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第五章 スイミング・プール・サイド Swimming Pool

15.

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 彼はフランス窓を開けた。僕は彼の後ろについてバルコニーへ足を踏み出し、薄闇の中で、生暖かな空気の層につつまれるのを感じた。草いきれの青くさいにおいが夏の終わりを彷彿させ、ノスタルジックな気分が胸に迫った。不意に涙が込みあげてくる。

 バルコニーは温室さながら、運びこまれた熱帯植物が密集していた。花盛りのブーゲンビリアやハイビスカス、モンステラ、バナナの木はほとんど空を覆いつくすほどだった。スティールパンの響きが、プールサイドから耳に届いた。潮騒さえ、かすかに聴こえる気がした。
 僕は、彼の背中のあたりに視線をさまよわせ、ほっそりした上腕やジレの尾錠などを眼で追っていた。そして、彼が向きなおり、僕を抱きしめてキスしてくれたらいいのに、と漠然と考えていた。

「植木をかき分ければ、眺望がいいんだよ」と、高く伸びたテーブルヤシの葉を押さえながら田坂さんが言った、前を向いたまま。

「手を切らないように注意して」と僕は控えめに言った。
 僕は空想した。剃刀ラゾワールのようなテーブルヤシの葉の切れ味を、傷ついた彼の手のひらを、そして、僕が彼の手をとり、傷口に脣をし当てて、舌先で血液を舐めとる場面を……。

 自分自身が、彼を必要としているのを、僕は明瞭はっきりと認めなければならなかった。それが欠落を埋めるためなのか、過剰な欲求なのかは解らない。
 僕は分析を放棄した。兎に角、猶予はないのだ、一刻も、その時点で既に、残された時間はわずかだったのだから。
 僕は恋愛が苦手だ。好ましい振舞いもできず、うんざりされて愛想をつかされるのが怖かった——僕に好意を持ってくれているならなおさら——。しかし、すぐそこにいる彼に、離れたくないと想いを伝えなくては、取り返しがつかなくなってしまう。

 どうにもならない感傷に突き動かされ、僕は手を伸ばし、彼の肘をつかんだ。正確には、彼のホワイトシャツの袖を、指先でつまんだだけだったが。

「なに? どうしたの?」到頭、彼は振り返った。その口調の優しさが、よけいに僕を涙ぐませた。

明日あしたは」と僕は声をつまらせて言った。「二人きりで——」

 田坂さんは身をかがめて、僕の眼を覗き込むように見据えた。

「泣かなくていいよ。二人きりで、他のひとは誘わないから」

 泣いてはいない、と言いたかったけれど、返事もできず、僕は首を横にふった、涙がこぼれそうで、まばたきもできないで。

 彼は睫毛を伏せた。僕の喉元を見ているようだった。それから、眼をあげた。

「このネクタイ」と彼は、独り言みたいにつぶやいた。「僕の眼の色も染めて、緑の眼の怪物にしてしまう *」

 数瞬間、僕らは無言で凝視みつめあっていた。

「……緑色なんて、Harrodsの、クマみたいかな」やっと僕は言った、冗談にしなければ恥ずかしくて、耐えられなかったから。

 田坂さんは、それには直接は応えなかった。

「妬かずにいられないよ。きみが無自覚に、無防禦むぼうぎょに、可愛らしい姿を誰にでもさらしていると思うとね」

 彼の真剣な眼差しも、そんなふうに思われていることも、“きみ”と呼ばれたことも、僕を動揺させると同時に感動させた。

「聴こえる? 『恋は水色』のレコードがかかっている」と彼が訊ねた。「お隣さんは、毎年あの部屋に独りきりで逗留しているんだ、もうかなりの年配みたいだけど。しょっちゅう、ベランダで古い音楽をかけていてさ、オモチャみたいな、てんとう虫の形のポータブルのレコードプレイヤーを使ってるんだ」

 くびを曲げて、植物群の隙間から、並行するバルコニーを観察した。部屋の照明で明るんだ中に、おかっぱ頭クープ・オ・カレをした——映画監督のアニエス・ヴァルダとか服飾デザイナースティリストのエズメ・ヤングみたいな——小柄なおばあさんの横顔が窺われた。

 次に彼女が選んだのも、僕が知っているヒット曲だった。柔らかいコーラスで始まる、ゆるやかなテンポの愛らしいアドラーブルな楽曲だ。

「この歌は……」と僕が言いかけると、

「シルヴィ・ヴァルタンだね。こんな昔の歌を知ってるんだ?」と田坂さんは言い、「踊ろうか」と僕の右手をにぎって、引き寄せた。汗ばんだ手のひらが恥ずかしかった。

「ソシアルなんか、踊ったことない」と僕が抗議しても、彼は聞き入れなかった。

「左手は僕の肩に。リードは僕に任せて、リラックスして、ただ僕に委ねていればいいから」

「待って。ぜったい足を踏む」と僕は慌ててモカシンを脱ぎ散らかした。

 抗うのをあきらめ、彼の胸に頬を近よせる。背が低いので、彼の肩に手を置くと、懸命にしがみついているような、滑稽な格好になっているのは検討がついた。
 彼の香水の匂いは——ありがたいことに、あの女たちの香水も——せず、いくらか汗にしめったシャツの布地のにおいが鼻をかすめた。

 きつい眼の、冷淡で端正な顔立ちに似合わず、意外に体温が高いので、ぴったり寄り添っていたら、じりじりと灼かれそうに熱かった。身を任せたおかげにしても、自然な感じに踊っていられたのが不思議だった。

 シルヴィ・ヴァルタンが歌う、『Car tu t’en vas(カル トン ヴァ)』。日本版のタイトルティトルは『わたしを愛して』だが、原題を訳すと「あなたが去ってしまうから」と言うような意味なのだ。夢見るように歌っているらしく聴こえても、去り行く恋人シェリーに悲しみを訴えている。
 彼は、それを知っているのだろうか。

 あと数日で、僕も同じく、悲嘆に暮れるのだ、おそらく。まだ現実味はないけれど。

 彼が立ち止まった。

「どうかした?」と今度は僕が訊ねた。

 答えるかわりに、彼は、つないだ僕の右手の甲に口づけた。そうして、僕をしっかりと抱きしめた。
 僕は眼を閉じた。音楽は鳴り止み、大気の温度も、周囲の景色なども全ての存在は消え去った。ただ彼の体温と少し汗に湿った身体の感触、抱擁する腕の強さ、息遣いだけを感じていた。






 * シェイクスピア『オセロー』にある、イアーゴーの台詞「green-eyed monster」(嫉妬は緑色の眼をした怪物であると告げるところ)を、掛けている。




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