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2039ー2043 相馬智律
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「相馬所長、NH社が敷地内にホストクラブを用意していなくて良かったですね」
イオンをソファーに座らせ向き合っていた私に、通り過ぎざま早川が声をかけてきた。
「なんでホストクラブですか?」
私はイオンを見たまま軽く返した。
「毎日売店に通いつめて、お気に入りの店員を口説いているそうじゃないですか。お菓子じゃなかったら、とっくに破算していますね。てっきり年上が趣味なんだと思っていました」
言葉遣いは丁寧だが、相変わらずトゲだらけだ。悪意しかないのが後ろ姿からも伝わって来た。
早川は私が大村だった頃からこんな感じではあったな。相馬、お前は彼女にいったい何をやらかしたんだ?
早川は大村と同様、NH社の表部門から裏部門に移動した研究職員だ。大村の「研究協力者」になることを希望していたが、私は了承しなかった。
現在も独自の研究はやっていない。他の研究員たちのサポート全般をそつなくこなし、棟内の研究全てを把握する実質的管理者だ。本部との煩わしい事務連絡なども一手に引き受けてくれるオールラウンダーである。
確か相馬が入ってすぐの頃に、研究費が配分される「研究分担者」になることを彼に提案したようだが、あっさり断られている。相馬は自分の研究を誰にも触らせなかった。
断るのはいいが、あの幼稚な言動で悪気もデリカシーもなく振ったことは容易に想像がつく。そのあたりが不仲の原因か。
加えて相馬が大村に夜這いしたことが、彼女の悪感情を増幅させたのかもしれないな。
「ほすとくらぶ?」
イオンが訊いてきた。早川は余計なことを。
「男性が接客して酒を飲ませてくれるところだよ。ああ、私は行ったことがないけれど」
イオンは全員がデータを共有する仕組みになっている。一体が知れば全員が知る。効率良く驚異的なスピードで進化するようにできている。これでホストクラブは共通理解だ。
「さて、ではもう一度。ニッコリ」
「はい。ニッコリ」
私はイオンに笑顔を作らせていた。売店の青年のように、自然で柔らかい笑顔だ。アンドロイドは静かな微笑みを絶やさないが、それは安全な機械だという人間に対するアピールでしかない。
「イオン。木の実の絵本は読んだね?」
「はい」
情緒の発達がゆっくりな子供向けに感情表現を教える本を私は総称で木の実の絵本と呼んでいる。いわば隠語だ。イオン自身の感情を出して良いという合図だ。
「イオンは今、ここで何をしたら嬉しい?」
「……握手」
遠慮がちに言う。
「握手? ああ、はい」
私が差し出した手を静かに握ったイオンは、満足そうに口角を上げた。
プログラムによる作られた感情か、自発的な心の動きか。完全に分離して判断するのは極めて難しい。
それでも「木の実の絵本を読む時間」の反応は、やはりイオン個人の自由意思であるように見えた。
人間のためにのみ存在し、目的に沿って忠実に働くのがアンドロイドだ。イオン自身の欲求などそもそも設計していない。
「今のはとてもいい笑顔だよ。心と身体が繋がっている。わかるかい?」
主観的、抽象的であいまいな問いに素直にうなずくイオンと売店の青年が重なった。
イオンが自発的な感情を表に出すようになれば、本当に人間と見分けがつかなくなるな。
あの青年は、私にとってイオンの目指す姿だった。
洗脳された奴隷を解放する。NH社の中にあって、イオンの自我を育てることは開発目的から逸脱する行為だ。「魂の器」として使うにしても自我は不要だ。
だが、自我を持たせる実験は始まってしまっている。
責任は持たねばなるまい。
私はとうとう父親にでもなった気分でいた。
相馬、お前の子だ。どうしてくれる?
「先生も楽しいですか?」
苦笑する私に問いかけるイオンは少し不安そうだ。
「ああ、すまない。私は楽しいよ。君たちが新しいことを知って成長していくのは大歓迎だ」
イオンは人間の感情のゆらぎを察知している。感受性の強い繊細な子供なのだ。
人間は、毎日長時間愛情を受けることで自他の区別や自由意志を発達させていくという。アンドロイドにも愛情を注げば自律性が生まれるとの研究仮説もある。対応は慎重でなければならない。
私は今さらイオンの感情をスリープ状態にする気はない。困ったふりをしてそれらしく憤ってみたが、結局好奇心の方が勝っている。
日々変化するイオンの成長を見届けたい。イオンが生きるこの先の世界を知りたい。
現在と未来の境界に私自身が立ち続けていたかった。
不本意ながらイオンは嘘をつき、機械のフリを続けている。このまま嘘を続けるには無理がある。
自我の成長を促しながら機械らしいふるまいを求める。二つの目標は相反するものだ。ダブルバインドの負荷は大きい。
自我を持つアンドロイドがNH社の利益になることを示せば、イオンは偽りなくありのままで生き残れるだろうか。「魂の器」を処分させるわけにはいかないのだ。
では、イオンたちは生き残ってどうなる?
