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73.美緒の、とりあえず。

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ヒロトに会いに行き帰ってきたその夜から、美緒は自分の部屋を猛烈な勢いで大掃除し始めた。

専門学校の時代から、ずっと使っていたから、ホコリも汚れも無駄な物も、そしてたくさんの思い出も積もり積もったた部屋だ。冷蔵庫の中から食器棚やクローゼット、押入れ・・。徹底的にやると、かなりの時間がかかりそうだ。
翌日には、一旦近所のホームセンターに出かけて、手強い汚れを落とすために強力な洗剤や掃除用品を買い込んできた。台所やレンジ、壁、洗面所、お風呂。あちこちガシガシこすって汚れを落としていく。

無気力だった去年とは大違い。
あの頃はまだ、スイーツの店で働いていたから、年末ぎりぎりまで仕事だった。疲れ果てて掃除もせず、実家にも帰らず、結局何もせず、年が明けてからもすぐに仕事だった。

まだ、今すぐどうなるわけでもないのに、お掃除にやたら気合いが入る。
美緒の頭の隅に、“引っ越し”の単語がちらついていた。


「美緒の言うことなら、何でも聞くよ。」
ヒロトが発したその言葉を思い出すたびに,体中の力が抜けてしまいそうになる。
幸せに身をゆだねるような感じ。・・ヒロトとキスした時のような幸福感。


再会したなつかしさとか、私の泣き顔や、その時の勢いで、あれは、思わずそう言ったのだろう・・。
確かに、ヒロトは流される性格・・だとは思う。
でも、拒否するのが苦手だからといって、決して気が弱いのではないと思っている。
ホテルの仕事を辞めたのが何故なのかは知らないけど、ヒロトは困難なことがあっても一時しのぎで逃げるような人じゃない。
私と一緒に専門学校に通っていた時だって、地味で面倒な作業をするのも厭わなかったし、誰かがサボってしわ寄せが来ても文句も言わず「オレやるよ。」って恩も着せずにできる人だった。

カフェの仕事は、きつそうだったけど、楽しそうでもあった。
お父さんの借金にも、精神的にめげているような感じじゃなかった。
本当は、本当は、とても強い人なんだ。
ヒロトは、言ったことをちゃんと守れる。
少ない言葉の中には、あの人なりの覚悟や決心がある。


マキノさんの言った通り、あれはプロポーズと受け取ってもいいと思うのだ。


覚悟を決めなくちゃいけないのは、ヒロトよりも私の方。何でも聞くっていうのは、わたしの選択を尊重するって言う意味ととって間違いない。

ヒロトが背負うつもりでいる家族や仕事や境遇そのものを、受け入れられないと判断して、私が去って行ったとしても、ヒロトは追いかけては来ない。
私が離れることを選択したら、それを受け入れるんだろう。

じゃあ、私が、ヒロトと一緒に歩む・・と決めたら。
・・・マキノさんの言う「ヒロトはこれから大変だよ。」っていうのが、始まるんだ。

たとえば結婚だとか、子どもが欲しいとかそういう望みを言ったとしても・・NOとは決して言わず、かといって家族を見捨てられずに、いろんな苦労を自分がしょい込むだろう。

クリスマスイブの日に突然押しかけた私を、「寝ないでアパートまで送ってきて、次の日も仕事します。」って言ったみたいに。きっと「一生寝ないで働きたおします。」って言うんだろうな。

・・そこまで思い巡らしたところで掃除の手を止め、1人でクスッと笑いを漏らした。
私だって、できもしないことをヒロトに求めるつもりはないよ。

でももう、二度と一人ぼっちになるのは、・・あんな辛い思いは、いやだ。
ずっと、ずっと、ずっと、このさきずっと、ヒロトのそばにいたい。
どんな苦労も、あれよりはマシ。そう思ってしまう。


そういえば、ヒロトのお父さんの借金の詳細・・・聞いてないなぁ。
本当に途方もないのかな。
マキノさんは、親の借金は子どもに関係ないよって言ってた。
よく知らないけど、自己破産とかいろいろ手立てもあるんじゃないのかしら。
今度じっくり聞いて考えてみよう。
私にできることがあるなら、手伝おう。
おじさん・・仕事は見つかったのかなぁ。
ヒロトのお母さん、明るい人だったのに、どうしてるんだろう。おじいちゃんの介護してるって言ったっけ。

