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璃青さんのひとりごと。とご挨拶の続き

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 昨日は澄さんとユキくんに、とんだ失態を晒してしまった。
 合わせる顔がない、とはこの事だ。澄さんはああ言ってくれたけど、神経が張りつめていたのは新生活の不安からだけではなかったはず、と冷静になれた今ならわかる。

 元カレに選ばれなかった自分が悔しかったし、自分の何が劣っていたのだろう、と今でも時々悩んでいたのだ。
 そんな時に商店街の人たちの優しさに触れたから、だからわたしの涙腺は簡単に緩んでしまったんだと思う。

 メソメソしていたわたしに向かって、ユキくんは力強く元彼を批判してくれた。わたしよりも少し、いやかなり?年若い彼に慰められたことを思い出すと、今も顔から火が出そうだけれど。
 それでも確かにあの時、目の前の霧は一瞬で晴れたのだ。

 そういえば会社を辞める直前、周りの皆がわたしを腫れ物に触るように扱った。社内で秘密にしていたつもりの恋だったけれど、その頃は皆が見て見ぬふりをしていただけで、憶測だけどその後彼女の座に収まった後輩によって、なんとなくわたしが元カノだったんだという噂が広まっていたのかもしれない。

 それでも表向きは秘密の関係だったから、誰も元彼を非難してくれる人などいなかった。誰もが遠巻きにわたしを同情の目で見るだけ。
 そんな職場にしがみついている程の功績はわたしには無かったから、悩んで出した辞表もあっさり受理された。わたしの五年半なんて、所詮そんなものだった。


 一晩たってみると、わたしの心は自分の思い過ごしなどではなく、やっぱりとても軽くなっていた。
 現金な自分に笑ってしまうけれど、心の中には、ポッ、と暖かな何かがある。きっと誰かに、あんな風に言ってもらいたかったんだ。


 だからって、恥ずかしいものは恥ずかしい。
 あぁ、今日はこれから本屋さんだけでも挨拶に行かなくちゃ、って思っていたのに。
 今外に出たらユキくんに会ってしまうんじゃないかしら。彼は開店前でも何かと用事が多いのか頻繁に外に出ているようだから、顔を合わせてしまうかもしれないわ。

 顔を洗って朝食を済ませ、着替えと簡単なメイクをすると、わたしは足音を忍ばせて階段を下りた。そっと通りを伺うと、お隣に人の気配はない。わたしはホッとしたようながっかりしたような複雑な気持ちで、朝の商店街の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。



 時刻はただ今午前十時すぎ。そろそろあの本屋さんは開店している頃かしら。【Books大矢】。これから和雑貨の勉強に必要な本を時々買うかもしれない本屋さん。それに一応これでもまだ女子ですからね、女性向け雑誌なんかも買いに行ったりすると思うから。


 店内にいた店長の浅野さんにご挨拶しながらお茶をお渡しした。浅野さんは店舗の上の住居で奥様と娘さんとで住んでいらっしゃるとか。アルバイトさんは娘さんとそのお友達だということだけれど、どの子も元気いっぱいで可愛らしい。

 賑やかで明るい店舗にわたしもつられて明るい気持ちになる。そうか、今は娘さん達の学校も春休みなのかな。こんなに元気なんだもの、きっと学校生活も楽しくて仕方ないお年頃なんだろうな。


 本屋さんを後にしたら、そうだここも、と【菜の花ベーカリー】さんに立ち寄って、のし付きのお茶をお渡ししながら大好きなチーズ入りのフランスパンを買う。焼きたての香りに幸せを感じて、自分の単純さに笑みが零れる。昨夜お隣で吐き出した辛い気持ちはもう、あと少しで消えてなくなるんじゃないかな?

 
 開店準備はいよいよ大詰め。叔母が追加で注文してくれていた和食器も大体揃ったし、天然石やアクセサリー作りに必要な材料も、ほぼ揃った。
 あ、この#_簪_かんざし_#、籐子さんに似合いそう。なんて思いながら売り場のテーブルに、仕入れたばかりの和雑貨を並べていった。




 晴れていてもまだまだ寒い三月の昼下がり、作業中の店舗の目の前を青い何かが横切った。視界の端に映ったものの正体を見極めようと通りに出ると。

 …………ん?ゆるキャラ?
 この商店街にもゆるキャラがいたのですか?!ていうか、ここ、どちらかといえば商店街の外れですよね?こんな所に何故ゆるキャラが?

 律儀に左右を確認しながら道路を渡って駆け抜けて行った、あれは一体、何なんだろう。そのうち誰かに聞いてみようかしら。
 そう、お隣さんとか。


 ーーーーその後、わたしはその青いゆるキャラの中の人の、衝撃の正体を知ることになるのだった。

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