未完成 Le Roman inachevé

犬束

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フィレンツェのほうへ

フィレンツェのほうへ 1.

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 フィレンツェなどへ行ったことがないし、休暇をとって必ず旅行するつもりだとは云わないにしても、そう、あたしたちはフィレンツェの地図を持ってもいるし、だから、旅行したくもないとは云えないわけなのだが、東西に貫流する大きな川と、バーミリオンの屋根瓦を頂いた石の街並と、屹立する大聖堂や、むせかえるほど濃密に香るミサでかれた香の匂い(礼拝堂からあふれ、髪や衣服に染みこみ、おそらくは嗅覚を麻痺させる匂い)とか、それに、雑踏、教会の鐘の音(中途半端な時刻にあちらこちらで鳴らされる音)、朝をむかえたホテルの部屋で聞こえる小鳥の声ならば、その街の地図を指先でなぞりながら、観光案内の真似をしてみることも出来る。


 旅の予定は、いや、希望は、それとも空想の旅は、と云うべきだろうか、そう、本物のフィレンツェではなくて、非現実的な百合の花の都を夢見ていると云うべきだろう、なぜなら、小説の(むろん、映画やテレビドラマ化もされた)登場人物に心を惹かれ、その彼が、いや、あの〈怪物〉が降りたった都市であるからなのだが、なにか非常にすてきな——連続猟奇殺人事件にふさわしい形容ではないかもしれない——状況を求めて、あたしたちの思惑はフィレンツェの中に迷いこみ、ストーリーのつづきを作りつづけている。子供じみた、ごっこ遊びほどの物語。あたしたちは気儘な観光客でもいいし、あらゆる国から集まってくる〈怪物〉の崇拝者としての旅行客でも、あるいは旅行者を装ったアメリカの特別捜査官でもいいし、イタリアの主任捜査官であると同時に裏切者でも、ただの地元の住民でもいいし、あたりまえのことだけれど、異常で残酷な(美意識と知能のとても高いという設定の)人殺しにだってなれるのだ。


 フィレンツェではサンタ・マリア・ノヴェッラ教会——白と緑の大理石で飾られたファサードを持つ、フィレンツェ最古の聖堂建築——に隣接して、十三世紀から薬草と匂いの良い花や香草を調剤する修道院の薬局があり、その前の細く賑やかな街路を見下ろすホテルの窓から、凶暴さを秘めたエレガントな足どりで、王家のハーブファーマシアへむかう美しい人喰い人種の姿を見るだろう。






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