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第4話「希望」

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 その日、僕は入学以来、初めて学校を欠席をした。 

 何もする気がおきず、ベッドに腰掛け、ただ彼女を想う。

 不思議と涙は出ず、ぼんやりとしていたところに、再び担任からの電話が鳴った。


『三枝の姉さんがお前に会いたいそうだ。…………今から行けるか?』
「…………行きます。場所は、どこですか?」
『今、自宅の住所を言うから自分で調べて行ってみてくれ。俺はまだ学校の仕事で抜けられないんだ』
「分かりました。スマホのマップを見ながらなら何とか行けると思います」
『有藤、…………』
「はい?」
『辛かったら断ってもいいんだぞ』
「……いえ、大丈夫です」
『そうか。じゃあな、もし道に迷ったら連絡しろよ』
「はい。じゃあ、行ってきます」


 精一杯の軽口のつもりで“迷ったら”なんて言ったのかもしれないけれど、その声は若干震えていた。生徒を喪った担任だって辛くない訳がないのだ。

 僕は静かに通話を終えると、制服に着替えて背筋を伸ばした。



「こんにちは。あの、有藤です」


 三枝の家は思ったより分かりやすく、迷うことなく辿り着くことができた。
 玄関のチャイムを鳴らし、インターホンに向かって呼びかけると、返事はなく、ゆっくりとドアが開いた。
 泣きはらした目をしたお姉さんが俯き加減に家に上げてくれ、僕は陽のあたる明るいリビングに通された。


「有藤くん、いらっしゃい。迷わずに来られた?」
「はい」


 テーブルには氷の浮かんだ紅茶。
 僕は三枝のお姉さん、結実さんと向かい合って座っていた。結実さんは僕と目を合わせないように俯いたまま、口元だけで僅かに微笑んだ。


「わざわざ来てくれてありがとう。結菜ね、まだ色々あって病院から戻ってないの」


 その言葉にどこかでホッとする。
 今、この場で三枝と対面したら自分はきっと、みっともなく取り乱してしまうだろう。


「結菜から預かっているものがあるの。“自分にもしもの事があったら渡してほしい”って言われてて」


 「ほら、これ」と手渡されたのは、あの“内緒”のスケッチブックだった。始めの方は単なるスケッチの練習だろう、鉛筆描きの静物画。けれどページをめくっていくうち、最後に近いほど水彩のタッチで描かれている。


「これ、ベッドで描いていたんですよね?僕がお見舞いに行った時は絵筆で描いていた様子はなかったんですけど……」
「それはね、水彩色鉛筆なの。私が結菜に買ってあげたものなんだけど、色鉛筆の上から水を含んだ絵筆でなぞると、水彩画のようになるのよ。ベッドの上でも絵筆と水入れくらいはテーブルに置けたから…………」


 彼女によく似た声を聞きながら最後のページを開く。
 
 そこには、あの日見た海と夕焼けと虹。
 それから足元には白や青、ピンクの小さな八重咲きの花。あの日、僕自身も目にしていながら気に留めることもなく通り過ぎていた防波堤ギリギリの、けれどその辺りまでいくと砂地ではなくなる場所に慎ましく咲いていた名も知らぬ花。
 今にして思えば露草のような雑草とも違う、まるで誰かが意図的に植えたものが自然に増えていったような…………。

 三枝は何を思いながらその花を描いたのだろう、そう考えながら最後の絵をめくると、裏には日付けと、タイトルのようなもの、そしてメッセージが書かれている。


《「希望」》

《仁紀くんへ(初めて名前で呼んでみました。なんだか照れくさいね)。お見舞いありがとう。この前二人で見た虹を忘れないように描いておきました。
 私が治って次に会えた時に、この絵を貰ってください。また海に連れていってね! 結菜》



 この絵は「希望」というのか。

 戻ってくると信じて、精一杯頑張ったあかしなのか。


「結菜ね、移植する前の治療中に急変したの。その絵は意識がなくなる直前まで描いていたものみたい。…………重くてごめんね、こんなの、高校生になって間もないきみには重すぎるよね。でも、あの子が生きてたってこと、忘れないで欲しいの……!」


