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血、雨涸らし
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「だ、旦那。じ、地震」
「いや違うみてぇだぜ」
黒羽左衛門が目をやる方向、青白い光の中心部の床が割れ、今まさに何かが現れようとしている所だった。
ぽっかり開いた黒い孔から、赤く細長い、だが巨大な四つの肢が白い床の上に現れた。
続いて人の背丈ほどもある黒く丸い眼球が四つ、六つと並んで浮き上がって来た。
「ひぇぇ。あんなのがいるなんて聞いてないでやんすよ」
「簡単に帰らせてもらえるわきゃねえわな」
大孔からその半身を露わにした化け物は、巨大な蜘蛛のように見えた。
「旦那、あっしら、やっぱり騙されたんですよ」
新吉が黒羽左衛門の着物の袖をすがりつくように掴んだ。
長い階段を上る途中の曄は、足を止めて二人を見下ろした。
「人聞きが悪いねえ。ちゃあんと戸口のある所まで連れてきてやったじゃないか。でもこれはわっちの出口だ。あんたらはあんたらの出口を探しな」
そう言うと、また曄はとんとんと階段を上り、障子を開けて向こう側へ消えていった。
ウ マ ソ ウ ニ シ ア ガ ッ タ
口を開いたのは巨大な蜘蛛、阿琉那葡羅だ。
巨大な蜘蛛の顔の中央に、人に似た顔が浮かんでいる。
「ぎゃあ嗚呼」
新吉が悲鳴を上げると、阿琉那葡羅は楽しそうに笑った。
ソ ウ ダ モ ッ ト モ ッ ト キ ョ ウ フ シ ロ
阿琉那葡羅の前肢が新吉を捕らえようと伸びて来る。
ホ ン ト ウ ニ ウ マ ソ ウ ダ
「ひょえええ」
新吉は悲鳴を上げながらもがくが、足が糸に絡めとられていて動けなかった。
「新吉、逃げろ」
蜘蛛の前肢が届く寸前、黒羽左衛門の振るった松明が新吉の足元の糸を焼き払った。
すんでの所で跳び出して難を逃れる新吉。
大鎌のような巨大な前肢が空を切る。
だが二人がほっとしたのもつかの間、戻って来た前肢が今度は黒羽左衛門を襲った。
「くそッ」
黒羽左衛門は横に跳んで攻撃を避けた。が、手にしていた松明は肢に引っ掛かり、弾き飛ばされてしまった。
フ ン コ ッ チ ハ マ ズ ソ ウ ダ
床に転がった松明を別の肢で踏みつぶし、阿琉那葡羅はいよいよその巨体を孔から出そうとしていた。
退こうとする黒羽左衛門の前に、また、ふっと金色に光り輝く鴉が現れた。
鴉は黒羽左衛門について来いとばかりに宙で一回転すると、すいぃっと闇の方へ飛んでいく。
「悪いがしばらく時を稼いでくれ」
「どこへ行くんでやんすか旦那」
「すぐ戻る」
黒羽左衛門は袴をたくし上げて、烏の放つ金色の光を目指して走り出した。
「でも旦那、どうやって。ひやぁ嗚呼」
黒羽左衛門がちらりと後ろを振り返ると、新吉が転がりながら前肢の一撃を避ける所だった。
「その調子だ。いいから走れ。糸は踏むなよ」
黒羽左衛門が鴉が留まる辺りにやってくると、金色の光はふっと消えた。
と、黒羽左衛門の足先にこつんと当たる物がある。
見ればぼんやりと金色に輝く一振りの刀が転がっている。
――妖刀・雨涸らし、やはりおめぇか。
妖刀・雨涸らし――遣い手の精力を吸い取り、やがて死に至らしめるという、いわくつきの刀。黒羽左衛門は別の機会に手にしたことがある。
――なぜここに。
いかに切れ味が鋭くとも、生き血をすする妖刀。
その折、黒羽左衛門は谷底に投げ捨てたのだった。
今、ふたたび邂逅した妖刀・雨涸らしに手を伸ばし、触れる。それだけで気分が高揚していくのを黒羽左衛門は感じた。
手に取って検めると、以前に黒羽左衛門が巻いた濃口がそのままになっていた。
