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第三章 海辺の光線 Boire la mer
1.
しおりを挟む九月になったからといって、一日で暑さが和らぐはずもなく、午前中から外出をためらわせるほどの気温だった。
それでも、花の実家に留まるのはいたたまれなくて、僕はスクーターで出かけた。行き先はもちろん、花が「プチブルの魔窟」と呼んだ、田坂さんが宿泊しているはずの海辺のリゾートホテルだ。
田坂さんが、人差し指で僕だけに投げてくれたキスは、見切れることも、手ブレすることもなく、きれいに撮影できていた。昨夜は、どれほど見返したか分からない。それだけじゃなく、携帯電話で検索して収集した、彼の画像や動画を眺め、出会ってから今までの、記憶に刻まれた彼の姿を頭の中で再生し、そうして、やっぱり、彼から送られたキスの映像に戻って、独りで口脣に微笑を湛えた。
それで、(やっと!)発見したのだが、彼の切長の眼が印象的なのは、黒眼が大きくて——コンタクトなしで自然に——表情豊かに動くからだった。面差しではさほど感情をあらわさないのに、黒眼はひどく饒舌なのだ。
兎に角、今年の夏は暑すぎる。
夏休みの終わった平日なのに、観光客も自動車も多く、信号待ちでは皮膚を陽光に炙られ、イライラする。苛立ったところで、距離は縮まらないのに。
国道を南下して、海沿いの道路に突き当たったとたん、広がるマリン・ブルーと眩い空に眼がくらみ、頭が痛んだ。
海水浴場を右に展望しながら、緩やかに湾曲した道を走ると、じきにホテルの建物が見えてきた。すでに、お腹が締めつけられる感じがする。
汗がひどいので、近くのカフェにスクーターを停めて、カウンター席で、レモングラスの冷たいハーブティーを飲む。友達たちに、長期休暇をどのように過ごしているか、ご機嫌うかがいのメッセージを送信する。
花は、ナオキ先生と連絡を取り合っているみたいだ。撮影や邸の様子を描いたエッセイ漫画が、映画の公開に合わせて雑誌に掲載されると、留守番電話に残されていた。
汗に濡れた髪とシャツの背中は、少しは乾いたと思う。汗染みが目立たないよう、白——一応、COMME des GARÇONS——のシャツを選んだ。田坂さんの滞在するホテルはすぐそこにある。
トイレを借りて、鏡で身だしなみを整える。いつもながら、不安げな明瞭しない表情。寝不足のひどい顔色。厭になる。
時刻は九時四〇分。ぐずぐずしていたら、チェックアウトの時間に間に合わない。
もし、会えなかったらどうしよう(当然のことだ)。
もし、会えたらどうしよう(うんざりされて、嫌われたら?)。
結論から言うと、僕は彼に会うことはできなかった。ばったり遭遇するなんて、夢を見すぎだ。海を眺望するガラス張りのロビーを、用がある素振りをしながらうろつき、ソファに腰かけて、人待ち顔で腕時計を気にしたり、真新しい洗練された建物の周囲も捜索してみたけれど、彼の姿はなかった。
彼が戻ってくるまで、何をして時間を経たせればいいのか。僕は途方に暮れて、場違いなリゾートホテルの玄関口で、呆然と立ちつくした。
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