人情落語家いろは節

朝賀 悠月

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花より団子 上

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 それから私は、朝から晩までいつでも弥平の側にいた。
 友人として遊び歩いたり、時には個人稽古に付き合って、生み出された新作を誰よりも早く聴かせてもらった。
 秋には紅葉を目で愉しみ、冬には部屋に籠って貸本屋から借りた書物を読みふける。春には山に登って桜を眺め、夏には隅田川に足を運んで花火を見た。二人で。

 真面目で口煩くちうるさい長兄と自由を謳歌する次兄。そんな二人に負い目と肩身の狭さを感じながら生きて来た。三男坊は生きづらい。褒められないし、期待もされない。ただそこにいて飯を食い、時に学問、時に道場、しかし長い一日をただ、ふらふらと過ごす。これといった趣味もなかった私は、もうこのまま退屈な人生を送って生涯を終えるのだろうとすら思っていた。
 こんなことなら私はまだ、子供のままでいたかったと、元服を迎えた日から何度も思っていた。

 そんな私を変えてくれたのが、鈴乃屋小蔵との出会いだった。
 あの男は、私を噺の中へ惹き込んだ。言葉巧みに、声の音色を変えながら、そこに生きる人々と情景を見せてくれた。人の生きざまはそれぞれであることを、教えられたようだった。

 弥平と共に過ごす毎日は、とにかく楽しかった。
 日々の出来事が盛り沢山で、語り尽くせぬほど可笑しかった。
 いつも、二人で笑っていたと思う。

 そう云えば、この頃だったかもしれない。

「お前は、少し見ないうちに明るくなったな」

 と、家族揃って朝餉を食している時、唐突に父上が私を褒めたのだ。
 あの父が。私にはまるで関心の無かった父上が私を。
 それが弥平のおかげでしかない事は、自身で一番良く解っていた。だからこそ、私は素直に嬉しかったのだ。その時は。



 弥平と共に過ごすようになって十七の歳、ついに弥平は元服を迎えた。
 今でも鮮明に思い出せる。待ち合わせた浅草寺の境内に、前髪を剃り落され、月代さかやきの頭になって少し上等な着物をさも着せられたかのようにぎこちなく現れた時の、弥平の顔を。
 恥ずかしそうに額をおさえながら、何時いつも以上に背中を丸めて私の前に現れた、あの自信なさげで照れくさそうに口を尖らせる、可愛らしく愛おしいさまを。

「ちょっと触らせて」
「あっこら、やめろ!」

 手首を掴んで手を退かせ、剃りたてのツルンとしたところを撫でた。昨日さくじつまでここにあった前髪が、もうすでに懐かしい。
 月代を撫でて頬を緩ませながら小さく笑う私を、弥平はジト目で見下ろしていた。頬から耳まで、真っ赤に染めながら。

「おいもういいだろ」
「はい、満足です」

 自ら手を払わなかった辺り、弥平も大概、満更でもなかったのかもしれない。

「しかし弥平も、ついに元服かぁ」
「あぁ……っクソ、まだ慣れねぇ。額がスースーする」
「あはは! 当たり前でしょう。あなた剃ったばかりなんだから」

 私は呑気に笑っていた。弥平の思いも、事情も、何も知らぬまま。

「これからはもう、好き勝手出来ねぇんだよな……」

 隣り合って歩くこの男が、神妙な面持ちで呟いた声も、その意味さえも考えぬまま。

「あ、そうだ。元服祝いに私が何か一つ買ってあげよう。何がいい?」
「いや、いいよ」
「遠慮せずに~。今日は私、小遣いが沢山手元にあるから」

 気付かなかったのだ。境内に建ち並ぶ屋台に夢中で、弥平が眉間に皺を寄せたことにも。

「……じゃあ扇子。あと飯屋でたらふく馳走してくれりゃそれでいいよ」
「はい、畏まりましたー」

 浮かれていた。私は、愚かだったのだ。
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