彼女をぬらす月の滴

内山恭一

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潮風に吹かれてあかさは空を見上げた。
記憶に薄いが、確かに今まで見ていた星空と何ら変わりないようで、波音が気持ちいい。革靴を履いていたはずなのに素足でいるらしく、砂を踏む感じが足裏から伝わってくる。
あのタイミングで、自分の夢にトリップしてしまった。
今は無くていいのに、と後悔しているあかさはどんな彫刻だったか思い出そうと頑張っている。
背にしていた羽のような、鳥の翼のような彫刻、きっとあれだ。
あかさはひとまずこの世界から脱する手段はないかと、しかし考えあぐねていた。
経験上、肉体的干渉が一番わかりやすいトリップからの出口なのはわかっていた。
今、それは期待できそうにない。
あと一つ、確証はないが、思念に変化があった時だ。
しおんの夢からしてそれらしく思えていた。
楽しさが極めて強くなる、あるいは情感が急激に変わった時。
絶対にそうだとは言いきれないものの、そうなることが多いように思っていたのはあかさだけでなく、ちかやもしおんも同意見だった。
言わば潮目が変わるような感じ、あかさは暗い海を見ながらそう思った。
でも、どうしたらいいかな?
彫刻の全形を思い出したところで、それから思い当たるイメージが全くない。
どうして空じゃなくて海なのだろう。
そんなことを考えながら、まずは状況を確認することが先決だと歩き出す。
あかさの視線は真っ直ぐ、海を臨む。
見回して見ると、ここが入り江になっているらしく、崖に囲まれたシルエットが月明かりに美しく浮かぶ。
ちょっとだけ開いた水平線に星空が切り取られて、初めて見る光景だった。
写真や画像でしか見たことのない、嘘のような絶景。
眼鏡やコンタクトがどんなにぴったりと目に合っていようと、ここまで美しく見えることは無いはずとゾクゾクして、空に吸い込まれるような感覚で自然と背筋が伸びてくる。
とはいっても、これ自体夢なのだから嘘と言えばウソである。
対して背後にはいかにも深そうな密林が広がり、風に揺れて影が手招きするように見えておどろおどろしい。
後ろは見ないことにして、あかさは浜辺に沿って歩くことにした。
きっと何かにぶつかるはず。
ザッザッとゆっくり砂を踏む。
久しぶりのこの感じ、悪くない。
サーフィンに憧れたことがないわけではないが、穏やかな波にそれは似合いそうにない。
大体あかさはサーフィンだとか、マリンスポーツだとか、そもそも運動全般得意な方ではなかった。
できたら格好いいだろうなぁと思う程度であり、専ら砂浜で寝転がったり、岩場でエビや小魚を見つけたり、砂で遊んだり…。
もしかしたら、この間のような子供のころの夢?
だとしたら海だろうか、公園の砂場なのだろうか?
おぼろげながら、幼いころ砂でウサギを作ったことが思い出された。
赤い実を、何という草花か知らない小さくて鈴生りなそれを目にして、枝にある長い葉を耳にして。
一匹だけだと寂しくて嫌だったから、二匹、子ウサギも作ったかな。
あの頃の光景が微笑ましくなって、ふふっと笑って恥ずかしくもなる。
今度はおかしな猫じゃなくて、おおきなウサギが登場、とか?
さっと振り返り、しかしそこに想像したものは見当たらない。
期待反面、怖さもあって、そんなわけないか、とホッとするあかさ。
代わりに小さな鳥の羽ばたく音があっただけだ。
遠くまで続く砂浜に目をやると、自分の足跡だけが砂に残り、長くのびたそれは月の光にくっきりと見て取れる。
知らない間に随分と歩いてきたようだと、期待した何かにまだ遭遇していないことに気づかされ、少し焦る。
何故焦っているのだろうかと、あかさはぼんやりと波の音に助けを求めたが反対に無心になって、何を思いだそうとしていたのかすら忘れてしまう。
突っ立ったままのあかさの耳に僅かながら人の声らしき音が届いた。
それは木立のざわつきでようやく聞こえるかという程に小さく、囁くようだ。
立ち止まっていたからこそ聞こえたそれは、より明瞭な砂を踏む音でかき消された。
動いていないのだからもちろんあかさのものではない。
しかも、一人ではないようで、互い違いにリズムを刻む様子から二人居るようだ。
隠れる理由はないのであるが、一人でこんな場所にいることは無防備であり、後ろ盾を欠いている現状においては反射的行動であり当然のことだった。
気づかれることを覚悟していた割に、実際砂は音を吸い取ってくれたらしく、うまい具合に隠れることができた。
胸をなでおろすあかさは、足音と共に月明かりが雲に隠れていく様を見た。
木々の間から見える明るいが怪しい満月。
次にまだ薄いけれど紛れもなくその光を濁していく靄が辺りに広がり、靄は濃さを増していき霧となった。
あかさの予想した通り、何かがある。
舞台は見事に完成したのだ。
段取良いね、とあかさの見方は冷めていたが、この後の出来事を知れば確かにその通り、劇の開幕を告げるものだった。
では、キャストはどうだろう。
音が近づいてくるにつれ、背格好や喋り声がはっきりしてきて、あかさは思わず声をあげそうになって口を強く閉じた。
シルエットだけであるが二人のうちの片方に覚えがあったのだ。
佐村だ!
