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序
1、翠蛾
しおりを挟むもう幾つめかのトンネルを抜ける。
昼日中の車両内はがらんどうで、他の乗客の姿は見当たらない。
旅のお供は行儀良く並んで揺れるつり革と鮮やかな赤茶色の座席椅子だけで、そのドアの傍の一番端の席を俺は陣取っていた。
数日分の着替えを詰めたリュックを膝の上に抱えながら、ふと思い立って首だけで後ろを振り返ってみる。
車窓の景色は、新幹線で見てきたそれよりもずっと穏やかで抜けるように明るい。
青空と田園の若緑がこのままどこまでも続いていくようで、目に眩しいくらいの夏の光をいっぱいに浴びながら、俺は今回人生初めての『帰省』という体験に思いを馳せる。
八月某日。
大学の夏休みを利用して、俺は今、N県南部某所の山間地にある『翠蛾村』を目指しているところだ。
物心つく前に事故で父を亡くした俺は、ずっと母に女手ひとつで育てられてきた。
でもその母も今年の二月に急死して、俺はひとりになってしまった。
母さんは元々身体が弱いひとで、俺が大学に受かったのを見届けて気が緩んだんだろうって主治医は言ってたっけ。
不思議と悲しさは感じなかった。
むしろ遠くで起こった他人事みたいに感じてた。
多分、近しい人の死っていうものをまだちゃんと実感できてないんだと思う。
うちには他に身寄りがいなくて、親戚との付き合いも一切なかったので、ひとりになった俺は十八歳で今後の身の振り方を決めなきゃならなくなった。
幸いにも母さんがお金を遺してくれていたおかげで、進学しても入学金や当面の生活費はなんとかなりそうだった。
ただ、年齢的には成人はしていても、学生という身分上保証人やら何やらが一応必要みたいで。
誰か頼れる先はないかって役所で色々調べてもらっているうちに父方の祖母、翠蛾テフという女性が健在なんだと知った。
俺は母さんの旧姓を名乗ってるから『蝶野』だけど、向こうは『翠蛾』さんっていうんだって。
祖母は翠蛾村で畑をやりながら、ほぼ自給自足みたいな暮らしをしているそうだ。
電話口で初めて喋った祖母は泣きたくなるほどやさしい声をしていて、俺は小学生の時に友人たちから「おばあちゃんちに遊びにいく」と聞かされるといつも決まってこっそり惨めな気持ちになっていたことを思い出した。
母さんの訃報を聞くと、祖母は一度も会ったことのない孫の保証人になることを快く了承してくれた。
だから、お礼も兼ねて前々から一度ちゃんと挨拶に行かなきゃなって考えてたんだ。
春頃は進学の準備やアルバイトで忙しくてバタバタしていたので難しかったけど、こうして夏休みにはなんとか都合をつけることができたってわけ。
『ご乗車ありがとうございました。まもなくU駅、U駅です。この電車はこの駅までです。お忘れ物のないよう、ご注意ください』
立て続けに流れてくる駅メロの蛍の光を聞きながら、俺はリュックを背負い直す。
到着したのは終着の無人駅だ。
売店ひとつない木造の改札口を出て、俺は舗装された片道道路に沿って歩いていく。
陽射しがじりじりと全身に降り注ぐ。
きっと多分、ちょうど今くらいの時間帯が一番紫外線がきつい。
遠くにうず高い入道雲が見えるので、今は快晴だけど今晩は天気が崩れるかもしれないな。
呼吸のたびに草の萌える青い匂いを吸い込みながら、けたたましい蝉と蛙の大合唱に背を押されて道しかない緩やかな勾配坂を登る。
道を進むにつれ、アスファルトで固められた地面はいつしか剥き出しの土に代わっていった。
三十分ほど歩いていると、やがてトタン作りのバスの停留小屋が見えてくる。
錆びきった外壁の傍には、ポツンと寄り添うように時刻表が立っていた。
腕の甲で額に垂れた汗を拭い、雨風ですっかり風化してしまった時刻表を確認する。
黄ばんだ時刻表の上から、それよりも少し新しめの風合いの紙が本来書かれてあるダイヤを覆い隠すように貼られている。
