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第一話
しおりを挟む瑞陽二十年──春。
瑞陽王朝は、南に海を抱き、東西に山脈を連ねる広大な国である。
五十年の平和の影には、朝廷の派閥争いと後宮の静かな火花が潜んでいたが──それを知る者は少ない。
李 翠玲は、馬車の窓辺に、頬杖をつき、霞がかった野をぼんやり眺めていた。
今日から後宮暮らし。
姉の李 翠薇が、“徳妃”として入内することになり、自分も特例でその補佐として同行するのだ。
「……本当に行くんだなあ、後宮に」
ぽつりとこぼした翠玲の呟きに、隣の翠薇姉さまがふわりと微笑んだ。
「ふふ、まるで他人事みたいね。でも、あなたがいてくれるだけで、私は心強いのよ」
「姉さまこそ、肝が据わってる。私なんて、ちょっとお腹が痛いくらい緊張してるのに」
「翠玲様。お腹に優しい、お茶を後で淹れましょうか?」
向かいの紅玉が、おっとりと声をかけてくる。
「ありがとう、紅玉。でも、飲むと……近くなるから遠慮しておく」
「あらまぁ、ふふふ」
その、柔らかな声音の笑い声に、車内の空気が少しほぐれた気がした。
李姉妹と侍女の紅玉が乗っている馬車とは別に、翠薇姉さま付きの侍女たち四名が乗っている馬車がいる。
翠薇姉さま付きの専属侍女は、翠玲を合わせて総勢六名で、しかもそれぞれ個性の強い面々だ。
紅玉──年上のおっとり系。筆頭侍女で、衣装係とお茶係を担当。
可馨──几帳面で真面目、帳簿関係と翠薇姉さまの髪結いを担う。
雨萱──翠薇と同い年の落ち着いた女性で、香の調合に命をかけているらしい。
蘊華──口は悪いが、情に厚い姉御肌。帳簿の補助と翠玲が不在の時の、翠薇姉さまの護衛も担当している。
小春──最年少で元気いっぱいの“今どき風”娘で侍女見習い。
「ねえねえ、見て見て! あれ、都だよね!? すっごーい!」
後方から、小春の声が聞こえてきたので、翠玲は少し窓に顔を寄せる。
そこには、窓の外を指差して、身を乗り出している小春の姿。
「小春、はしたないわ。席にお座りなさい」
可馨の、きっちりと窘める声が聞こえ、小春は、にへらと笑って戻っていく。
「だってさ、こんな機会めったにないんだもん。ね、雨萱姐?」
「ふふふ。まあ、小春らしいわね」
雨萱の、穏やかな笑い声が聞こえる。
賑やかな侍女達が乗っている馬車の様子を伺っていた翠玲だったが、思い出したように懐に手を入れた。
「……姉さま、これを」
翠玲は、懐から小さな香袋を取り出した。
防毒と安眠効果を兼ねた、自作の香り袋だ。
「ありがとう。あら……いい香り。これ、また調合したのかしら?」
「うん。今回は少し変えてみたの。蓮芯と百合に沈丁花を加えて……あと、ちょっとした“おまけ”も」
「甘草に、香柏、でしょ? 毒消しと警戒効果。翠玲の調合はいつもお見事」
「……気付いていたの?」
「もちろんよ。あなたが、いつも真剣な顔で香を調合してるところ、何度も見てたもの」
翠薇姉さまの笑みは、どこまでも優しかった。
長閑な空気漂う一行を乗せた馬車は、都の門を抜け、長華城の石畳を進む。
建物の高さ、行き交う人の数、どれもが地元とは違う。
「……あれが、後宮」
翠玲は、幾重にも重なる屋根の群れを見上げた。
絢爛でいて、どこか物言いたげな静寂が広がっている。
その中で、翠薇姉さまはこれから生きていく。
ならば、自分も覚悟を決めるしかない。
「よし、やるだけやってみよう」
誰にも聞こえぬよう、小さく呟く。
そう、転生した意味は、きっとこの為にあるのだから。
◇
「──翠薇お嬢様、ご準備を」
馬車が止まり、外から声がかかった。
翠薇姉さまが、ゆっくりと立ち上がる。
「さあ、行きましょう。新しい生活が、始まるわ」
その瞬間、春風が舞い込んできた。
紅桃の花びらが一片、ふわりと馬車の中へ入り込み、翠玲の膝に落ちる。
まるで未来の始まりを告げる、可憐な予兆のようだった。
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