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Ep.2 翠光の導き

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 最初に試着と支払いを終えていた癖に、アルデンスはまだ準備するものがある、とのことで、店に残った。支払いは全てティルクが受け持ったのでラナは感謝を通り越して恐ろしくなったが、当のおじは、後で全部領主様に請求する、などと言っていたので、問題はないと思い込むことにした――それで良いのかどうかは謎だ。

 ラナとスピシアは並んで歩いて行く。前には先導をするティルク、後ろにはエレミア。

 彼らが一式を揃えた衣装店「スピトの針箱」で、ティルクの髪は内側の半分の量を結わずに垂らし、外側に編み込みを入れながら纏めて結い上げる形にされていた。一見すると女性的な髪型に思えるのだが、身体も顔立ちも野性的なところに上品さと甘さが加わり、雄としての色気が漂っていて、つまり非常に似合っていた。ラナと同じイオクス材色の髪は彼女よりも長く、美しく波打ちながら鎖骨や肩を通り過ぎて、胸や肩甲骨のあたりで遊んでいる。そんな後ろ姿を見ながら歩いているわけだが、普段のおじと雰囲気が全く違うものだから、ラナは落ち着かない気分になるのだ。

 紅の橋の上は昼下がり、会食は昼六の刻からだ。手に提げている買い物袋の中には「スピトの針箱」で脱いだ服一式が入っている。ラウァも一緒だ、畳んだ服の一番上に置くような形で乗せられている。

「もう少しだぞ」

 風に弄ばれる長い髪を邪魔そうに押さえながら、ティルクが振り返って言った。

 衣装店から橋を真っ直ぐ渡り、その先で右に曲がり、岩肌に沿うようにして二つ目の橋が見えたら、左を向くと領主の館――洞窟だが――が存在している。外側に開く一対の門は分厚いクレル板で、水流紋と幾何学の合わさった複雑な意匠が施されていた。ラナはこの門を知らない。以前領主のネーレンディウス・アンデリーと面会した際は、崖の斜面を進んでいったことを覚えている。

「……私にとっては帰宅ね」

 着いた途端にスピシアがそう呟いたので、ラナは思わず小さく吹き出してしまった。

 人間の三倍くらいの高さがある門がエレミアの持っていた認証鍵で開くと、中から溢れてきたのは光である。眩しくて目を細めた瞬間に気付いた、無数の小さな精霊だ。照明によく使われている火魔石や光魔石だけでなく、水や土、闇、風、全て揃えてあるのだろう。ラナの肩の上に、竜人族のような外見をした大ぶりの闇精霊が、光無き目を他の仲間達を受けて輝かせながら腰掛けて足を組んだ。重さは感じない。

 光の奔流が引いた後に見えるのは白と赤い岩壁の内装である。廊下に沿って絨毯が敷いてあるが、どうやら靴やサンダルのままで良いらしい。中に入って一旦門が閉じた後、先導がティルクからエレミアに変わった。進んでいく廊下に所々存在する小さな空間には、壺や花、角と鰭が魔石化して鮮やかな青を放つ美しい魚――スピシアが「ケイラティアという種類よ」と言いながら通りすがりに角をつついていた――の水槽などが置かれている。中はひやりと涼しく、魔石動力の空調でも効いているのだろう、風の流れが存在していた。

 会食の刻には少し早かったが、護衛二人の案内で入った大広間には既に相当な数の中等学舎の生徒が揃っていた。再受講生の姿もちらほら見える。

「スピシア・アンデリー・シェルメリア様のご到着でございます」

 入るなりエレミアが言ったものだから、こちらに注目が集まってラナの足が止まった。

「手を」

 ティルクの囁きと共に、大きな手がラナの手をそっと取った。おじは体温が高い。貴族のしきたりなどは知らないが、そういうものなのだろうか。彼女にはわからなかったが、よく見れば周囲の生徒も男女が一組になって手に手を取り合っていた。そういう手筈だったようだ。

「本当は会食までに相手を探すものだが、言い忘れていた、すまん、俺で許せ」

「……ありがとう、ティルク」

 アルデンスなら乗ってくれただろうか、などと彼女は一瞬だけ思ったが、下手に交流のある再受講生を誘うのも変に耳目を集めてしまったかもしれないことを考えると、これが一番無難だろう。

 エレミアとスピシアは奥の方へ向かって行く。付いて行くか、とティルクは訊いてきたが、ラナは首を振った。間違いなく目立つだろう、何せスピシア・アンデリー・シェルメリアとの紹介があった女生徒の歩いて行く先にはスピトレミア領主ネーレンディウス・アンデリーが立っている。ティルクよりも痩せていて背は低いが、威厳のある顔立ちは健在だ。くすんだ暗い金色の髪が精霊の光を受けて明るく見える。