バス会社からのお知らせとして、そこには免許維持路線として週に一本しか翠蛾村行きのバスが運行されていない旨が明記されてあった。
「まじで週一本しかバス出てないんだ」
都心部ではちょっと考えられない話だな。
祖母の家には三日ほど滞在する予定だ。
行きはこのバスを使うつもりで、一応帰りは村のひとが車を出してくれるって話だけど……。
本当に大丈夫か?と不安な気持ちでバス停で待っていると、祖母から聞いていた予定時刻を三十分ほど遅れて黄色い車体のバスがやってきた。
俺が乗車すると、バスの運転手がちらりとこちらを一瞥してくる。
相手は五十代半ばくらいの男性で、家の中で羽虫でも見つけたみたいな目をして俺の顔色を窺ってる。
視線はすぐに反らされ、何事もなかったかのようにバスは発進した。
……なんだ?感じ悪いな。翠蛾村、あんまりよそ者を歓迎してない感じなんだろうか。
気を取り直して。
電車と同様に俺以外の乗客がいないバス内で、俺は後ろドアに一番近い座席に腰を下ろし、ハンカチで汗を拭う。
そうしてあとは、山の上へと登っていく窓の外の景色をひたすら眺めていた。
誰も待っていないバス停を四つ素通りして、バスは『翠蛾』の停留所に到着する。
ICカードは使えなかったので、念のために多めに持ってきていた小銭で乗車賃の支払いを済ませ、俺はようやく目的地に降り立った。
山の上まで来たおかげか、道中のうだるような夏の暑さはすっかりなりを潜めていた。
微かに柑橘の香りを孕んだ新しい風が山間を通り抜けていくので、なんならエアコンが効いたバス内よりも涼しく快適に感じる。
傾いた陽射しから片手で顔を守りながらスマホを開くと、圏外になっていた。
うわっ、山だと電波遮断が起こるかもって事前に心構えしてはいたけど、いざ圏外となると一気に不安になるな。
取りあえず、今の時間が十五時を少し過ぎたくらいだということだけは辛うじて確認できた。
「朝陽ちゃん」
後ろを振り返る。
バス停のトタン小屋を覆うような橘の木の下に、腰の曲がった小柄なおばあさんが佇んでいた。
薄紫の割烹着にひっつめお団子頭の、柔和な目元をしたおばあさんだ。
電話で聞いたそれよりももう少し澄んだ声で、彼女はもう一度「朝陽ちゃん?」と俺の名前を呼んで小首を傾げた。
俺は慌てておばあさんに向かって直角に頭を下げる。
「初めまして、蝶野朝陽です。蝶野若葉の息子です。この度はおうちにお招きくださってありがとうございます」
「まあまあ、遠いところよく来てくれました!初めまして、あなたのおばあちゃんの翠蛾テフです」
おばあちゃんは口元を手で押さえながら「そんなに畏まらないで」と少女みたいにころころ笑った。
このひとが、俺のおばあちゃん……!
なんて綺麗なひとなんだろう。
もし俺が理性の利かない小さな子どもだったなら、今すぐ駆け寄って肩に齧りついておばあちゃんに甘え倒していたかも。
初めて会う母さん以外の血縁者を目の当たりにして、叫び出したい気持ちが風船みたいに胸いっぱいに膨らんでこのまま空まで飛んでいってしまえそう。
と、そこでグゥと俺の腹が鳴る。
「あ、」
きょとんと目を丸くするおばあちゃんに、俺はごまかすように頭を掻く。
「……えへへ、ごめんなさい。新幹線の中で駅弁は食べてきたんだけど」
「ふふ、いえいえ。長旅でお腹空いちゃったでしょう。まずはおうちにいきましょうか。おばあちゃん、今日は腕によりをかけてご馳走作るからね」
そう言ってから、おばあちゃんは半歩後ろに後退った。
「小宵。朝陽ちゃんの荷物持つの手伝ってあげて」
ざっと風が吹き、梢を揺らす。
おばあちゃんの呼び掛けに、甘く爽やかな香りと共に橘の幹から汚れた作業着姿の青年が姿を現した。
その顔を見て──俺は息が止まるかと思った。
何故なら小宵と呼ばれたその青年は、俺と瓜二つの顔かたちをしていたから。
※架空の村の土着信仰の話です。
バタフライバースの設定をお借りしてますが、元ネタを知らなくても問題なく読める内容です。
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