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Ep.2 翠光の導き

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 脱ぎ捨てた夜着は、湯浴みが終わった時には新しい衣類と入れ替わりに何処かへ回収されていた。きっと二度と戻ってこないだろう。

 湯浴みによって温まった身体のおかげで、ラナは少しだけ安心して眠れた。目を覚まして部屋の中の時刻盤を見た時、それは昼の一刻を示していた。予定していた時刻よりは少し早かった。昨日の朝からそんなに眠っていたのか、と思うと同時に強烈な空腹を覚え、起き上がれば、エルカ材の机の上にウミウシとスピトのゼリー寄せが鎮座していた、グランス鋼の透明な蓋で覆われて。

「大地の精霊王がもたらす恵みに感謝を」

 利き手である右の拳を額に付けて、大地の精霊王クレリアに短い聖句を捧げ、彼女は食事に取りかかった。寝台の上に座ったままでも机に手が届くのは有り難い。

 フォークのみでゼリー寄せを切り分け、口の中に一切れ放り込むと、コリっとした食感と植物由来のあっさりとした甘みが舌の上にさあっと広がった。同時に、記憶の中からさあっと広がったのは麗しい若者の声――スピトレミア地方は元々肥沃な平野であったが、今から千年前に火の化け物が一帯を焼き尽くしたという話がある――ああ、イークだ、とラナは気付いた。

 もう会えないだろうなあ、と思ったところで、そういう考えがふわりと浮かび上がってくるくらい彼に惹かれていたのだ、とわかった。

 今頃、彼は何処で何をしているのだろう。貴族だと言っていたから、朝はのんびりと過ごしているかもしれない。まだ眠っているか、起きているとすれば、赤くて甘酸っぱいフラガリアや小ぶりのフィークス、宝石のような葡萄や瑞々しい林檎などが沢山盛られた盆の前で、優雅にロウゼルのお茶を飲みながら平面映像機でシルディアナ放送を見ているかもしれない。サフィという名の従者は相変わらず振り回されているだろう。

 竜の角がなくなって、彼は驚くのだろうか?

 彼は残念に思うのだろうか、また会いたかったのにと思ってくれるのだろうか、此方の身を案じてくれるだろうか。私は大丈夫だと会って伝えたい、ラナは心の底からそう思った。

 たった二月の夢だったとしても、彼に忘れられてしまっていても。

「……イーク」

 呟いた瞬間、あの花開くような美しい微笑みがラナの脳裏に蘇った。

 優美に整った所作、穏やかな弧を描いた高貴さの窺える眉、力強くも繊細な指先、好奇心に煌く若葉翠の双眸、すっと高く通った鼻梁、色づきと形の良い柔らかそうな唇、精霊が囁くような音を立て光り輝く金の御櫛、しなやかな若木の如き身に纏うのは甘みと爽快感のあるシルディアナの香り、彼女よりも温度の低い掌。

 話を聴いてくれた、そう言えば、それは彼女のことばかりだった。何も知らない、彼のことは……そう、彼女は何も訊かなかった、訊くことが出来なかった。また来る、と何度も聞く、その度に心をかき乱された。彼の存在に――語らう時のみは自分だけを見ていてくれた、宝石を凌駕する固い意志を秘めたあの瞳に、ただ、ただ呑まれていた。

 もっと知りたかった。その機会はもう、失われてしまったかもしれない。

 だが、これから己が身に降りかかる全てを乗り越えていけば、いずれ……と、彼女は思うのだ。アーフェルズも言っていたではないか――生きていれば、生きてこそ。

「今度は私から、行くから」

 また会いたい。そう思うことは、最早ラナ自身にも止められなかった。



 昼、七の刻。昼下がりと呼ぶには時が経ちすぎているが、夕暮れ前と言うにはいささか早すぎる。

 会いに行く度に何かが募っていくという思いをするのは自身にとって初体験である、と、今のイークは間違いなく言える。それ程に、ここ最近は南街区へと貴族の子息のような恰好をしてこっそり赴くのが楽しくて仕方がなかった。胴着の胸元は護身用の魔石が一つだけしかついていない簡素なものだし、七分丈のズボンは何度も穿いたからすっかり馴染んでいる。編み上げサンダルは上等なものではあるが、踵がかなり削れてきた。絹羽織は薄手で襟が立っていた、しかし、今やその先が折れている。いい具合に草臥れた下級貴族のようだ、と彼は自分で思った。