「ラナ、ティルク」

 と、大広間の隅から声がするので振り返ってみれば、そこには意外な人物がいた。長い金色の髪を下ろしてティルクと同じように外側の半分だけを結い上げ、丈の長い儀礼用ドレスと細身のズボンや靴は、翠を中心に揃えてある。羽織は更に薄い色だ。どれも裾に金糸でロウゼルの花と竜が施されており、胴着の胸元には逆さ竜がロウゼルの紅花を銜えていた。

「アーフェルズ」

「……お前、ネーレンディウス様の護衛はどうした」

「今から君が行くのさ、時間繰り上げ……心配は必要ないよ、私が休憩ついでにラナと一緒にいよう」

 さあこちらへ、と言いながらアーフェルズはラナの手をティルクから鮮やか且つ優雅に奪い取った。彼女がどぎまぎしている隙に腰にまで手を添えられ、ぐっと距離が近くなる。この世の美しいものだけを全て集めて練ったような端正で優美な顔立ちと、輝く翠の双眸に思わず吸い込まれそうになった――そこで彼女は気付く、誰かに似ている――花咲くようにふわりと微笑んだその口元に呑まれそうな気がしてラナは助けを求めるように後ろを振り返ったが、ティルクは舌打ちをしながらちょうど領主のいる方へ歩いて行くところだった。それを見送っていると、耳元で囁かれる。

「何、そんなにティルクの方が良かったかい?」

「……そういうわけでは」

 吐息が耳や首筋に掛かった。いや、彼女にはわかる、わざとだ。

「アーフェルズ、くすぐったい」

「……私ではお気に召さなかったかな?」

 何かを感じ取ったようにアーフェルズが身を引いて見つめてきた。含みのある笑みが深くなり、やがて白い歯が覗いてくすくすと笑い声を漏らした。

「君には通じなかったか」

「いつも笑っているけれど、本気の時は真顔でしょ、アーフェルズ」

 彼女は、彼と初めて言葉を交わした時のことを思い出していた。右手を自身の左肩に掛けて頷くような挨拶、ラナとティルクがアル・イー・シュリエの疫病の鍵だと推測し、崩れない笑みの向こうにはアーフェルズという名のついた仮面を取っ払った、彼女の知らない暗闇の気配が確かに隠されている。

 当の本人は笑みを浮かべたまま瞬きをする、とぼけるつもりだろうか。ラナは一押しした。

「初めて会った時がそうだった」

「……あの時か」

 アーフェルズの微苦笑に溜め息が混じる。

「あの時と比べると、君は随分いい顔をするようになったね、笑顔が素敵だよ」

「ありがとう、アーフェルズ、あなたも」

 視線は相変わらず柔らかく、優しさに満ちていた。エイニャルンの夜明けに立ち会ったあの時に彼の深淵をほんの僅かに垣間見たラナは、アーフェルズに対して恐れる必要はないのだと何となく思うようになっている。ただ、未だに彼女の腰を捕まえていることに対しては釈然としない気持ちを抱くが。

「髪は下ろした方がいいと言われたからやってみたのだけれど、ちょっと鬱陶しいね」

「でも、いい感じに色気があるから、色んな人が見ているじゃない、ほら」

 事実、こちらに視線を寄越してくる女生徒は多い。普段は全て後頭部かうなじのあたりで纏めているアーフェルズの豪奢な金髪は半分だけ下ろされ、首筋をちらちら隠したり見せたりしながら、鎖骨のあたりを飾るようにふわふわと遊んでいる。それに目を奪われるのは大いに理解出来るのだが、ついでに自分に向かって胡乱な者を見るような目を向けてくるのをやめて欲しい、とラナは思った。それに気付かないわけがない。

「……だから隅の方に移動したのだけれど、ネレンの側はちょっと目立ち過ぎるからね」

「貴方も目立っていると思うけれど、アーフェルズ」

 アーフェルズは自分がどのように見られているか理解している、ということがわかる。大袈裟なくらいに、わざと得意げに微笑んでみせるからだ……まるで何かを隠すかのように。

「じゃあ君も私と一緒にいっそのこと堂々と真ん中へ行って目立ってこようじゃないか、え?」

「護衛なのに目立つことを勧めるのってどうなの、私は隅っこでいいよ」

「……つれないなあ」

「強引なお客さんなんて一杯いたからね、毎日」

 慣れているよ、と言ってみせれば、彼はおかしそうに声を上げて笑った。

 スピトレミア領主ネーレンディウス・アンデリーが話し始めた。ざわめきに包まれていた大広間は徐々に静かになっていく。ラナはアーフェルズの腕をそっと解いてそちらを向いた。領主は卒業見込みの生徒達に向かって労いと励ましの言葉を掛ける。