「おめぇが仕組んだんじゃねぇだろうな」
掌中で妖刀は、それを否定するようにぶるっと震えた。
いずれにせよ、今は真偽を確かめている事態ではなかった。
妖刀を腰に差して濃口を解き、柄に右手を置く黒羽左衛門。踵を返して走り始めた。
――待ってろよ。新吉。
黒羽左衛門が新吉の下へ取って返した時、ちょうど阿琉那葡羅の肢が新吉に向かって振り下ろされるところだった。
新吉の頭上に襲い来る肢。
その肢先を目掛けて黒羽左衛門が抜き打つ。
一閃。
妖刀・雨涸らしが切り裂いた阿琉那葡羅の肢先が、宙に飛んだ。
ウ ギ ュ ア ア ア ァ ァ
阿琉那葡羅が苦悶の声を上げた。
雨涸らしは人心を惑わす妖刀とは言え、同時に持ち手を魅了するだけの切れ味を持つ。黒羽左衛門は確かな手応えを感じていた。
――殺れる。
一方で、阿琉那葡羅の攻撃を避けそこなうと確信していた新吉は、その場で気を失っていた。
ぶるるっ
黒羽左衛門の手の内で雨涸らしが震える。
「なんだ、ぶるってんのか」
ぶるるるっ
今度の震えは明確に否定のように感じられた。
「俺は何と話してンだろうな」
黒羽左衛門は自嘲した。
にわかに、薄っすらと妖しい光を放っていた妖刀・雨涸らしが、その金色の輝きを増した。
黒羽左衛門を先導するように、雨涸らしが自分の意志で前方へと進んで行く。自然、黒羽左衛門の脚も前へと踏み出された。
「おいッ。負けず嫌いか」
黒羽左衛門の意志とは関係なく、近くにあった大きな紡錘状の塊を、雨涸らしが切り上げる。
切り上げると同時に、雨涸らしの刀身が炎に包まれるのを黒羽左衛門は見た。
人の背丈よりも大きな糸の塊は、炎を上げて燃え上がった。焼け焦げた臭いが黒羽左衛門の鼻を衝く。
ヤ メ ロ ヤ メ ロ ヤ メ ロ
すぐに阿琉那葡羅の前肢が黒羽左衛門目掛けて襲って来るが、それには構わず、雨涸らしは次の紡錘へと向かう。
「うぉおい」
雨涸らしに引っ張られながら、身をよじる黒羽左衛門。
間一髪で、巨大な蜘蛛の前肢が地面に突き刺さった。
「待てよ……そうか。あいつをやっちまうと帰れなくなるかもしれんな。やりたいことは分かったぜ。後は任せろぃ」
黒羽左衛門は、今度は自ら妖刀を振るった。
【八条炎糸】
地鳴りのするような唸りを上げて、妖刀・雨涸らしが紡錘を焼き払う。
と共に、先ほどとは比べ物にならない火柱が天まで舞い上がった。
天から地から四方八方へと炎が散る。
ウ ル ゥ ル ゥ ロ ロ ロ ロ ロ
燃え上がって行く棲家を目の当たりにして、阿琉那葡羅は右往左往し始めた。
炎の中、黒羽左衛門は曄が消えた場所を見上げた。
はたして、まだそこにあの障子はあった。
曄が開け放ったままの障子の向こうには、見慣れた我が家の天井が見える。
「しめた。新吉、ずらかるぞ」
言って、黒羽左衛門が目にしたのは、床に転がっている新吉だった。駆け寄って新吉の頬を叩くが起きない。だが息はある。
――畜生。また気をやってやがる。
なかば呆れながら新吉をひょいと抱え上げ、黒羽左衛門は障子への階段を駆け上がった。
黒羽左衛門と新吉の乗る階段が端から燃え落ちていく。
すんでの所で障子の中へ飛び込んだ黒羽左衛門は、そのまま畳の上へと倒れ込んだ。
障子がその背後ですうっと姿を消した。
「あなたー。早く起きてくださいよ」
律の声で黒羽左衛門は目を覚ました。
薄く目を開ければ、毎朝目にする天井の染みが見える。
鳥のさえずりが聞こえ、障子の隙間からは朝日が覗いていた。
――嫌な夢を見た。
起き上がろうとするが、体が重く、動かない。
なんだか息も苦しい。
「う、なんだ」
見れば、胸の上に誰かの脚が乗っかっていた。
脚の持ち主は中間姿の男――新吉だった。高鼾を掻いて寝ている。