 しかし、料理の良い香りに思わずふらふらと寄っていった、という何とも情けない始まりではあったが、ラナという名の少女との出会いは興味深さに満ちたものであった。酒場に案内されるまでは、帝国の若者がどのような生活を送っているのか、ただ興味があっただけだった。それがどうだろう、話を聞いているうちに、どうやら情が移ってしまったらしい……あまり平民らしくない顔立ちの彼女は、自身の経済的な問題により中等学舎を志半ばで中退せざるを得なかったと言っていたが、それを何とかしてもう一度通わせてやりたい、と思うくらいには。

 尤も、これは自身の傲慢でしかない。そういう者を一人救ったところで帝国が上手く回るなどということは一切ないし、隠された存在とはいえ、イークはまだ自身の立場を忘れたわけではない。だが、自身の話や彼女との対話が諦めた夢や取り戻せない過去の慰めとなるのなら、己との時間が癒しとなるのなら、それでも良いのではないか、と彼は思うのだ。ラナが沢山の話を聞かせてくれたのは、少しは心を開いてくれているからだろう、と彼は何となく思う。そして、話せば話す程、彼女の新しい表情を見つければ見つける程、その想いは膨れ上がっていった。笑顔を見れば見る程、嬉しさは増した。

 もっと、もっと話をしてみたい。色々な表情を見てみたい。その表情を引き出せるのが自分であればあるほど良い。

 故に、今日もイークはその酒場、竜の角へ足を向けるのだ。

 時々置いてきぼりにすることもあるが、肩まで伸ばした髪を一つに結って垂らし、蒼の胴着に七分丈のズボン、金糸の刺繍が入っている空色をした薄手の絹羽織、足には編み上げサンダルという貴族の普段着に身を包んだサフィルスも一緒だ。その忠実な若者は、今日は最初から隣を歩いている。竜車の中でも、普段と違って隣同士だ。自分の立場を忘れて少し近付けたような気がするので、彼はそんな時間が好きだ。数か月前に配属されてきたばかりの時のことを考えると、幾分か気安い会話も出来るようになった。

「御主人様は、今日も竜の角へ?」

「そのつもりだ」

「……たまには別の場所へ赴かれてはいかがでしょう? 商人居住区にも興味深いものは沢山御座います」

「それも良いが、あそこは当たり外れが大きいからな」

「……確かに、あそこの料理はいつも絶品で御座いますからね、御主人様の気に入りの女子もおりますし」

 そんなことを言いながら竜車を降りて再び彼の隣を歩き出すサフィルスは、シルディアナにおいて権威権力を共に有するランケイア氏族直系の三男、弱冠二十二歳であるにも拘らず非常に優秀な近衛騎士である。二人で外にいる時にイークのことをただ御主人様とだけ呼ぶようになったのは、彼が名だけ帝国民に知られた皇帝であり、顔も声も公となっていないからだ。宮殿の秘された一角にいる時と今のように忍んで出ている時との呼称の使い分けもしっかり出来るようになっており、もう間違えたりはしない。貴族の従者である振りが板についてきたと言える。

 前回竜の角に訪れたのは満月の日である。さて、今日も彼女はいるだろうか、などと考えると、イークの胸も自然と高鳴った。深入りしてはいけない、と頭の片隅から声が聞こえてくるし、サフィルスも何処か呆れたような表情をしているのだが、どうにも止められない。

 何度も通った道を歩く足取りは軽く、南街区大通り中、という文字が刻まれた屋根付きの竜車の停留場所から歩いて少し、竜の角が扉を開けて待っている――

「……ん?」

 思わずイークは立ち止まった。

 いつもと様子が違う。広く開かれている入り口の扉の両側に魔石動力強化機械つきの槍を手にした帝国軍兵士が立っているなどということは、普段はない。その扉が固く閉ざされ、更には板金を交差させて封鎖されている光景など、今まで見たことがなかった。

 彼の視界には、少し屈んで此方を窺うサフィルスの顔。

「……私が事情を訊いてまいりましょう、御主人様」

「宜しく頼む、サフィ」

 自身から申し出て見張りの帝国軍兵士に近付いていく近衛騎士をぼんやりと見つめながら、一体どういうことだろう、という言葉で頭の中が埋め尽くされるその隙間で、イークは考える。そう言えば、近々第二城壁の内側全てで反乱軍組織アルジョスタの一斉摘発を行うという話があったが、それが昨日行われたというのだろうか?

