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四章
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授業中、ドアの開く音がした。振り返ると、勝也が入ってくるのが見えた。
「勝也、早退じゃなかったのか?」
先生が尋ねた。
「具合がよくなったので戻ってきました」
「そうか、えらいなお前」
僕は勝也の顔を見て、なんとなく違和感を覚えた。それというのも、その顔がちっとも具合の良い人間のそれのようには見えなかったからであった。
早退のときは逆だった。早退する癖にやたらと体が動いていた。どう考えたって、ずる休みにしか見えなかった。
勝也は席に座った。そして教科書とノートを机から出している。
○
俺は視線を定めることもできず、きょろきょろ辺りを見回していた。どうしても落ち着くことができなかった。
俺はポケットの中に手を入れた。そしてナイフの感触を確かめた。
本当なら、誰も見ていないところで殺してしまうところだろう。できればそうしたかった。
しかし何の準備もしていないのに今更、完全犯罪などできっこない。坂上をいつ、どこでどういう段取りで殺すかも決めていない。死体をどうするかも考えていない。こんな状況で八時五十七分までの間に、今が二時半ぐらいだからあと六時間半ほどの時間に、完全犯罪などできっこないような気がした。
俺が捕まったって別に構うことはない。それよりも仕留めそこなって小夜が死んでしまうことだけは避けなければならないのだ。
確実に仕留めるならば授業が終わった後に坂上のところへ行ってその頸動脈を切ってやるのがベストだ。
俺は落ち着かない気持ちのまま、授業を受け続けていた。
そして予鈴が鳴った。
○
予鈴が鳴った。俺は早速、勝也のもとへ向かった。
ちょうど勝也も立ち上がっていた。しかし心なしかその足元はおぼつかないように見えた。
「勝也」
声をかけると、勝也はびくりと体を震わせた。その驚き方は体が跳ね上がったかにも思えるほどだった。
「何だ」
「具合でも悪いのか?」
「治ったと言ったじゃないか」
「でもなんか元気がなさそうだ。なんかふらふらしているし」
「ちょっと気持ちが落ち着かないだけだ。たいしたことじゃない」
勝也は言った。
「勝也」
誰かが勝也の名前を呼んだ。
○
誰かに呼ばれた。誰だろうと思って振り返ると、坂上だった。
「小夜ちゃんのことなんだけど」
坂上がそういった時、殺意がわいた。しかし体はどうしても動いてくれなかった。俺はその時、何かを恐れていた。その何かはとてつもなく強大で、真っ黒な闇のようなものであった。俺がナイフを引き抜いた瞬間に、俺はその闇の中へ飛び込んでいくことになるのである。それがわかっていた俺はポケットに手を入れたまま、動けなかった。
「何だ?」
「いやさ、小夜ちゃんがどうして自殺したかとか知りたくて。ほら、兄弟だからこそわかることっていうのもあるだろうし。なんか心当たりとかねえかなって」
「はあ?」
「はあ、ってそんな言い方ねえだろ。なめてんの、お前?」
坂上が距離を詰めてきた。
今ならやれる。そう思った。
「お前の、せいだ」
しかし手を出さなかった。それとは真逆に、俺は挑発するようなことを言い始めていた。
「は?」
「自殺したのはお前のせいだ!なんでわからない。なんで小夜の痛みがわからなかったんだお前は。いいか、教えてやる。小夜はな、おまえにストーカーされて追い詰められたんだ、小夜はお前が嫌いだったんだよ。お前を恐れていたんだよ。それなのにいつまでも付きまといやがって、このストーカーが。お前のその利己的な愛が小夜を苦しめたんだ。小夜に相手にされたいということばかり考えているお前の愛なんぞ、この世の何よりも下劣で、くそったれなものだ。どうして小夜が死んだのかさえも気づけないぐらい曇ったその眼で、二度とおれの小夜を見るな。その濁り切った心で二度と人を愛するな。お前の愛は人を不幸にする。わかったか、この化け物め!」
坂上は目を見開いて勝也を見ていた。その顔は見る見るうちに顔が蒼白になっていった。
「ほかに何か言いたいことはあるか」
「ある」
俺は続けていった。
「二度と、おまえとは会うことがないだろう」
俺はポケットの中身を握り締めた。
○
坂上が勝也の頬に一発お見舞いしてからというもの、さんざんだった。勝也はめちゃくっちゃに殴られ蹴られ、死ぬのではないかというほどのけがを負った。
幸い、先生がすぐに駆けつけたのでけんかは止められた。しかしながら勝也は病院送りになった。
学校が終わってから、僕は病院へと駆けつけた。
勝也は妹の病室にいた。勝也の体中にガーゼが貼ってあった。
「勝也、大丈夫か?」
「平気だ」
「そうか」
俺は椅子を一つとってきて、勝也の隣に座った。
「小夜、今日死んじまうんだ」
勝也が言った。
「何言ってるんだ、勝也」
僕は思わず驚いてそういった。