「なんだ、新吉か。脅かしやがって。寝相の悪い野郎だな。いや、……こいつ、なんだってこんなところに」
新吉の脚をどかそうとして、黒羽左衛門は、自分の右手にしっかりと刀が握られていることに気づいた。
――妖刀・雨涸らし。
そこへ、パタパタと廊下を掛ける音が近づいて来た。
障子がさっと開かれ、黒羽左衛門の顔は今や陽光の中にあった。
まぶしい日差しに目を細める黒羽左衛門の前に、人影が仁王立ちになった。
「ああ、律か」
黒羽左衛門は手の内にあった妖刀を放り出した。
刀は土壁に当たってガシャンと派手な音を立てたが、夫に向き合う律は気にも留めなかった。
「律か、じゃありませんよ。ゆっくり朝寝とは良い御身分ですね。新吉も一緒になって何してるんですか」
律の剣幕に、黒羽左衛門は思わず上半身を跳ね上げ、居住まいを正した。
脇に転がされた新吉の鼾もピタリと止まり、今は静かな寝息に変わっている。
「昨日は帰って来たと思ったら。ぷいといなくなってしまって。どこへ行ったのかと思ったら、まあ、新吉と一緒にどこぞで飲んでいらしたんですね。それで朝帰りですか。
ご飯、早く召し上がってくださいよ。片付けられないんですからねッ」
「お、おう律、卵巻きはあるか」
我が家に戻った今、阿琉那葡羅の館で思い浮かべたあの味が恋しい。
「ありませんよッ。昨日のご飯をそのまま残してありますからね。もったいない」
言うだけ言うと、律は怒りに任せてピシャリと障子を閉めた。
黒羽左衛門はバツが悪そうに首筋を掻いた。
「なんでえ、あっちもこっちも変わらねえや」
馴れた臭いのする畳の上へまたごろりと横になり、手足を思い切り伸ばして大の字になった。
新吉の脚をどかしてもなお体が重いのは、昨晩の疲れのせいだろう。
「もうひと寝入りするか」
そんな夫婦のやり取りを縁側からじっと眺めていた猫がいた。
その煤けた三毛猫は、にゃあん、とひと鳴きすると、伸びをした。それから、つまらなそうにどこかへ行ってしまった。
了
「いや違うみてぇだぜ」
黒羽左衛門が目をやる方向、青白い光の中心部の床が割れ、今まさに何かが現れようとしている所だった。
ぽっかり開いた黒い孔から、赤く細長い、だが巨大な四つの肢が白い床の上に現れた。
続いて人の背丈ほどもある黒く丸い眼球が四つ、六つと並んで浮き上がって来た。
「ひぇぇ。あんなのがいるなんて聞いてないでやんすよ」
「簡単に帰らせてもらえるわきゃねえわな」
大孔からその半身を露わにした化け物は、巨大な蜘蛛のように見えた。
「旦那、あっしら、やっぱり騙されたんですよ」
新吉が黒羽左衛門の着物の袖をすがりつくように掴んだ。
長い階段を上る途中の曄は、足を止めて二人を見下ろした。
「人聞きが悪いねえ。ちゃあんと戸口のある所まで連れてきてやったじゃないか。でもこれはわっちの出口だ。あんたらはあんたらの出口を探しな」
そう言うと、また曄はとんとんと階段を上り、障子を開けて向こう側へ消えていった。
ウ マ ソ ウ ニ シ ア ガ ッ タ
口を開いたのは巨大な蜘蛛、阿琉那葡羅だ。
巨大な蜘蛛の顔の中央に、人に似た顔が浮かんでいる。
「ぎゃあ嗚呼」
新吉が悲鳴を上げると、阿琉那葡羅は楽しそうに笑った。
ソ ウ ダ モ ッ ト モ ッ ト キ ョ ウ フ シ ロ
阿琉那葡羅の前肢が新吉を捕らえようと伸びて来る。
ホ ン ト ウ ニ ウ マ ソ ウ ダ
「ひょえええ」
新吉は悲鳴を上げながらもがくが、足が糸に絡めとられていて動けなかった。
「新吉、逃げろ」
蜘蛛の前肢が届く寸前、黒羽左衛門の振るった松明が新吉の足元の糸を焼き払った。
すんでの所で跳び出して難を逃れる新吉。
大鎌のような巨大な前肢が空を切る。
だが二人がほっとしたのもつかの間、戻って来た前肢が今度は黒羽左衛門を襲った。
