彼女をぬらす月の滴

内山恭一

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カシャリ。
コンビニ駐車場の隅っこであかさはちゃっかりひさきに渡すプリントを携帯で撮影していた。
これでもう安心とばかりに、思わず笑みを浮かべる。
ハッと気づいて、誰にも見られていないかと辺りをうかがうあかさの姿は、不審極まりないものの、見られていないとわかると安堵するのかと思いきや、困り顔に変わっていた。
学校帰り、バスを降りてからずっとそうだった。
何しろ、ひさきの家に行ったことがないことにバスを降りる時になって気が付いたからだ。
ずっとプリントばかりを見て、危うく降り損ねそうになるほどだ。
ひさきに連絡しても電話を取らないし、他の人ならプリント画像を送信してそれでOKかもしれないが、ひさきはそもそも携帯電話が通話機能しか持たない古い機種を使い続けていて、それもかなわない。
あかさは買ったばかりのグミを頬張ると携帯の地図を眺めた。
当然ながら、住所も分からないのだから、難解な数式のようで全く飲み込めない。
そんなわけでちかやとしおんならひさきの家を知っているだろうことを思い出して、二人に連絡して予習さながら地図を見て返信を待っている最中である。
我ながら見事な解である、とあかさは自信を持っている。
ただし、この閃きには最大の欠点があった。
いつ返事があるかわからないという、時間軸の欠落である。
あかさはそれを考えないようにしていた。
最終手段は担任・荻野に連絡を取ることだが、これは学校の連絡先を調べるところから始めないといけない煩わしさと、さらにそのこと自体が諸刃の剣であり、伝家の宝刀のごとくしまい続けておきたかったからだ。
荻野に何を言われるかわかったものではない。
何を言ったところで見透かされているようで、女性としては好きだし大人としても憧れるのだが、担任と生徒の間柄からすれば、ぴったり寄り添うでなく、少なからず距離を取っておきたい存在に思っている。
二粒目を口にして、あかさは行動に出た。
と言っても当てもなく歩くだけである。
手近な小道に入ってみた。
交わした会話の中に埋もれたピースを雑多な記憶の山から探し出し、おそらくはこの辺りなのだろうと推測するも、ここら辺の地理に暗い。
見上げなくともマンションが散在しているのが目に入り、それらのを目印にすれば方向を見誤る心配は不要であり、それに地図をいつでも見られるので不安もない。
道幅は狭くはないが、印象としては古い街並みである。
建屋の古さが目につくのではなく、むしろ駐車場ばかりが目立つほど。
天気が良くて、子供の声でも聞こえてよさそうだが、頻繁に車が通り過ぎる音が家並みの向こうから聞こえるだけで、人影自体少ない。
つまり、かつては若かった街であり、今はそうではないということ。
街が住まう機能を失いかけている、そんな空気感を肌に感じる。
近くの家の表札を見て回るあかさは、これがあまり意味のないことを悟った。
家が多くないことに加え、表札が出ている家はその半数もないことに気づく。
家々にそれぞれの生活感はあるし手入れされている様子もあるが、表札がなければ名前の確認ができないばかりか、目的のひさきの家すらそうかもしれないではないか。
探そうとしなければいい。
あかさは時間つぶしにそぞろ歩きを決め込んだ。
もしかしたら、偶然歩いているところを見かけることができるかもしれない。
そこの角を曲がったら居るかも。
だが、そんなことはあり得ない。
風邪で伏せっているはずなのだから。
夕方だがまだ太陽が明るい。
角を曲がりかけ西日が直接目に入って眩んでしまうあかさは、とっさに学校の鞄を雨に降られているかのようにかざして進む。
視野の中心が黒くなってまだ戻らないうえに、視角が制限されて前が良く見えない。
車は来ていないようだし、たぶん自転車もいないのだろうと耳が教える。
一歩、また一歩。
いつもの調子で、歩みを進める。
目は黒い視点を逃れるようにジグザグに動く。
視線を動かそうとした一瞬、何かに気づく。
偶然の瞬間。
目に入った光景はまるっきりスローモーションだった。
視覚がうまく使えないから、頭がより先鋭的だったのかもしれない。
太陽のまぶしさに瞳孔が収縮して、工業都市ならではの鼻につく空気の匂い、学校の革靴が地面を捉えて発する音に、そして先の角に消えるなじみの顔が鋭敏なあかさの感覚をぎゅうっと握りしめる。
コマ送りで再生されたその映像の中。
あれは…。
加織だ!
一秒もないかもしれない、コンマの世界。
だがあかさは見間違いではないと確信できた。
私服だったが、見誤るわけがない。
最近あかさの胸にあり続ける友達の顔なのだ。
考えるより早く、ダッと走り出すあかさ。
鞄を振り回すほどの勢いだった。
どうして今日はあんなに変わってしまったの?
どうして先に帰ったの?
どうして電話にも出ないの?
どうして、話せない?
なのにどうして今ここに居る?
頭が冴える功罪か、一つ、たった一ブロックしかない距離がやたら遠い気がしてならない。
急激に弾む鼓動があかさの体をぐんぐん前に突き動かしたが、その目指す角の先に加織の姿は見当たらなかった。
どこだろう?
立ち止まり、周囲をぐるりと見回してみた。
首筋を打つ脈に、荒くなる呼吸音が邪魔で仕方ない。
肩で息をしながら目を凝らし、影に沈む路地に目が慣れても、加織らしき姿はどこにもない。
あかさの表情は鳩が豆鉄砲を食ったようだが、どう見られているかなんて気にならない。
緊張が解けて膝を折り、屈んで息を整える。
それほどに全力で走った。
爽快感はなく、疲労感だけが強く残った。
加織の校区とこのひさきの校区は隣り合い、近い。
だから見かけたところで何もおかしくはない。
立ち上がり、貧血のような脱力感があかさの体から力を失せさせる。
それなのに頭は沸騰するようで、胸騒ぎで落ち着かない。
だって…。
おかしいのは彼女の変わりようであり、もっとおかしいのは今も瞼に残る加織の残像だった。
おかしいというよりも、奇妙であり、奇怪。
何故なら彼女は一人、笑っていたのだから。
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