「全ての専攻の者、及び再受講の者に、まずはよくやったと言おう」

 その後に続いた、やがて未来を担うことになるだろう、という言葉を噛み締めていると、アーフェルズの左手が彼女の左肩にそっと掛かる。心地よい重みだった。

 領主の言葉が終われば食事の始まりだ、ネーレンディウスが手を叩けば、大広間の隅にある片開きの巨大な扉が開いて、車輪付きの丸い机が幾つも入ってきた。同時に柔らかい長椅子も運び込まれ、壁側に並べられていく。丸い机の上に乗せられているのは様々なスピト料理、空飛ぶウミウシの刺身、竜角羊の野菜ソース煮込み、アスヴォン産の牛肉の蒸し焼き、卵と鐘胡椒の炒め飯や、フラガリアやフィークスや葡萄のゼリー寄せ、シヴォン産のワインのボトル、様々な果実酒など、数え切れない程の食べ物と積み重ねられた空の皿が並んでいる。

「それでは諸君、よく語らい、よく喜ぶといい……大地の精霊王がもたらす恵みに感謝を」

 領主が右の拳を額に付けて聖句を捧げ、その場に居合わせた者は全てそれに倣った。

 ラナは「竜の角」で厨房から沢山の料理が出て行った時のことを思い出していた。ナグラスとフローリシェが忙しそうに飛び回りながら行き来していて、その頃は彼女も仕事を始めたばかりで、ひたすら慌てることしか出来なかった。

「ラナ、取ってあげよう、何がいい?」

「何でも食べる、有り難う」

「じゃあ先に長椅子を確保しておいてくれないかな、私の場所もね」

 アーフェルズの申し出に有り難く乗り、彼女はすぐ近くの長椅子の真ん中のあたりに腰掛けた。腰がふわりと沈み込んで、この長椅子が相当柔らかくて座り心地が良いことに気付く。今までに体験したことのない感触にラナの心は躍った。

「……凄い、これ」

 地方の領主というものはこうも裕福なものであるのか。そうだとしたら、帝都のキウィリウス邸などは彼女の想像もつかないようなことが数多存在しているに違いない。そう思いながら、ラナはぼんやりと左腕に付けた腕輪を撫でた。何処からか風精霊が飛んできて戯れているのがとても愛らしい。彼女が撫でようとすると、実体のない蝶のような羽根が震えて、風が笑い声を上げた。

 思わずラナが笑った時、誰かが左隣に腰掛けて長椅子がたわんだのが伝わってきた。アーフェルズだろうか、そう思ってそちらを向いた彼女の視界に入ったのは、垂らされた薄金の長い髪。

「久し振りだ、元気かい、ラナ」

 その微笑みには覚えがあった。だが、記憶の中と今は全く違う。本当だとしたら、白石のように透き通っていた肌は日に焼け、細かった四肢にはがっしりと筋肉が付き、柔らかだった表情は引き締まっている。果たしてこの声で合っていただろうか、ラナはそう思わずにはいられない。

 気が付いたら彼女は口走っていた。

「……まさか、そんな訳ないよね」

「声から忘れていく、と言われているけれど、本当だったか……僕のことは覚えているかな?」

 否、彼のしてくれた話が長いけれども面白くて、それが強烈だったのは覚えている。向き合った目の色は美しく澄んだ青だ。会食に合わせたのだろう、青灰色の儀礼用ドレスと濃い灰色のズボン、靴は濃い青灰色だ。よく見ると髪は半分だけ上げていて、後頭部で金の簪を使って纏められている。簪についている一本の細い鎖の先にはドレスに合わない紅色の火魔石が揺れていた。

 ラナの声は震えた。

「ユエルヴィール?」

「ご明察」

 何がどうなって、ここで再会することになったのだろう。微笑んだユエルヴィールの表情は優しくて、彼女は泣きたくなった。「竜の角」から、学舎から、帝都から離れたこの場所でまさか再会出来るとは思っていなかった。

「元気そうだね、よかった」

「あなたこそ……便りを出せなくてごめんね、帝都から出なきゃいけなくなって」

 ラナがやっとの思いでそう言うと、彼は彼女の両肩にそっと触れながら、何かあるのだろうか、真剣な顔つきになった。

「ずっと君に伝えたいことがあったけれど、聞いてくれるかい?」

「なあに?」

「君に僕の名前をしっかり伝えるのを忘れていた、と、それがずっと気になっていてね」

 彼女が頷けば、ユエルヴィールは安心したように微笑んで、後頭部に手を伸ばして簪を取った。何をする気だろうと思う間もなく、その大きな手がラナの髪に触れ、編み込んだ髪の隙間に簪が差し込まれる。左耳の付け根のあたりに火魔石がこつん、と当たった。

「君にあげよう」

 そう言った彼の髪がふわりと解けて広がる。さらさらと流れる薄金のそれはまるで絹糸のようで――

「アルデンス・ヒーエリア・ユエルヴィール……言い忘れていた、すまんな」

 ――ユエルヴィールが右手で額を掻き上げる。その指が薄金を浚った時、短い赤毛がその下から燃えるように広がって、ラナは言葉を失った。
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