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第6話

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「あの、私………!」


 息を切らし、彼女がここに来てくれた。
 ただそれだけのことが嬉しく思うとともに、その言葉の続きが気になる。
 思い詰めたような表情かおで何を語ろうとしているのだろう。今すぐに問いただしたい、でも。


「………一ノ宮さん、立ったままじゃアレだから、とりあえず座ろうか」


 平静を装い、この間と同じようにポケットからハンカチを出して僕の隣へ促す。
 彼女は少しだけ辛そうな表情を緩め、“いえ、今日は自分のハンカチで”と小さな声で呟いた。

 僕の隣におずおずと座った彼女は、横座りの膝の上に弁当箱の包みを置き、視線を落としたまま、しばらく息を整えていた。
 僕も、早く話を聞きたいとは思うけれど、急かすつもりは無いから、彼女を見つめ、黙って彼女の言葉を待った。


「………えっと、お話する前にお聞きしたいことがあるんですけど………。藤本さんがあれ以来急にお弁当派になったのって、もしかして私のせい、だったりしますか………?」
「いや………、うん、そうだな。きみを待ってた、かな。まあ節約にもなるし、悪いことじゃないと思って。節約にはなってるし、売店での無駄遣いもなくなったから、かえって良かったと思ってる。だから気にしなくていいんだよ」
「はい。ありがとうございます」


 こちらの視線に気付いたように、彼女はゆっくりと顔を上げ、僕と目を合わせて小さな声で話し始めた。


「………ずっと無視してたみたいで、すみませんでした。私、あれから藤本さんがお昼にいつもひとりになること、知ってたのに………。友だちの誘いを一日くらい断ることなんて簡単なのに、ずっと逃げてました。でも………。もう黙っているのも辛くなっちゃったんです」


 “何を”とは聞けなかった。
 急に続きを聞くのが怖くてたまらなくなり、つい気を逸らそうとしてしまう。


「とりあえずさ、食べてから話そ。きみの部署も忙しいところだから、しっかり昼は摂らないとためだよ」
「はい。………藤本さん、先に食べ始めてたのに邪魔しちゃってごめんなさい………」
「そんなことはいいよ。 一ノ宮さん、ここ最近顔色良くないし、ちゃんと食べてーーー」


 しまった。相変わらず彼女を見てばかりいるのがバレてしまう。   


「………はい。ありがとうございます」


 彼女は心なしか赤い頰で弁当箱を開け、ようやく弁当に箸をつけた。
 ずっと見ていたことはどうやらスルーされたようで、彼女を不快にさせてはいないか心配だった僕は、ホッと胸を撫で下ろしていた。

 あまりジロジロ見るのも悪いので、僕も自分の弁当を彼女に合わせるようにゆっくりと食べた。うん、今日の味付けもまあまあかな。


「そういえば藤本さんて自宅住みなんですか?」
「ん?……いや、一人暮らしだけど」
「自炊されてるんですね。じゃあお弁当はご自分で………?」
「うん」
「そ、ですか………」


 彼女なりに話題を考えているのか、上の空で食べているようだ。けれどそれはこちらも同じだった。
 いくら話題を探しても頭の中は、僕らしくない緊張で真っ白だ。
 そうしてそれきり会話は途切れ、ふたりで黙々と弁当を食べ続けた。

 僕が先に食べ終わり、食後のお茶を飲んでいると、隣で小さく“ごちそうさまでした”と声がした。小さな手をきちんと合わせるその姿が可愛らしくて、無意識に顔が綻ぶ。
 そんな仕草にすら目を奪われる。彼女の全てを、片っ端から好きになる。

 今にもそれを口にしてしまいそうになる。
 こんな感情は初めてだ。


「ええと、それでですね。話というのは」


 弁当の包みを丁寧に結びながら、目線を膝に落として話し始めた彼女の声に、緊張で体が固まった。まだ、何も話していないのに。


「私………。最近になって頻繁に『あの夢』を見るんです。………いえ、本当は入社する少し前から」
「『あの夢』?」
「はい。この間藤本さんが見ている、ってお話していたのと多分、同じような」
「え………。それは、きみが女の子の方、ってこと?」
「はい」
「哀しい夢だった?」
「………はい、とても。ここのところ毎朝起きると、泣いてたりして寝覚めが悪くて。それで顔色を親に心配されちゃったり、とか………」


 そう言って彼女は小さく笑ったけれど。


「それは僕より重症かもしれないな。僕は毎回は泣いてないから。………きみはずっと辛い思いをしていたんだね。もしかしたらきみの方が感受性が高いってことなのかな。僕は結構鈍い方だけど」
「………そんなこと、ないと思います。藤本さんだってあの夢、見てるじゃないですか………」


 痛みを堪えるような表情に胸が苦しくなる。出来ることなら今すぐこの腕に抱き寄せて、“僕がいるから大丈夫だよ”と、頭や背中を摩ってあげたい。同じ境遇を、苦しみを分かち合いたい。
 けれどうかつに触れたりして彼女を怯えさせないよう、僕は立てた両膝の上で、拳を強く握りしめるしかなかった。




「ーーーきみが、好きだよ」


 隣にいる彼女に向いたまま、ふと口をついて出た自分の言葉に、自分の方が慌ててしまった。
 もっと時間をかけるつもりだったんじゃなかったのか、と心の中の自分が突っ込んでいる。


「………え」


 ぽかんと開けた口。
 びっくりした後、先ほどから涙をたたえたままの大きな瞳が揺れる。
 想いを口にしてしまえばそんな小さな仕草にすら、少し前の時間よりももっと強く“愛しい”と感じる気持ちが湧き上がる。
 眩しくて、また顔が綻んでしまう。

