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なつき

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第一章

始まりの雨

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この街は田舎ではない。
少なくとも、私の故郷よりは。
コンビニ、大型スーパー、飲食店。
それらが全て、自転車で行ける範囲内にある。
バス停も駅も、そう遠くはない。
何より、道が全て舗装されている。
坂の多さを除けば、概ね暮らしやすい街だと私は思う。
惜しむらくは、自然が少ない事。
ここにはない。
私が19年間慣れ親しんだ土と草の匂いが。
あるのは排気ガスと生活の匂いだけ。
けれど、雨が降れば違う。
普段はしない水と土の匂いがする。
故郷と同じ匂い。
それは、喜びと悲しみを同時に呼び起こす。
もう戻れない場所への懐かしさと、逃げ出せた事への安堵。
雨が降る度、私は郷愁の思いに駆られ、同時に苦痛を思い出す。
もう戻れない。
戻るつもりもない。
あそこに私の居場所はないのだから。
そんな感傷的な気分に耽りながら、樹木の傍らで霧雨を受けていた時だった。

「あの、技術開発部の樹本きもとさんですよね?」

声をかけてきたのは、見知らぬ男だった。

「は?そ、そうですけど」

戸惑いを隠せずに男を見る。
ジャージにTシャツという、至ってラフな格好をしている。
多分、私と同じく今日の催し、会社の寮生によるミニバレー大会の参加者なのだろう。
ガッシリとした体つきに、男らしいキリリとした顔立ち。
凛々しい眉はきちんと整えられ、その口許は柔らかな微笑を浮かべている。
なんと言うか、私みたいな田舎者とは程遠い気品みたいなものを感じる。

「失礼。毎朝凄い勢いで走っていくのを見てたもので」

それを聞いた途端、カーッと顔が熱くなった。
比喩ではなく、本当に顔から火が出そうだ。
朝が苦手な私は、毎朝全速力で自転車を走らせ、職場へ向かっている。
彼は、その時の私、必死で自転車を漕ぐ様を見ていたと言っているのだ。
まさか、あれを見られていたとは思わなかった。

「嫌だなぁ。あんなとこ見られてたなんて恥ずかしい」

「あはは。まあ、渋滞してる車から見たら、貴方の自転車の方がよっぽど速いですから」

堪えきれないといった様子で漏らされた笑い声に、ますます顔が熱くなる。
そんな私を見かねたのか、彼はコホンと咳払いすると、元の柔らかな微笑を浮かべた。

「紹介が遅くなりました。私は笹宮 一ささみや はじめ。貴方とは同郷ですよ。よろしく」

同郷?
てことはつまり、この人は何も特別な人じゃない。
私と同じ、田舎の出身。
そう認識出来た途端、恥ずかしさが吹っ飛び、思いきり声を出して笑ってしまった。

「なぁんだ。あんたもあそこの出身なわけ?かしこまった言葉使いしてるから何処の人かと思ったけど」

彼の肩をバンバン叩きながら大笑いする。
半分は照れ隠しだ。
自分の醜態を同郷の彼へ知られていた事への。

「悪かったな。こっちじゃああやってんのが普通なんだよ」

ムッとしながら口調を崩した彼を前に、私はくっくっと笑いをこらえながら言った。

「ごめんごめん。笑い過ぎたわ」

手を差し出す。

「でも、これでおあいこだね。あらためて、よろしく」

差し出した手が、大きな手に握り返される。

「おう。よろしく」

ニカッと浮かべられた笑みがやけに爽やかで、思わず心臓が跳ねる。

「あのさ、あたし、雨の日に会ったやつとは長い付き合いになんの。だからきっと、あんたともそうね」

出鱈目だ。
照れ隠しに、ぱっと思い付いて口にしただけの。

「そうか。まあ、同郷だしな。仲良くやろうぜ」

霧雨が降る梅雨のとある日。
私と彼の関係は、こうして始まったのだった。
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