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しおりを挟む最後の日の午前、荷づくりを済ませ、私はプールサイドの木陰のデッキチェアに腰をおろした。休暇の名残りに、日記帳の余白を庭の拙いスケッチで埋め、タクシーが迎えに来るまでの中途半端な時間を経たせていた。
八月の太陽は初夏の新鮮さを失い、爛熟した焔で地上を炙る。背の高いグラスに淹れたアイスティーは、氷が溶けて薄まりつつあった。訪問客はなく、プールには泳ぐNが一人。跳ねる水の音が快かった。
不意に、彼が私の名前を呼んだ。そちらを向いた私に、ふざけて水をかける。彼の笑顔は、初めて見たような表情だった。とてもプライベートで、子供っぽくて、あまりに無邪気で。
いつも大勢に囲まれ、近づきがたかったN(物理的距離と、こちらに才能がない故の負い目による心理的距離)。しかし、この数日の親密さが私を大胆にした。焦慮に駆られるまま、私はサンダルを脱ぎ捨てて立ち上がり、まっすぐ彼の方へ歩くと、プールに飛び込んだ。
着替えとシャワーに手間取ったせいで出発が遅れてしまい、叔母は不機嫌だった。Nはお姉さんに、私が溺れていたかもしれない、と叱られていた。彼のせいじゃないのに。
「少しくらいハメを外したいよねえ、バカンスだもの」
迎えのタクシーに乗り込んだ私たちを、彼は見送ってくれた。私は何気なさを装いながら彼を凝視め、別れの挨拶を交わす。
そして、名残惜しいなどとこれっぽっちも思っていない彼の顔に重ねながら(さっきまで、あんな笑い方をしていたのに!)、日常の中で発見し、記憶した彼の姿や声を反芻した。薄れてしまわないように。親しい相手に「ねえねえ」と話しかける癖を、枝豆を食べる時のリスみたいな仕草を、ソファに浅く坐る生意気そうな姿勢を、快適な場所を探すのが得意で、決して自分を譲らない、頑固な猫のような彼を。
撮影した8ミリフィルムを、編集したら観せて欲しいとせがんでいたら、忘れられはしなかったのか。ヴィラの前で別れてから、彼と二人きりで親しく逢うことはない。
ともかく、これが、私の一番の夏の思い出である。
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