 けれど彼女は涙目のまま、ぎゅっと厳しい顔をした。


「………そんなに綺麗に微笑んで貰える資格なんて、私にはないです。だって私、自分の気持ちが分からない。私は藤本さんみたいに、簡単に“好き”なんて言えない。 夢のひとと似てるから好きになったなんて、そんなの本当の“好き”じゃないです………!」
「………簡単じゃない。僕は夢のことが無くたって横断歩道で初めて会った時から、ずっときみだけを見てるよ。初めは確かに夢がきっかけだったかもしれないけど、ひとを………、きみを好きになるスピードが思ったより速かっただけだと思ってる」


 留めていた言葉が全部、零れ出る。
 もう、後には引かない。


「………私、私は………ーーー」


 赤い顔、というよりはむしろ青ざめたような顔で立ち上がり、後ずさるように僕に背中を向け、“ごめんなさい、先に戻ります”という言葉を残して防火扉に手をかける。


「一ノ宮さん」


 呼びかけにびくりと竦み、続いて彼女が振り返らずに重い扉を開けて階段を駆け下りる音を、僕はぼんやりと聞いていた。

 今言うべきじゃなかったのかもしれない。
 けれど、全てはもう遅い。
 彼女にだって他に彼氏や好きなやつがいるかも、なんて考える余地もなく自分の気持ちだけを押し付けてしまった。結局彼女を怯えさせてしまった。

 僕が彼女から返事を聞ける日など、訪れるわけがないんだ。



 その後、彼女から意図的に目を逸らされるようになった。同じ部署の人間と談笑していても、僕と目が合うとあからさまに俯いて、その笑顔さえも消してしまう。
 彼女を困らせる為に言ったわけではなかったから、その都度その態度に胸が軋んだ。

 告白した翌日から、また彼女の友人が出勤してきた。すっかり消沈して、弁当を作る気力すら無くしてしまっていた僕の方も、槙田に何やら気を使われたのか前のように社員食堂に誘われるようになり、自然、お互い疎遠になっていった。
 僕が再び社食に現れるようになって、周りでは誰かが噂話をしている気もしたけれど、槙田は余計なことを詮索してくるような奴ではないし、それにはちょっと感謝している。


 それからの単調な日々。
 勢いで告白してしまった自分のことで精一杯だった僕は、あれ以来時折彼女がこちらを見ては小さくため息をついているなんて、全く気付いていなかったんだ。


「なぁ藤本。お前、一ノ宮さんと何かあった? 最近あの子が見てるのって絶対お前だろ」


 詮索しない筈の槙田が、食事中僕に耳打ちしたのは告白から半月ほど経っていたころだった。


「さぁ。それはどうかな。………僕は、むしろ彼女には避けられていると思うけど」
「やっぱり何かあったんだな。………あの子に手を出した、ってところか?」
「ばか。そんなことあるわけないだろ」
「だよな。お前、そんなに器用じゃないもんな。でもさぁ、お前と何があったかなんて俺はあえて聞かないけど彼女、ずっと辛そうな顔してんだよな。 ………え、まさか気付いてない?」
「ああ………、まぁ」
「藤本はさ、昔から恋愛には疎くて、わりといつも能面みたいな顔してたけど、最近のお前はなんか柔らかい顔をするようになったじゃん。“これは恋かな”って俺は思ったわけだけど。その証拠にほら、女子に話しかけられることが増えただろ?」


 随分恥ずかしいことを言われている。
 “柔らかい顔”云々は置いておいて、言われてみれば女子に限らずひとに話しかけられることは増えたかもしれない。


「何を拗らせてるのか知らないけど、他の女子にあの子が嫌がらせとかされない内に、ちゃんと守ってやれよ。お前、実はモテるんだからさ。 女の嫉妬は怖いぞー」
「はぁ?別にモテた覚えないし。………って、僕の片思いの相手が一ノ宮さんだなんて言ってないけど」
「いや、俺はたまたま気付いちゃったんだよ。お前とは付き合い長いからな。 ふーん。そうか、片思いかー」
「悪いか」
「まぁまぁ。いいんじゃない?俺は今のお前ならかなり似合いだと思うよ。頑張ってみろよ。彼女もかなりお前を意識してるみたいだしさ」


 ひそひそと肩を寄せて話していた声は周りに漏れてはいないだろうか。こんな話が彼女の耳に入らないといいけれど。



 そんなことがあった午後。隣の部署では備品の在庫チェックを彼女と女性の先輩社員が命じられている声が聞こえていた。
 背中で聞く声にはいつもの元気はなく、とても小さく感じられた。僕のせいでずっと悩んでいるのだろうか。そう思うと心配で、どうしても振り向いてしまう。

 その時。
 椅子から立ち上がった彼女の体がぐらりと傾き、床に崩れるように倒れていった。

 人が倒れるのを見たのは初めてだ。
 こんなに自分の目の前が真っ暗になったのも。


「一ノ宮さん!!」


 人目もはばからず、僕は駆け出していた。
 静かに倒れたから頭は打っていないかもしれないけれど、顔色が真っ白だ。貧血だろうか。


結花ゆうか、結花!」


 彼女の友人という子が遅れてかけ寄る。


「一ノ宮さん、もしかして今日ずっと具合が悪かった?」
「はい。ここ何日か、あまり眠れていない、とは聞いてました………。ただの寝不足ならいいんですけど、この子前にも何度か倒れていて」
「わかった。僕が医務室に連れていくから、きみも付いてきてくれるかな」
「はい!」


 抱き上げた小柄な体は、思った通り軽かった。
 誰に見られても構わない。
 僕らのいる総務課の部屋は騒然としていたけれど、誰の言葉も耳に入らない。

 無事であってほしい、ただそれだけを心から願った。

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