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第三章 海辺の光線 Boire la mer
5.
しおりを挟む僕は再び、意外なほど大きな喜びを持って、田坂佳思を見い出したのだった。
たった一日会えなかっただけなのに、駆け寄ってハグしたい気持が込みあげてくるのを、けんめいに抑えなければいけないほどだった。
田坂さんは腕を組み、首をやや傾げたり、うなずいたり、なにか熱心に喋ったりしている。それだけで、とても様になっている。話をする相手の方に顔を向けるたび、黒眼も同じ向きに美しく流れているはずだ(ここからは、まだ確認できないけれど)。
彼の隣に並ぶと、同年代か少し上のスーツを着た男のひとたちが——暑いのにご苦労様——、いかにもずんぐりと野暮ったく見えるのだった。
監督が居ないので、出版関係の担当者だろうか。
着信があったようで、田坂さんはポケットから携帯電話を取り出し、スピーカーモードに切り替えて会話を続けている。玄関の扉から、スクリプト・ガールが書類を持って現れた。彼女に記入を求められると、田坂さんは正面に立つ男性の上着の内ポケットを探って万年筆を取り、歯で噛んでキャップを開け、何箇所か筆記した。
書き終わるなり、万年筆は素早く持ち主に奪い返された。
僕に気がつくと、田坂さんは少し眼を見開き——いつもの、好奇心に輝く眸で——、「後でちょっと、いい?」と低声で尋ねた。僕は小さくうなずく。彼は瞬間、右眼だけでまばたきし、僕は幸福感と照れくささで吹き出しそうになる。いささか不自然に近寄って彼のそばを通り抜け、晴れやかな気分で正面玄関の扉から邸に入った。
『どんな用事だろう』とか『後って、何分後だろう』と、忙しく考えながら。そうして、花の言葉を借りるなら、「日常生活でウインクするひと、ほんとにいるんだって驚いた」。
僕より先に出かけた花が、まだ邸に来ていないなら、もしかしたら彼女がナオキ先生にせがんだ、映画の宣伝番組のCDの可能性もある。
いずれにせよ、彼は僕が屋根裏の部屋を使っているのは知っているのだから、そこで彼が来るのを待つことにしよう。
だから、先ずは、昼食の準備をして、階上へ行くことにした。もしも、ケータリングの支度のされている応接室だとか、台所——アイスクリームや、かき氷を求めるひとは多いのだ——なんかで遭遇してしまったら、二人きりになれないから。
台所の大きな卓子には、応接室に運ばれるのを待つお惣菜が何皿も並んでいた。
林檎を混ぜたキャロット・ラペも、スモーク・サーモンと柘榴のマリナードも惹かれたけれど、部屋が暑いので、火の通ったオムレットとキッシュを蓋つきの陶器の容器に取り分ける。
それから、パントリーで、缶詰の燻製豚と、瓶詰のホワイトアスパラガスと、同じく瓶詰のスモーク・サーモンとオリーブのパテ、好物のカマンベールと蜂蜜、あとペリエにクロワッサンに——サンドイッチを作るのもいい——無花果と葡萄も少し。
小皿やカトラリーと一緒に籠に詰めた。
欲張ったので、重くなってしまったが、田坂さんと二人でピクニック(屋内で!)の約束をしているような気分だった。
パントリーを出ようとする時、扉のない出入口の方から、声をかけられた。
「葉くん、ちょうどいい処にいてくれた!」
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