいる、四ノ宮の使用人は、母にとって一番都合のいい目の敵なのだ。

 ……せめて父が母をもう少し慮ってくれたなら。母もこれ程ヒステリックな怒りを見せないだろうに。

 乃々夏は別に気にならない。
 二人の口論は乃々夏の為でもせいでも、事でも無いからだ。
 けれど聞いていないと叱られる。関心を示していないと失望される。
 乃々夏はこの家の一人娘で、東郷家をついでいく唯一の存在だから。
『大丈夫よ』
 そう言えば辻口はいつものように乃々夏の背後で静かに佇んでいてくれた。
 
 十五歳の時、朔埜を四ノ宮家の現当主が引き取り、その可能性を見い出した。それに父は喜び、母は怒りを見せた。
『あんな外腹の子に乃々夏をやれ言うんですか!』
『東郷家が長年待っていた、正当な次期当主や』
『何が正当なんです! 卑しい女から産まれた汚らしい子や!』
『……言葉が過ぎる。お前の考えと口の方が余程汚らしい』
『なっ、あ、あなた……何て事を……』
『この件に関してはお前の言う事を一切聞く気はない。気に入らんなら東郷家を出て行け』
『まさか、警察庁幹部のあなたが離婚なんて……』
『東郷がずっと大事にしてきたもんや、お前に何が分かる』
『またそれですか! ええ、ええ、分かりまへんとも!』


 結局乃々夏は父に従った。
 そうせざるを得なかったからだ。
 母の実家も名家の一つではあるけれど、それでも父に異を唱えられる程の力はで無かった。

『ねえ乃々夏、この方はどう?』
 次第に母に、これと決めた男性と引き合わされるようになった。
 やんわりと断っても、泣かれるか、怒り出すか……しかしやがてどんな良縁でも頷かない乃々夏に母は焦れ、強行手段を取られるようになった。


『──いいこと、乃々夏。これはあなたの為なのよ』
 そう言って、何度も乃々夏との縁を望む輩と、無理をさせてきた。
『子供が出来ればあの人だって無視はできないもの。いい事、何度も言うけれどこれはあなたの為なの』

 逃げ去る母の捨て台詞。
 そんな母の愛は、娘が見知らぬ男に組み敷かれる事を良しとする事なのか……
 どんな顔をしていいか分からない乃々夏と違い、男は喜びと興奮を抑えられない顔をしていた。


 そんな男の頭を撃ち、昏倒させ辻口が乃々夏をベッドから引き上げ、苦々しく告げる。

『抵抗して下さい』
『……何に? お父様もお母様も家の為、私の為に尽くしているのよ。それなのに片方の言葉だけ聞くのは、おかしいじゃない……』
 乃々夏に縋る母の顔が頭から離れない。
 それでいて覆る筈もない、父の決定に抗えない自分がいる。

『あなたの気持ちを優先して下さい』
『そんなもの、誰も必要としていないわ……』
 父も、母も、大旦那様も、朔埜だって……

 必要なのは、東郷の一人娘で……

『あなたが必要なものを選んで下さい』
 その言葉にはたと顔を上げる。
『あたしが……?』
 そう呟くと辻口は迷いなく頷いた。
『誰か、ではなく、自分の心に委ねるのです。それに反するものは、捨てていいのですよ』
 乃々夏は首を横に振った。

『でも、あたしは東郷家の一人娘なの……』
『はい、大事なお嬢様です。だからこそ、私はあなたの護衛であり、味方であるとご理解下さい。あなたを守る事は確かに四ノ宮の命令です。ですが、身体に傷が無ければ問題ないという事はないのです』
『……守ってくれる?』
『はい、我が身に代えても』
 戦慄く口元をぎゅっと引き結んだ。

 ──そうね

 ずっとあなたは私を守ってくれたものね。
 気付きたく無かったけれど……
 だって、あなたを一番にしてしまったら、あたしはどうしたらいいの?
 必死に繋ぎ止めて来た家族の絆が、きっと解けてしまうだろう。
 自分の存在意義も、無くなってしまうかもしれない。そうしたら結果、……あなたに守って貰う価値が、無くなってしまうというのに。

『あたし、朔埜と結婚するわ』

 その言葉に辻口は表情も無いまま頷いた。

『あたしが東郷の娘を全うする限り、お母様もその母親であるのだから……』

『はい。お言葉、確かに承りました』

 静かに口にする男に乃々夏はゆるりと頷いた。
 彼もまた、家に縛られているのかもしれない。けれど──その心はきっと、その使命とかけ離れたものでは無いのだろう。

『あの人を誘惑すればいいのよね、望む事だって何でもしてあげる。……好きになって貰うよう、努力するわ』
『はい……』

 そっとその様子を窺えば、辻口は静かな瞳で乃々夏の話に耳を傾けていた。ただ、それだけだった。

『聞いて辻口! 朔埜ったら誘惑しても、はぐらかされちゃうの~!』
『……そうですか』
『ちょっと挑発したら子供作るか、なんて押し倒して来たくせに! やっぱもっとおっぱい大きくなってからとか言われた~!』
『…………そうですか』

 淡々と、辻口は朔埜のそんな顔を思い浮かべながら返事をしていた。
 朔埜も乃々夏の事情を知っている。
 相手にしない訳にはいかないのは、お互いの利害が一致しているからだ。
 ……けれど婚約期間を設け時間を掛けるほど、頭と気持ちは乖離して、自身の感情は追いついていかない。それもお互い、一緒のようだった。

 もし彼が本気で結婚を決めたなら、乃々夏の母の説得とて容易いだろうに。
 それが出来ないのは、自身の境遇から救ってくれた祖父への恩と、消せない気持ちの間で葛藤を抱えているから。
 
 ◇

 家というのは厄介だと思う。
 見切りをつけるには余程の理由と決断がいるし、家にいる誰かの為に自己を犠牲にする事も否めない。そしてやがてその部分すら自分の一部になっていく。

 そうして選んだものがその人の選択ならば、きっと後悔は無いのだろうけれど。

 どうしてか、痛ましいと思ってしまう。
 どうしてか、それでいいのかと思ってしまう。
 どうしてだろう。あたしは自分で選んだのに……
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