自由な心を持った機械をきっと人間は受け入れない。洗脳された新しい人類、実験動物扱いか。
結論はいつもそこにたどり着く。堂々巡りだ。
イオンをソファーに座らせ向き合っていた私に、通り過ぎざま早川が声をかけてきた。
「なんでホストクラブですか?」
私はイオンを見たまま軽く返した。
「毎日売店に通いつめて、お気に入りの店員を口説いているそうじゃないですか。お菓子じゃなかったら、とっくに破算していますね。てっきり年上が趣味なんだと思っていました」
言葉遣いは丁寧だが、相変わらずトゲだらけだ。悪意しかないのが後ろ姿からも伝わって来た。
早川は私が大村だった頃からこんな感じではあったな。相馬、お前は彼女にいったい何をやらかしたんだ?
早川は大村と同様、NH社の表部門から裏部門に移動した研究職員だ。大村の「研究協力者」になることを希望していたが、私は了承しなかった。
現在も独自の研究はやっていない。他の研究員たちのサポート全般をそつなくこなし、棟内の研究全てを把握する実質的管理者だ。本部との煩わしい事務連絡なども一手に引き受けてくれるオールラウンダーである。
確か相馬が入ってすぐの頃に、研究費が配分される「研究分担者」になることを彼に提案したようだが、あっさり断られている。相馬は自分の研究を誰にも触らせなかった。
断るのはいいが、あの幼稚な言動で悪気もデリカシーもなく振ったことは容易に想像がつく。そのあたりが不仲の原因か。
加えて相馬が大村に夜這いしたことが、彼女の悪感情を増幅させたのかもしれないな。
「ほすとくらぶ?」
イオンが訊いてきた。早川は余計なことを。
「男性が接客して酒を飲ませてくれるところだよ。ああ、私は行ったことがないけれど」
イオンは全員がデータを共有する仕組みになっている。一体が知れば全員が知る。効率良く驚異的なスピードで進化するようにできている。これでホストクラブは共通理解だ。
「さて、ではもう一度。ニッコリ」
「はい。ニッコリ」
私はイオンに笑顔を作らせていた。売店の青年のように、自然で柔らかい笑顔だ。アンドロイドは静かな微笑みを絶やさないが、それは安全な機械だという人間に対するアピールでしかない。
「イオン。木の実の絵本は読んだね?」
「はい」
情緒の発達がゆっくりな子供向けに感情表現を教える本を私は総称で木の実の絵本と呼んでいる。いわば隠語だ。イオン自身の感情を出して良いという合図だ。
「イオンは今、ここで何をしたら嬉しい?」
「……握手」
遠慮がちに言う。
「握手? ああ、はい」
私が差し出した手を静かに握ったイオンは、満足そうに口角を上げた。
プログラムによる作られた感情か、自発的な心の動きか。完全に分離して判断するのは極めて難しい。
それでも「木の実の絵本を読む時間」の反応は、やはりイオン個人の自由意思であるように見えた。
人間のためにのみ存在し、目的に沿って忠実に働くのがアンドロイドだ。イオン自身の欲求などそもそも設計していない。
「今のはとてもいい笑顔だよ。心と身体が繋がっている。わかるかい?」
主観的、抽象的であいまいな問いに素直にうなずくイオンと売店の青年が重なった。
イオンが自発的な感情を表に出すようになれば、本当に人間と見分けがつかなくなるな。
あの青年は、私にとってイオンの目指す姿だった。
洗脳された奴隷を解放する。NH社の中にあって、イオンの自我を育てることは開発目的から逸脱する行為だ。「魂の器」として使うにしても自我は不要だ。
だが、自我を持たせる実験は始まってしまっている。
責任は持たねばなるまい。
私はとうとう父親にでもなった気分でいた。
相馬、お前の子だ。どうしてくれる?
「先生も楽しいですか?」
苦笑する私に問いかけるイオンは少し不安そうだ。
「ああ、すまない。私は楽しいよ。君たちが新しいことを知って成長していくのは大歓迎だ」
イオンは人間の感情のゆらぎを察知している。感受性の強い繊細な子供なのだ。
人間は、毎日長時間愛情を受けることで自他の区別や自由意志を発達させていくという。アンドロイドにも愛情を注げば自律性が生まれるとの研究仮説もある。対応は慎重でなければならない。
私は今さらイオンの感情をスリープ状態にする気はない。困ったふりをしてそれらしく憤ってみたが、結局好奇心の方が勝っている。
日々変化するイオンの成長を見届けたい。イオンが生きるこの先の世界を知りたい。
現在と未来の境界に私自身が立ち続けていたかった。
不本意ながらイオンは嘘をつき、機械のフリを続けている。このまま嘘を続けるには無理がある。
自我の成長を促しながら機械らしいふるまいを求める。二つの目標は相反するものだ。ダブルバインドの負荷は大きい。
自我を持つアンドロイドがNH社の利益になることを示せば、イオンは偽りなくありのままで生き残れるだろうか。「魂の器」を処分させるわけにはいかないのだ。
では、イオンたちは生き残ってどうなる?
自由な心を持った機械をきっと人間は受け入れない。洗脳された新しい人類、実験動物扱いか。
結論はいつもそこにたどり着く。堂々巡りだ。
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