 泣き崩れる結実さんを呆然と見ていたけれど、僕は突如スマホを取り出し、夏に咲くあの花の画像を探し始めた。

 ーーーあった、この花だ。


《トルコキキョウ 夏 北アメリカ原産 高地から低地に幅広く分布 乾燥した地域で生育するが地下水の高い湿った場所に生える》

《花言葉 「希望」》


 スマホをテーブルに置いた途端、堪えていたものが溢れ出した。結実さんが驚き、自分が泣くのも忘れて僕を見る。


「結菜、結菜…………ーーー」


 初めて唇に乗せた名前は声を詰まらせ、涙を止めどなく溢れさせる。眼鏡を外し、差し出されたハンカチで僕は必死に目頭を押さえた。

 心の中に目まぐるしく彼女の姿がいくつも思い出され、苦しくて溺れそうになる。
 綺麗な横顔、真っ直ぐな背筋、それから寂しげだったり楽しげだったり、ころころと表情を変える大きな瞳。もう、この目でその存在を確かめる術はない。
 隣で笑っていた結菜は、手の届かないところへ行ってしまった。もっともっと、同じ時間を過ごしていきたかった。
 それらの想いが今になって現実として一気に押し寄せてきた。


 結実さんも僕の涙に誘われたように嗚咽を漏らし、僕たちは深い深い哀しみを一時いっとき、共有していた。


「きみのこと、結菜から何度も聞いたわ。優しくて穏やかなきみのこと、あの子はいつも嬉しそうに話してくれたの。学校に行くのが嫌な時も、教室に入れば必ず隣にいてくれるきみにいつでも救われてるって」
「そんな……。僕はクラスでも目立たない方だし、そんな風に思ってもらえる程のことは何も……」
「ううん。きみの存在は、きっと大きかったんだと思うよ。ありがとう、結菜に寄り添ってくれて」


 涙がようやく止まりかけた頃、少しだけそんな話をした。

 結局スケッチブックを丸ごと一冊貰い受け、僕はいとまを告げる。結実さんは泣きはらした目をしながらも、笑って見送ってくれた。
 
 まだ平日だし、明日はちゃんと登校しよう。クラスメイトは僕と彼女の関係など知る由もないだろうけれど、赤い目をした僕を見ても、きっと誰も笑ったりはしないだろう。
 そう、意外と空気の読める連中ばかりだから。

 その夜、僕は枕元にスケッチブックを置き、あの虹を思いながら眠った。

 眠りに落ちる寸前まで会いたいと願った結菜は、最後まで夢に現れてはくれなかった。



 翌日、登校すると昇降口で秋月が僕を待っていた。


「ちょっとでいい。話、聞いてくれ」


 僕のような赤い目をした秋月は、少しだけ小さく見えた。

 下駄箱に寄りかかり、秋月がポツリと呟いた。


「俺は、あいつの側にいられるお前が羨ましかったよ。………俺さ、結菜を妹みたいに思おうとしてたけど、本当はずっと好きだったんだ」
「…………」
「前に言った“悪い女”っての、あれ嘘だから。中学の頃、色んな男どもに告られたりしてただけなんだよ。あいつ、全部断ってたけどな」


 “あいつの名誉のために、そこだけは訂正しておきたかったんだ”、そう言うと、寂しそうに笑った。


「話はそれだけだ。じゃあな、俺は行く資格ないけどお前だけはせめて命日くらいは墓参りに行ってやってくれ」


 そう言って、三年棟へと去っていった。
 僕は何も返すことが出来なかったけれど、それきりもう二度と彼と話す機会はなかった。

 クラスの皆で葬儀に参列した。
 授業の関係上、少しの時間だったが僕もクラス委員として彼女に花束を添えた。
 結菜は最期まで綺麗で、微笑むように眠っていた。
 僕は涙が零れないよう、ずっと唇を噛んでいた。





 それからの僕は、がむしゃらに勉強に打ち込んだ。なにより哀しみを振り切りたかったし、彼女のような病気をもつ人に寄り添えるような仕事に就きたいと考えるようになっていたのだ。
 かといって医者を目指すのには遅すぎたし実力も到底足りないことは分かっていた。それでも一流と言われる大学を目指し、同時に語学力も磨いた。