直感が驚きを連れてやってくる。
おかげで、このトリップ直前に電話をしていた相手が誰だったのか思い出せるほどに、頭の中の靄がすっかり晴れた。
しかし、思考は佐村のことでいっぱいになる。
彼も夢の世界にトリップできるの?
どうして?
それとも、また私の夢なのだろうか?
だとしたらあれはフジの姿?
でも、当の私にアプローチがないじゃない。
考え事が巡り巡ってやっと頭が冷めてきたあかさは少し前に出て、目で見て確かめたい欲望に勝てなかった。
霧があかさを隠してくれた。
そう。
違うんだ、全てはこれから始まるんだ。
「そうなんだ」
楽しそうにはにかむ声から相手は女性だとわかり、しかもあかさと同世代の若そうな感じを連想させた。
彼女の初々しさがあかさに恥ずかしさを伝える。
肩を揺らして笑う彼女の周囲はことさら霧が濃くて顔どころか、声まで通りにくい。
耳を傾ける。
どうやら佐村はこちらを向いて、彼女はあちらを向いているからだとわかった。
それにしても小さい声で、もっと大きく聞こえるように喋ってよと、無茶なことを考えているあかさ。
さざ波の音さえも邪魔に感じるあかさは、霧の濃さに任せて木立から身を乗り出す。
これほど暗いうえに濃霧なのだ、見つかる心配はないはずとにじり寄っていく。
立膝をついて当たる砂粒が少し痛い。
何してるんだろう、私。
まるで覗き見じゃん!
半分呆れてしまう自分が居て、でもやっぱりその先を見てみたい好奇心に駆られてしまう。
やがて、あかさの前がゴールであったかのように二人は立ち止まり、あかさの進軍もそこまでとなった。
息をひそめるあかさの耳に届く声。
「なぁ」
確かにそう聞こえた。
短くて意味の見えない、ただの呼びかけ。
佐村の声だろうとは分かった。
待てど暮らせどとは過大であるが、その続きは一向に聞こえない。
月から雲が離れ、砂浜が白く輝く姿を再び見せ始める。
柔らかな風が吹いて、霧も薄くなっていくようだった。
どうやら二人は向き合っているらしく、彼女の方は相変わらず背を向けていた。
加織?
現実と夢がぐるぐると混ざり合って自分でも何を根拠にそう思っているのかわからなかった。
あの背中まで落としたストレートな黒髪といい、体の線の感じと言い、加織にそっくりである。
思い返せば、声も心なしか似ていたようでもある。
だとしたら加織もトリップしているということ?
いつから?
良い雰囲気の二人の姿を見て、波風を感じずにはいられない。
偶然、たまたま、幸運にも二人が出会うきっかけを作ってしまっていたのだろうか。
幸運?不幸ではなくて。
二人はいつから知り合っていたのだろうか?
感情に胸が破裂してしまいそうで頭を抱えるあかさを知ってか知らずか、ますます二人の距離は近づいて、もうどうにでもしてとつねった太ももは痛くて自暴自棄寸前である。
これって独占欲?
まさか、嫉妬。
そんなはず…。
顔やら耳やら体中熱くなり、騒めくのは木々の葉ばかりでなく、あかさの心も同様でまとまりがない。
そこへ風が強く吹いて、ざぁっと木を大きく揺らして過ぎていく。
それと同時に霧は靄へ、そして消えた。
あかさが苦悩し悶えている間に二人が何を話していたのか、聞こえないし、見えなかった。だが、今ははっきり見える。
それどころか、二人を中心として砂浜が輝きを増し、さながら発光する真珠のようで、二人が触れ合うほどに近い距離にあるのが見て取れた。
二人の足元からその輝きが上がり始める。
雪が舞い落ちるのとは全く逆に、物理法則を蔑ろにした夢の不文律に従って空へと舞い上がる。
渦の中心にいる二人にはさぞロマンチックなことだろう。
加織の肩に手をやる佐村は、一連の流れと言わんばかりに顔を彼女に近づけていく。
確かめなければならない、彼女が誰なのか。
すでに中腰になっていたあかさは、
「フジ!」
と叫び、一歩足を踏み出す。
かつてなら確実に傍観者を決め込んで事の顛末を覗いていたろうあかさだが、今それは絶対無理なほどに欲望を抑えきれない。
夢が誰のものであるか、彼らが誰であるか、それを知らずにはいられない。
当然驚きをもって二人の動きは止まり、仲良く二人はあかさの方に顔を向けた。
夢とはいえ、空気が悪くて何だか吐き気すら感じるあかさだが、膝を立ててじっと踏ん張った。
「あれ?」
包んでいた光は夢のように消え、佐村はあかさに目を合わせ、そうつぶやいた。
「霧村が…、二人」
「え?」
加織だと思った女性の顔は、しかし顔を紅潮させ潤んだ瞳をしていたがあかさに違いなかった。
時間が止まった気がした。
だが、すぐに頭にずっしり重い感覚を得てあかさは驚愕した。
その感覚は以前に覚えたもので、だがその時よりも強い衝撃をあかさに与えていたからだ。
柔らかい肉球に温かくふわふわの毛。
頭の上にフジが乗ったのだ。
「だったらこの二人は?」
いや、それなら佐村は本物ということ?
後ずさり離れる二人の姿を最後に、あかさは叩きつけるような強い風に飲み込まれ目をつむった。
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