忘れられた聖女とひとりぼっちの薬師 ~薬草農家を営んでいた僕が、禁忌の森で出会った記憶喪失少女と共同生活する話~

雉子鳥 幸太郎

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 トリタニア湖はオルディネの南東に位置する大きな湖だ。
 周辺は見晴らしの良い草原地帯で、街道も整備されているので治安も良い。

 この時分には、漁師くらいしか訪れる人はいないだろうが、暖かくなると屋台が並ぶくらいに観光客で賑わう場所だ。

 ただ、夜のトリタニア湖のことはあまり知られていない。

 僕は父から教えてもらった。
 まさか自分から誰かを連れて行こうと思うなんて……。

 ふふ、父が今の僕を見たら驚くだろうな。

「あ、小鳥が……」

 マイカが帽子を押さえながら、荷馬車の幌の上を見上げる。
 見ると、幌の上に数羽の小鳥が並んで羽を休めていた。

「ほんとだ、ツバメだね。彼らもそろそろ旅に出る時期かなぁ」
「旅、ですか?」

「そうだよ、ツバメは冬になると暖かい国へ旅立つんだ。寒いのが苦手なのかな」
「へぇ……そうなんですね、知りませんでした」

「まぁ、僕も父の受け売りだけどね」
「シチリのお父様はどんな方だったのですか?」

「どんな方……うーん、そうだなぁ……僕にとっては、たったひとりの家族だったかな。あ、ほら、僕は母のことを覚えていないから」
「あ、私……無遠慮でしたね、ごめんなさい」

「いやいや、全然大丈夫だから気にしないで。むしろ、こういう話ができることって、今まで無かったからさ、聞いてくれると嬉しいな」
「聞きたいです。私、もっとシチリのことが知りたいです」

 マイカに見つめられ、恥ずかしくて目を逸らしてしまった。

「そ、そう? それじゃあ……オホン、えっと、父はとても優れた薬師だったし、猟師でもあったんだ」
 僕が話し始めると、隣でマイカが頷く。
「猟師を生業としていた父は、腕っ節も強くて、山のことも知り尽くしていてね。僕も色々と仕込んでもらったよ。僕の知識は全部父から教わったものなんだ。それで、母が病で倒れてから、父は薬師になった。薬草の知識は猟師だったから詳しかったし、育てるのも上手だったなぁ」
「シチリが頼りになるのもお父様のお陰なのですね」

「えっ! た、頼りに……⁉ へへ、そ、そうかな……」
「はい、とても」

 何だかむず痒くなりながら、僕は話を続けた。

「僕が薬草を買ってもらっているモーレスさんも、元は父の猟師仲間だった人なんだ。父が薬師になったのをきっかけに、今の小売店を開業したって言ってたよ」
「かなり長いお付き合いなのですね」

「うん、父がいなくなってから、あの農園と家を悪い人に取られそうになったことがあってね。その時、モーレスさんが悪い奴らを追い払ってくれたんだ」
「そうだったんですね……」

「薬の作り方とか、畑の管理法なんかも指導してもらって、僕が大きくなるまでは、良く一緒に住まないかって言ってくれてたんだよ。嬉しかったけど……でも、やっぱり、僕はあの家から離れたくなくてさ、ピウスもいたしね」
「……ひとりで寂しくなかったのですか?」

「そりゃあ、寂しい時もあったよ。でも、あまり考えないようにしてた。毎日、へとへとになるまで、森に入って薬草を探したり、狩りをしてたかなぁ」

 森を抜けて、見晴らしの良い街道に出た。

「あ、ほら、森を抜けたよ」
「うわぁ……すごい。シチリ、あんなに遠くまで見えますよ!」

 興奮したマイカが御者台から身を乗り出す。
 僕は慌ててマイカが落ちないように手を伸ばした。

「あ、ごめんなさい」
「ううん、急に立つと危ないからね」

「シチリが優しいのは、お父様に似たのですね」
「さぁ、どうだろう? 僕からすると、怖い時の方が多かったからなぁ……。小さい頃、頼まれた薬草を間違えた時なんてさ、こーんなに目がつり上がって『シチリ! 何度言ったらわかるんだ!』って良く怒鳴られてたよ」

 ふざけて顔を作ると、マイカがお腹を抱えて笑った。

「あはは、何だか光景が目に浮かぶようですね」
「いまとなっては良い思い出かな」
「思い出ですか……私にもあるのでしょうか」
 マイカは地平線を見つめながら、そっと呟いた。

「ご、ごめん、まだ記憶がもどらないんだもんね、話を変えよう」
「ううん、大丈夫です。ただ、シチリに申し訳なくて……」

「僕に?」
 マイカはコクンと頷く。

「私が何者なのかわからないまま、こうして側に置いてくれるのは、シチリが優しいからだとわかっています」
「そんな……」

 慌てて僕が否定しようとすると、マイカはふるふると小さく顔を振った。

「だからこそ、不安なんです。だって、もし……本当の私を知って、シチリの気持ちが変わってしまったら……。それに、私のせいで危険なことに巻き込まれてしまったらと思うと怖くて……。だから、ちゃんと自分のことを思い出したいのですが……いくら考えても、なぜ、自分があの場所にいたのか、何をしていたのかが、まるで、そこだけが抜け落ちてしまったみたいに、真っ暗で、何も……何もないんです……」

 ぽろぽろとマイカの言葉がこぼれ落ちる度に、僕の胸はナイフで刺されたように痛んだ。

 マイカは何も言わなかっただけだ――。

 何気ないの笑顔の裏で、こんなにも思い悩んでいたのかと思うと、鈍感で脳天気な自分が嫌になった。
 僕はそっとマイカの手を握った。

「シチリ……」
「あのね、マイカ。僕は君が誰であろうと変わらないよ。約束する。だから、安心して」

「……ありがとう、シチリ」

 マイカは目尻の涙を拭う。
 そして、小さく何度も頷いた後、にっこりと僕に笑顔を向けてくれた。

 旅というには大袈裟だけど、大切な人と一緒に何かをするというのはとても楽しいことだ。
 今だって、ただのんびりと馬車に揺られながら、他愛のない話をしているだけで、僕の心はこんなにも満たされている。

 彼女の可愛らしい声や仕草、思わず見入ってしまいそうになる笑顔。マイカといるだけで、僕の世界は輝きを増していく。本当に不思議だ……。

 街道を進んでいくと、遠くにキラキラと輝く湖が見えてきた。

「シチリ、あのキラキラしたのがトリタニア湖でしょうか?」
「そうだよ、水面に光が反射してるんだ」

「すごく大きな湖なのですね」
「うん、この辺りじゃ一番大きいかな」

 トリタニア湖に近づくにつれ、緑も増えてくる。
 街道沿いには、春から初秋にかけて観光客相手の屋台が並ぶのだが、今はシーズンオフということもあり、どこにも見当たらなかった。

「今年は終わっちゃったみたいだなぁ……」
「何が終わったんですか?」

「ここはね、夏になると街道沿いに屋台が並ぶんだ。もう少し早ければ買い物も楽しめたんだけど……」
「えー、それはちょっと残念です」

「だよね。まぁでも、シーズンオフならではのお楽しみもあるから、期待してて」
 僕は少し得意げに言うと、トリタニア湖の湖畔に向かって馬車を進めた。
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