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第二章 鶉のアントレ Les cailles rôties
1.
しおりを挟むどうやって自分の屋根裏部屋まで戻って来たのか、記憶は曖昧だった。心の中は高揚感や困惑や、猜疑心で混沌としていた。
彼は、どうして、あんなことを、僕にしたんだろう。
僕は、白熱灯の下で、鏡台の鏡面を覗きこむ自分の顔を発見した。おおよそ美しいとは言えない顔立ちを。眼は大きすぎるし、鼻は短すぎるし、口脣は厚すぎる。特に眼尻の下がった眠そうな上まぶた。どこか一つでも、ちょっとはシュッとしてたらいいのに。例えば、田坂佳思みたいに。
でも彼は、中国服の衿のピジャマがとても似合うと言ってくれた。社交辞令だとしても。
いつまで鏡を眺めていても仕方がないので、寝台に入ったが、操り人形になったみたいに、まるで自分の意思とは無関係に躰が動いている感じがする。
横になっても頭が冴えて、正確には混乱は鎮まらなくて、眠くなるどころじゃなかった。寝返りをうつと、不意にバニラとサンダルウッドの深い匂い——おそらくFLORISのオードトワレ『SANTAL』——が柔らかく立ちこめた。
ナオキ先生と対面させようと、彼が後ろから寄り添ったときに、うつったとしか考えられない。普段の彼がトワレをつけているなんて気がつかなかったから、不思議な感じがする。
SANTALの東洋的な官能性は抑えられ、もっと優しくて、懐かしくて、うっとりする穏やかな香りに変質していた。
彼の手が僕の肩を掴んだときの、指先に込められた力。ふれあったときの感触を、口脣が思い出す。
眼を閉じて、あの場面を甦らせる。
それにしても、どんなつもりで、僕にあんなことをしたんだろう。
子爵ヴァルモンになって、恋愛ごっこを仕掛けるつもりなのか。相手役に選ばれたからには、コミックスのセシルみたいに、彼をかわして、追わせる演技を求められているのか。
それとも、まさか、誠実な恋人である騎士ダンスニーのつもりなのか。
ナオキ先生は参謀の役まわりか。
疑いがふくらみ、彼らを警戒してしまわなくもない。
他の要素も、僕をもやもやとさせる要因となった。それは、彼に執着するのは、要するにその経歴や容姿(美しい顔のつくりと身長の高さ)に惹かれているだけで、似たような条件の人物なら、交換可能なんじゃないかと、自分でも自信が持てないのだ。
だけど、彼みたいなひとが、彼以外に存在するはずがない。
次に対面したら、どんな表情をすればいいのか分からない。決まりが悪くて、しばらくは会いたくない。そのくせ、今すぐ会いたい。
すぐにでも傍へ駆けつけたい。
結局のところ、彼の口づけは僕を得意げにして、幸福で満たし、満たしながらも、そのローズ色の中に悪意めいた黒色のインクが一滴垂らされるのもまた、否めなかった。
ぐるぐると葛藤した末に、明け方になって、小鳥のさえずりを耳にしながら、ようやくうつらうつらしはじめた。カーテン越しに、朝の光が部屋を侵食しつつあった。夢うつつに、扉を叩く音を聞いた気がした。
頭を持ち上げて、薄眼でそちらを見るともなしに見ると、扉の下の隙間から、白っぽい封筒のような手紙のような紙切れが差し込まれた。
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