「くそッ」
黒羽左衛門は横に跳んで攻撃を避けた。が、手にしていた松明は肢に引っ掛かり、弾き飛ばされてしまった。
フ ン コ ッ チ ハ マ ズ ソ ウ ダ
床に転がった松明を別の肢で踏みつぶし、阿琉那葡羅はいよいよその巨体を孔から出そうとしていた。
退こうとする黒羽左衛門の前に、また、ふっと金色に光り輝く鴉が現れた。
鴉は黒羽左衛門について来いとばかりに宙で一回転すると、すいぃっと闇の方へ飛んでいく。
「悪いがしばらく時を稼いでくれ」
「どこへ行くんでやんすか旦那」
「すぐ戻る」
黒羽左衛門は袴をたくし上げて、烏の放つ金色の光を目指して走り出した。
「でも旦那、どうやって。ひやぁ嗚呼」
黒羽左衛門がちらりと後ろを振り返ると、新吉が転がりながら前肢の一撃を避ける所だった。
「その調子だ。いいから走れ。糸は踏むなよ」
黒羽左衛門が鴉が留まる辺りにやってくると、金色の光はふっと消えた。
と、黒羽左衛門の足先にこつんと当たる物がある。
見ればぼんやりと金色に輝く一振りの刀が転がっている。
――妖刀・雨涸らし、やはりおめぇか。
妖刀・雨涸らし――遣い手の精力を吸い取り、やがて死に至らしめるという、いわくつきの刀。黒羽左衛門は別の機会に手にしたことがある。
――なぜここに。
いかに切れ味が鋭くとも、生き血をすする妖刀。
その折、黒羽左衛門は谷底に投げ捨てたのだった。
今、ふたたび邂逅した妖刀・雨涸らしに手を伸ばし、触れる。それだけで気分が高揚していくのを黒羽左衛門は感じた。
手に取って検めると、以前に黒羽左衛門が巻いた濃口がそのままになっていた。
「おめぇが仕組んだんじゃねぇだろうな」
掌中で妖刀は、それを否定するようにぶるっと震えた。
いずれにせよ、今は真偽を確かめている事態ではなかった。
妖刀を腰に差して濃口を解き、柄に右手を置く黒羽左衛門。踵を返して走り始めた。
――待ってろよ。新吉。
黒羽左衛門が新吉の下へ取って返した時、ちょうど阿琉那葡羅の肢が新吉に向かって振り下ろされるところだった。
新吉の頭上に襲い来る肢。
その肢先を目掛けて黒羽左衛門が抜き打つ。
一閃。
妖刀・雨涸らしが切り裂いた阿琉那葡羅の肢先が、宙に飛んだ。
ウ ギ ュ ア ア ア ァ ァ
阿琉那葡羅が苦悶の声を上げた。
雨涸らしは人心を惑わす妖刀とは言え、同時に持ち手を魅了するだけの切れ味を持つ。黒羽左衛門は確かな手応えを感じていた。
――殺れる。
一方で、阿琉那葡羅の攻撃を避けそこなうと確信していた新吉は、その場で気を失っていた。
ぶるるっ
黒羽左衛門の手の内で雨涸らしが震える。
「なんだ、ぶるってんのか」
ぶるるるっ
今度の震えは明確に否定のように感じられた。
「俺は何と話してンだろうな」
黒羽左衛門は自嘲した。
にわかに、薄っすらと妖しい光を放っていた妖刀・雨涸らしが、その金色の輝きを増した。
黒羽左衛門を先導するように、雨涸らしが自分の意志で前方へと進んで行く。自然、黒羽左衛門の脚も前へと踏み出された。
「おいッ。負けず嫌いか」
黒羽左衛門の意志とは関係なく、近くにあった大きな紡錘状の塊を、雨涸らしが切り上げる。
切り上げると同時に、雨涸らしの刀身が炎に包まれるのを黒羽左衛門は見た。
人の背丈よりも大きな糸の塊は、炎を上げて燃え上がった。焼け焦げた臭いが黒羽左衛門の鼻を衝く。
ヤ メ ロ ヤ メ ロ ヤ メ ロ
すぐに阿琉那葡羅の前肢が黒羽左衛門目掛けて襲って来るが、それには構わず、雨涸らしは次の紡錘へと向かう。
「うぉおい」
雨涸らしに引っ張られながら、身をよじる黒羽左衛門。
間一髪で、巨大な蜘蛛の前肢が地面に突き刺さった。
「待てよ……そうか。あいつをやっちまうと帰れなくなるかもしれんな。やりたいことは分かったぜ。後は任せろぃ」