「実際、具合がここに来て急に悪くなった。今日の八時五十七分に死ぬらしい」
「何を言ってるんだよ、本当に」
「声だ。神の声がそういった」
それから勝也はこれまでに起こったことを話し始めた。どれも到底本当とは信じられなかった。第一、そんなものは幻聴に決まっていた。しかし勝也はその声が実在するものと、本気で信じているようであった。
そのうち、勝也が坂上を殺すつもりだったという話になった。
「ほら、これがナイフだ」
勝也がポケットからナイフを取り出して見せた。
僕はそんなものが本当にポケットの中にあることに驚いた。今日、学校で勝也に話しかけていた時には、それがポケットの中に入っていたのだと思うとぞくりとした。
「どうして、殺さなかったんだ?」
これは何も、僕が勝也の話を信じたために発した問いではない。勝也がわざわざナイフまで取り出してくるほどに殺意を持っていたにもかかわらず、どうして思いとどまることができたのか、それが気になったのである。
「どうしてって、そりゃ俺にもよくわからないんだけど」
勝也は続けた。
「どうしても殺せなかったんだ。それがどうしようもなく、やっちゃいけないことだったような気がして。そう、やっちゃいけないことだった。確かに坂上はくそ野郎だった。でも、もし坂上を殺していたりしたら、坂上は死ぬべきではなかったはずなのに死んでしまっていたところだった。そうしたら俺みたいに悲しむ人間が出る。このまま俺が何もしなければ誰も悲しまずに済んだのにだ。そう思えば、あんな幻聴とも何ともわからないものに惑わされて殺人など犯さなくてよかった。それじゃまるで馬鹿みたいだからな」
勝也はこう締めくくった。
それ以降、僕らは互いに口を利くことなく、ベッドのそばにいた。
そのうち、八時五十七分が近づいてきた。
そのとき、急に勝也の妹の容態が悪化し始めた。勝也が先生や看護婦を呼んだ。
僕はそんなまさか、と思った。勝也の聞いたものは幻聴ではなかったか。
勝也の方を見ると、勝也も目を見開いて妹を見つめている。
先生がすぐに処置を施し始めた。
「小夜、小夜!駄目だ!」
勝也は小夜の手を握った。
しかしすぐに、先生が治療の手を止めた。そして瞳孔に光を当てたりしている。
「六月十日二十時五十七分三十二秒。ご臨終です」
僕は勝也を見た。勝也は妹を見つめたまま動かない。
そして改めて勝也の妹へと視線を戻す。その死に顔は死んでいるようにも、ただ眠っているようにも見えた。
僕はどうしても妹の死が信じられなかった。そして幻聴ではなかったのか、という問いを延々と頭の中で繰り返していた。
「勝也、早退じゃなかったのか?」
先生が尋ねた。
「具合がよくなったので戻ってきました」
「そうか、えらいなお前」
僕は勝也の顔を見て、なんとなく違和感を覚えた。それというのも、その顔がちっとも具合の良い人間のそれのようには見えなかったからであった。
早退のときは逆だった。早退する癖にやたらと体が動いていた。どう考えたって、ずる休みにしか見えなかった。
勝也は席に座った。そして教科書とノートを机から出している。
○
俺は視線を定めることもできず、きょろきょろ辺りを見回していた。どうしても落ち着くことができなかった。
俺はポケットの中に手を入れた。そしてナイフの感触を確かめた。
本当なら、誰も見ていないところで殺してしまうところだろう。できればそうしたかった。
しかし何の準備もしていないのに今更、完全犯罪などできっこない。坂上をいつ、どこでどういう段取りで殺すかも決めていない。死体をどうするかも考えていない。こんな状況で八時五十七分までの間に、今が二時半ぐらいだからあと六時間半ほどの時間に、完全犯罪などできっこないような気がした。
俺が捕まったって別に構うことはない。それよりも仕留めそこなって小夜が死んでしまうことだけは避けなければならないのだ。
確実に仕留めるならば授業が終わった後に坂上のところへ行ってその頸動脈を切ってやるのがベストだ。
俺は落ち着かない気持ちのまま、授業を受け続けていた。
そして予鈴が鳴った。
○
予鈴が鳴った。俺は早速、勝也のもとへ向かった。
ちょうど勝也も立ち上がっていた。しかし心なしかその足元はおぼつかないように見えた。
「勝也」
声をかけると、勝也はびくりと体を震わせた。その驚き方は体が跳ね上がったかにも思えるほどだった。
「何だ」
「具合でも悪いのか?」
「治ったと言ったじゃないか」
「でもなんか元気がなさそうだ。なんかふらふらしているし」
「ちょっと気持ちが落ち着かないだけだ。たいしたことじゃない」
勝也は言った。
「勝也」
誰かが勝也の名前を呼んだ。
○
誰かに呼ばれた。誰だろうと思って振り返ると、坂上だった。
「小夜ちゃんのことなんだけど」
坂上がそういった時、殺意がわいた。しかし体はどうしても動いてくれなかった。俺はその時、何かを恐れていた。その何かはとてつもなく強大で、真っ黒な闇のようなものであった。俺がナイフを引き抜いた瞬間に、俺はその闇の中へ飛び込んでいくことになるのである。それがわかっていた俺はポケットに手を入れたまま、動けなかった。