 彼は目を凝らした。交差した板金の向こう、扉に嵌め込まれているグランス鋼の薄い板窓は割れており、その奥の薄暗い石畳に赤茶けた色の乾いた染みが広がっているのがわかる。至る所に食器や調理器具が散乱しており、焦げ付いたような跡まで見えた。

 間違いない、と彼は思う。息を呑むことすら忘れていた。

 確実に誰かが死んでいる。

「御主人様」

 サフィルスの声が聞こえた。最悪の想像を繰り広げ始めた己の頭を軽く振って、イークは顔を上げて近衛騎士を振り仰ぐ。

「ご苦労だった、あの者は何と?」

「昨晩、アルジョスタの摘発を行ったと……その場にいた従業員数名は聴取の為に保護、後に中央行政区へと移送され、料理人と酒場の主人は行方が知れず、とのことで御座います、怪我人はおりますが、民間人に死者はない筈、と……ただ、アルジョスタは勘定の内に入っておりません」

「そうか……」

 彼は今しがた得た情報を噛み締めた。民間人に死者はなし、ということは、彼女は無事で、中央行政区に移送されているのだろうか?

「……そうか、では、戻るぞ、サフィ」

「確かめられるおつもりですね?」

 サフィルスの呆れたような視線が射抜いてきた。言外に、ラナという少女の安否についてだろう、と確認されている。イークは間髪入れず頷いた。

「そなたの次の仕事は適当に取り調べ人の服を見繕ってくることだな」

「貴方様は本当に……私に法律破りの罪を着せようとなさるのがお上手で」

「馬鹿を申すな、サフィ、何も戯れでやっているのではない、私には明確な目的が存在する」

「気に入りの女子の行方を追うという?」

 外に出た際のサフィルスは良い従者っぷりを発揮してくれるが、だんだん自身に対する遠慮がなくなってきたのではないか、などとイークには思えた。否、高ぶる心を冷静にさせてくれるという点では非常に優秀である、と考えてもよいのだろうか。

「……それもある、が、私は切り崩しの糸口がないか探っている」

「と、申しますと?」

「そなたに言っても良いものか……いや、何、そろそろ屋敷の中で自分の派閥を広げて、新しい風を取り入れておこうと考えておるのだ、私の存在も前面に出していこうと思っている、わかるか?」

 サフィルスが目を僅かに見開いて息を呑んだ。

「……それはまた、大胆なことをなさるおつもりで」

「なんだ、あまり驚かないのだな」

「御主人様にはいつも御屋敷からの脱走方法や食事量などで驚かされているので、正直私としては、そんなには」

「素直すぎるのも問題だぞ、サフィ」

「それが私の取り柄で御座います……いえ、十分に驚いております故」

 イークは頷いた。

「戻るぞ」

 今日のサフィルスはサヴォラつきではないので、すぐに宮殿へと引き返せないのがもどかしい。イークライトという青年が忍ぶ際は、ロウゼルと竜があしらわれている軍の紋章付き――しかも金色だ――のサヴォラは目立ち過ぎるので、完全に本人を見失った時以外は使われることはない。サフィルスは普段から軍用機を運用することは避けていた。幾ら顔と声を秘された皇帝とはいえ、好奇心旺盛な性格であるから、サヴォラ一機とサフィルス一人では危険な目に遭っても対処出来ないことが想定される。

 彼自身も自分のことであるから、出来るだけ他人の手を煩わせてはいけないと理解はしているが、一人になりたい時だってあるのだ。或いは、誰も己のことを知らない世界で身分に拘らない自由な出会いをしてみたい、などと憧れたりもする。何より、もっと民のことを知りたい、現状を知りたい、そうすれば何処から力になることが出来るのかが判るかもしれない、と考えている。

 二人は竜車で中央行政区まで戻ってきた。車輌を牽く草食竜はずっと何かに怯えているようで、終始くすんだ草緑の鱗を逆立てていた。

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