黒羽左衛門は、今度は自ら妖刀を振るった。
【八条炎糸】
地鳴りのするような唸りを上げて、妖刀・雨涸らしが紡錘を焼き払う。
と共に、先ほどとは比べ物にならない火柱が天まで舞い上がった。
天から地から四方八方へと炎が散る。
ウ ル ゥ ル ゥ ロ ロ ロ ロ ロ
燃え上がって行く棲家を目の当たりにして、阿琉那葡羅は右往左往し始めた。
炎の中、黒羽左衛門は曄が消えた場所を見上げた。
はたして、まだそこにあの障子はあった。
曄が開け放ったままの障子の向こうには、見慣れた我が家の天井が見える。
「しめた。新吉、ずらかるぞ」
言って、黒羽左衛門が目にしたのは、床に転がっている新吉だった。駆け寄って新吉の頬を叩くが起きない。だが息はある。
――畜生。また気をやってやがる。
なかば呆れながら新吉をひょいと抱え上げ、黒羽左衛門は障子への階段を駆け上がった。
黒羽左衛門と新吉の乗る階段が端から燃え落ちていく。
すんでの所で障子の中へ飛び込んだ黒羽左衛門は、そのまま畳の上へと倒れ込んだ。
障子がその背後ですうっと姿を消した。
「あなたー。早く起きてくださいよ」
律の声で黒羽左衛門は目を覚ました。
薄く目を開ければ、毎朝目にする天井の染みが見える。
鳥のさえずりが聞こえ、障子の隙間からは朝日が覗いていた。
――嫌な夢を見た。
起き上がろうとするが、体が重く、動かない。
なんだか息も苦しい。
「う、なんだ」
見れば、胸の上に誰かの脚が乗っかっていた。
脚の持ち主は中間姿の男――新吉だった。高鼾を掻いて寝ている。
「なんだ、新吉か。脅かしやがって。寝相の悪い野郎だな。いや、……こいつ、なんだってこんなところに」
新吉の脚をどかそうとして、黒羽左衛門は、自分の右手にしっかりと刀が握られていることに気づいた。
――妖刀・雨涸らし。
そこへ、パタパタと廊下を掛ける音が近づいて来た。
障子がさっと開かれ、黒羽左衛門の顔は今や陽光の中にあった。
まぶしい日差しに目を細める黒羽左衛門の前に、人影が仁王立ちになった。
「ああ、律か」
黒羽左衛門は手の内にあった妖刀を放り出した。
刀は土壁に当たってガシャンと派手な音を立てたが、夫に向き合う律は気にも留めなかった。
「律か、じゃありませんよ。ゆっくり朝寝とは良い御身分ですね。新吉も一緒になって何してるんですか」
律の剣幕に、黒羽左衛門は思わず上半身を跳ね上げ、居住まいを正した。
脇に転がされた新吉の鼾もピタリと止まり、今は静かな寝息に変わっている。
「昨日は帰って来たと思ったら。ぷいといなくなってしまって。どこへ行ったのかと思ったら、まあ、新吉と一緒にどこぞで飲んでいらしたんですね。それで朝帰りですか。
ご飯、早く召し上がってくださいよ。片付けられないんですからねッ」
「お、おう律、卵巻きはあるか」
我が家に戻った今、阿琉那葡羅の館で思い浮かべたあの味が恋しい。
「ありませんよッ。昨日のご飯をそのまま残してありますからね。もったいない」
言うだけ言うと、律は怒りに任せてピシャリと障子を閉めた。
黒羽左衛門はバツが悪そうに首筋を掻いた。
「なんでえ、あっちもこっちも変わらねえや」
馴れた臭いのする畳の上へまたごろりと横になり、手足を思い切り伸ばして大の字になった。
新吉の脚をどかしてもなお体が重いのは、昨晩の疲れのせいだろう。
「もうひと寝入りするか」
そんな夫婦のやり取りを縁側からじっと眺めていた猫がいた。
その煤けた三毛猫は、にゃあん、とひと鳴きすると、伸びをした。それから、つまらなそうにどこかへ行ってしまった。
了
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