「何だ?」
「いやさ、小夜ちゃんがどうして自殺したかとか知りたくて。ほら、兄弟だからこそわかることっていうのもあるだろうし。なんか心当たりとかねえかなって」
「はあ?」
「はあ、ってそんな言い方ねえだろ。なめてんの、お前?」
坂上が距離を詰めてきた。
今ならやれる。そう思った。
「お前の、せいだ」
しかし手を出さなかった。それとは真逆に、俺は挑発するようなことを言い始めていた。
「は?」
「自殺したのはお前のせいだ!なんでわからない。なんで小夜の痛みがわからなかったんだお前は。いいか、教えてやる。小夜はな、おまえにストーカーされて追い詰められたんだ、小夜はお前が嫌いだったんだよ。お前を恐れていたんだよ。それなのにいつまでも付きまといやがって、このストーカーが。お前のその利己的な愛が小夜を苦しめたんだ。小夜に相手にされたいということばかり考えているお前の愛なんぞ、この世の何よりも下劣で、くそったれなものだ。どうして小夜が死んだのかさえも気づけないぐらい曇ったその眼で、二度とおれの小夜を見るな。その濁り切った心で二度と人を愛するな。お前の愛は人を不幸にする。わかったか、この化け物め!」
坂上は目を見開いて勝也を見ていた。その顔は見る見るうちに顔が蒼白になっていった。
「ほかに何か言いたいことはあるか」
「ある」
俺は続けていった。
「二度と、おまえとは会うことがないだろう」
俺はポケットの中身を握り締めた。
○
坂上が勝也の頬に一発お見舞いしてからというもの、さんざんだった。勝也はめちゃくっちゃに殴られ蹴られ、死ぬのではないかというほどのけがを負った。
幸い、先生がすぐに駆けつけたのでけんかは止められた。しかしながら勝也は病院送りになった。
学校が終わってから、僕は病院へと駆けつけた。
勝也は妹の病室にいた。勝也の体中にガーゼが貼ってあった。
「勝也、大丈夫か?」
「平気だ」
「そうか」
俺は椅子を一つとってきて、勝也の隣に座った。
「小夜、今日死んじまうんだ」
勝也が言った。
「何言ってるんだ、勝也」
僕は思わず驚いてそういった。
「実際、具合がここに来て急に悪くなった。今日の八時五十七分に死ぬらしい」
「何を言ってるんだよ、本当に」
「声だ。神の声がそういった」
それから勝也はこれまでに起こったことを話し始めた。どれも到底本当とは信じられなかった。第一、そんなものは幻聴に決まっていた。しかし勝也はその声が実在するものと、本気で信じているようであった。
そのうち、勝也が坂上を殺すつもりだったという話になった。
「ほら、これがナイフだ」
勝也がポケットからナイフを取り出して見せた。
僕はそんなものが本当にポケットの中にあることに驚いた。今日、学校で勝也に話しかけていた時には、それがポケットの中に入っていたのだと思うとぞくりとした。
「どうして、殺さなかったんだ?」
これは何も、僕が勝也の話を信じたために発した問いではない。勝也がわざわざナイフまで取り出してくるほどに殺意を持っていたにもかかわらず、どうして思いとどまることができたのか、それが気になったのである。
「どうしてって、そりゃ俺にもよくわからないんだけど」
勝也は続けた。
「どうしても殺せなかったんだ。それがどうしようもなく、やっちゃいけないことだったような気がして。そう、やっちゃいけないことだった。確かに坂上はくそ野郎だった。でも、もし坂上を殺していたりしたら、坂上は死ぬべきではなかったはずなのに死んでしまっていたところだった。そうしたら俺みたいに悲しむ人間が出る。このまま俺が何もしなければ誰も悲しまずに済んだのにだ。そう思えば、あんな幻聴とも何ともわからないものに惑わされて殺人など犯さなくてよかった。それじゃまるで馬鹿みたいだからな」
勝也はこう締めくくった。
それ以降、僕らは互いに口を利くことなく、ベッドのそばにいた。
そのうち、八時五十七分が近づいてきた。
そのとき、急に勝也の妹の容態が悪化し始めた。勝也が先生や看護婦を呼んだ。
僕はそんなまさか、と思った。勝也の聞いたものは幻聴ではなかったか。
勝也の方を見ると、勝也も目を見開いて妹を見つめている。
先生がすぐに処置を施し始めた。
「小夜、小夜!駄目だ!」
勝也は小夜の手を握った。
しかしすぐに、先生が治療の手を止めた。そして瞳孔に光を当てたりしている。
「六月十日二十時五十七分三十二秒。ご臨終です」
僕は勝也を見た。勝也は妹を見つめたまま動かない。
そして改めて勝也の妹へと視線を戻す。その死に顔は死んでいるようにも、ただ眠っているようにも見えた。
僕はどうしても妹の死が信じられなかった。そして幻聴ではなかったのか、という問いを延々と頭の中で繰り返していた。
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