 それから数年ののち、僕は移植コーディネーターとなって狭き門をくぐり抜け、医療の現場に就くこととなった。
 彼女のように移植を望む患者と医師の橋渡しをし、それは僕の生き甲斐となっていった。

 彼女をうしなってからの僕は女性に対して不思議と恋愛感情が湧くこともなくなっていた。告白されることはあったが交際に発展するまでもなく、僕の“心ここにあらず”な様子に、皆自然と離れていった。いつしか女性から恋愛対象として見られることもなくなっていた。


 あの日から何年もの間、命日の墓参りの頃になると彼女の後を追いたいと何度も思っていた時もあったけれど、その度に、天も彼女もそれをゆるさないだろうと思い直した。

 だから天寿を全うするまで生きて、生き抜いて、そして再び彼女と出会えるという希望だけを持ち続け、僕は最期の時を迎え、そして。

 その灯火を、静かに消した。






 雑踏の中、知っている人を見たような気がして振り向いた。
 人の流れに逆らって立ち止まり、不思議な感覚の正体を突き止めたいと強く思った。

 視線はすぐに一人の女性を捉える。
 彼女も目を丸くして、同じようにこちらを見ていた。連れと思われる女性に“知り合いか”と問われているけれど、彼女は首を振るばかり。

 そのうちお互いに我に返り、気のせいだったか、と再び反対を向いて歩き出した。



 今日は僕の勤める会社の入社式だ。
 とある企業に入社して早三年。ここまで皆勤賞の自分が今日に限って遅れるわけにはいかない。
 それになんたって新しく数名の後輩が入社してくることになっている。どんな子でもいいけれど、仕事の教えやすい素直な子なら、もっといい。

(さっき見かけた子、夢に出てくる子によく似てたな)

 最近になって繰り返し見ている夢。
 目が覚めてしまえば内容は全く思い出せない。けれど哀しいような、懐かしいような…………。
 そう、例えるならそれは、ずっと前から大切に思っていた人に、再び出会えたような懐かしさ。




「おはようごさいます。今日からこちらの部署でお世話になります、一ノ宮です。よろしくお願い致します」


 隣の部署で明るく元気一杯な女性の声がする。入社式のあと朝イチの雑務をこなしながら何気なく目をやると、通勤途中に見かけた、あの女性がいた。思わず二度見すると、彼女もこちらの視線に気付き、目を丸くしている。


「お前が女の子に興味を持つなんて珍しいな」
「うるさい。そんなんじゃない」


 隣に座る鋭い同期が僕に耳打ちした。
 けれど、それから何度も彼女を盗み見てしまった。不審がられないよう、こっそりと。



 午前中の会議を終え、廊下を歩きながら昼メシはどうしようかと考えを巡らせていると、偶然にもあの隣の部署の新人がこちらに向かってくるのが見えた。

 すれ違いざまに会釈され、小さく息を飲む。
 やっぱり、思い過ごしなんかじゃない。自分の勘を信じて咄嗟に軽く腕を掴むと、朝と同じまん丸の目で見上げられた。
 あぁ、この子だ。ずっと前から知っている。


「あの、突然ごめん。……前に、どこかで逢ったことない、かな」


 これじゃよくあるナンパみたいだ、と思い頭を抱えたくなったけれど、彼女は僕を変なものを見るような目で見たりはしなかった。


「今朝、外で逢いました。…………や、そんなこと言いたいんじゃなくて。あの、私も同じこと考えてました」
「でもきみは確か地元がこっちじゃなかったよね。どこで逢ったのかな」
「えっと、それより腕、離してもらっていいですか?」
「ああっ、ごめん!!」
「ふふ、きっとどこかで出逢ってるんですね。例えば前世、とかだったりして………。ごめんなさい、いい歳をしてこんなこと。あの、でも………っ」

 
 目の前の彼女が赤い顔をして慌てているのが可愛い。


 そうか、前世か。
 本当にそうなのかもしれない。
 
 不思議な感覚は確信に変わり始める。
 だったらもう一度、出逢いから始めよう。

 胸に大きく空気を吸い込んで。


「初めまして。僕は『藤本 雅紀』といいます。きみは?」
「初めまして。私は『一ノ宮 結花ゆうか』です」


 彼女が花のように笑い、その瞬間あの夢と、夢の続きが見えたような気がした。

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