・・思えばヒロトって、ほんっとに状況は悲惨だなぁ。
そんな悲惨な状況なのに・・・、なんでだろう、何故か何とかなりそうな気がするのよね。



私の年内のノルマは、職場の忘年会と、友達との飲み会。
それにはちゃんと参加して、年末帰省ラッシュの始まる前に、実家に帰る。

今年は、“職場は変わったけど、元気に頑張ってるよ”と、父さんと母さんに知らせたかったし、家族との時間も大切にしたい思いがあったから。




「ただいまーっ!」
予定通り、帰省ラッシュが始まるまでに実家に帰ってこれた。
兄夫婦と、その子どもたちと、父母が同居する田舎の世帯だ。
子ども達は冬休みだし、押し迫って慌ただしい空気はあったが、全然お掃除は進んでいなかった。
家族の為に何かしたかったから、むしろやりがいがある。
大掃除を手伝って、お餅つきもして、お節料理も手伝って・・・。
元旦は、みんなでお祝いをした。
兄夫婦の子ども達にはお年玉を渡して、たっぷりと一緒に遊んだ・・。

これから自分がすることに、かけらも悔いを残すことがないように、すべてのことに丁寧に向き合うつもりだ。
私は、これまでと変わらない。家族の前でいい子でいようと思う。前向きに頑張っているんだと、家族に知っていてもらいたい。

そして、夜には自分の部屋へと戻るんだ。


「前の職場はやりがいがありそうだったけど、親としては辞めてくれてホッとしたよ。労働条件があまりにもきつそうだったから。」
以前の職場のことを、父さんからは、心配されていたようだった。
「美緒は、今年は早く帰って来たと思ったら、頑張ってお掃除してくれてとっても助かったわ。今年は早くもどっちゃう予定だったんだね。ゆっくりさせてやれなくて悪かったね。」
母さんは、少し残念そうだった。
「ううん。こっちこそごめん。明日、友達と約束があるから。」
本当は、トモダチではありません。私の大好きなヒロトが来ることになっているからです。

元旦の日の夜、わたしが自分の部屋に戻ってくる頃に、行くよって、ヒロトが言ったから。

・・母さんには、結婚したい人がいるって言ったら、びっくりするかなぁ。
彼がいるってことは、薄々感づいているかもしれないけど、いずれはちゃんと言うよ。
残念ながら今じゃないけど、もうすこし時間をかけて、何かを頑張って・・私の覚悟ができたら。
何かを頑張るって・・なんなんだろう。年末のお掃除も、その一つかな。

・・ヒロトの家族の借金のこと言ったら、反対されるのかな・・。何とかなると思うのは、楽観的過ぎるのだろうか。



家を出るとき、母さんから持たされたお土産をリュック型のバッグに入れると、肩がずっしり重かった。お餅が入ってるのだ。
「夏休みに、また帰ってくるよ。」
そう言って家族に手を振った。
電車に4時間揺られて自分の部屋へと帰る。

駅のそばのショッピングモールで買い物をする。元旦から食品の買い出しだ。
両手に買い物をした荷物を持って、てくてくと自分のアパートへと歩く。
朝の遅い時間に食べてから、そのまま何も食べてないから、おなかが減った。

荷物は重いけど足取りは軽い。小走りになる。むしろ走ってる。
ドキドキしているのは、走ったから?ヒロトに会えるから?
この間会ったばかりなのに。こんなに胸が躍る。

路地を曲がると、自分の部屋が見えた。電気がついてる!!ヒロトはもう来てる!
はぁはぁと息を切らせながらエレベーターは使わず2階の自分の部屋へと階段を上がった。
チャイムを鳴らす。
キンコーン
ドアが内側から開いた。

はにかんだような笑顔で、ヒロトが迎えてくれた。
くんくん。お出汁のいい匂いがする。
「はぁ・・はぁ・・はぁ・・おめでとう。」
「明けましておめでとう。お雑煮作ってたんだよ。」
「うん。」
両手の荷物を降ろして、リュックをおろして、狭い入り口でしゃがんでブーツを脱ぐのがもどかしい。
「ヒロトぉ!」
やっと脱げた。美緒は、全部放り出して、立ち上がった。

「き・・きっ・・・」
と何かを言いかけて、 ふっ・・とあたりが暗くなって・・ひざから力が抜けた。
「どうした!?」
ヒロトの声が一瞬遠くに感じた。

「ちょっと、美緒?!」
なんとか転ばずに済んだが。ヒロトが全面的に自分の体重を支えてくれていた。その手におたまがある。
「ふう・・。」
「びっくりするじゃないか・・・。」

「ぷぷっ・・・」
「何を笑ってるんだよ。」
「あははは・・・。急に立ち上がったら、たちくらみしちゃった。」
自分の必死さに、笑ってしまう。
「正月早々にぶっ倒れるなんて、シャレになんないよ?」
くっくっ、くっくっ。笑いが抑えきれない。
「・・・ヒロトが来てると思って、嬉しくて・・。おなかが減って、走って、一気に階段あがって・・。」

「・・はは・・また酔っぱらってるのかと思ったよ・・。」

「こんなに慌てなくても、もうヒロトは消えちゃわないのにね。・・ああ、おなかペコペコ。」
「オレも、頭の血が下がったよ・・。」

「ヒロト。とりあえず・・。」
「とりあえず何?」

「とりあえず、キス!」
「わかった。」
ヒロトが笑った。



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