彼女をぬらす月の滴

内山恭一

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まさか佐村とトリップすることになるとは夢にも思わなかった。
この数か月、ちかやとしおんの三人でばかりトリップしていて、そこに新しく誰かが加わることをあかさは恐れていたのに、こうして他の人の夢を覗くというのは楽しいと、複雑な心境だった。
佐村は初めての、変な言い方だが処女トリップを果たしたわけで、しかもその夢の相手が自分であることが嬉しかった。
相手によるのは当たり前で、佐村であり、自分であることが意外で、恥ずかしさも混じっている。
きっかけは何だったのだろうか?
近しい間柄だったわけでもない。
佐村のことはもちろん気になってはいたが、深く思うほどではなかったはずと思い返すが、さっきの夢をまた辿ってしまい顔を赤らめるあかさだった。
様々な思いに一喜一憂するその顔が赤いかどうかは定かではなく、二人は相変わらず鳥の姿で飛び続けている。
まだ誰の夢なのかわかっていないわけで、加織なのかもしれないという蓋然性の低さに、あかさは闇雲に空を飛び回る他に手がなかった。
上は重そうな影をした雲がびっしり詰まっていて、下は下で濃い霧が流れ、時に渦巻きながら垂れ込めているようで、何だかの人の意志を持って動いているかのようなそれに恐怖感を持ってしまう。
きっとこれまで自分が夢の度に包まれていた霧も俯瞰で見るとこうだったのだろうと、あかさは鳥瞰できていることに少しだけ感謝していた。
そうは言えども、もちろんこの夢がどうなっていくのか、鳥の姿から解放されるのはいつなのか、それらの超現実的問題の方が広く頭を支配している。
どこか目印になるような、山だったり、街だったり、あるいは太陽でも良いのだが、方位を感知できると言われる鳥類だというのに白の世界に方向感覚は鈍るばかりだ。
「なぁ、お前、何かわかって飛んでるのか?」
「何も知らないよ」
「え…。即答なんだな」
「そう。だって」
「だって?」
「迷ってるんだもん」
「マジか、それ」
あかさと並んでいる佐村だが、とっくに鳥でいることに飽きているらしかった。
それはあかさも同じなのだが、反面、大人しくあかさに従っている佐村は雲なり霧なりを突っ切って進むことは嫌な様子でそれ以後もあかさに提案することすらなかった。
不穏な雰囲気というか、動物的直感だ。
不思議と崖っぷちに立っているかのような恐怖を二人とも感じていた。
その崖が断崖絶壁だろうが鳥なら怖いことはなさそうだ。
あ、今の私、鳥だもんね。
ちろっと舌を出して、照れ隠し。
思いのまま、人の時の感覚のままに、したいことを思えばその通りに体は動く。
羽ばたこうという意志でなく、漠然でいい、前に進もうと考えれば良いだけだった。
つまり、飛ぶというのは特別でなくごく普通の、普段通りの行為であり、人間でいえば歩くことと同義であり、そしてそれはやはり疲労を伴うのだということでもあった。
「ちょっと疲れちゃった」
「俺も。でもこんなところで止まれないしな」
「そうなんだよね」
唸る佐村。
「だったらさっき見えた島に行ってみれば良かった」
「島があったの?」
「見てなかったのか?」
「わかんなかった」
深くため息をつくあかさだが、思ったほど息は深くなかった。
「言ってくれればよかったのに」
「ついて来いって言ってたから」
「…」
あかさは閉口して顔を背けた。
「なぁ、霧村。どこか降りられる場所知らない?」
「だから、わかんないんだって」
「いや、そっちじゃなくて。ほら、背中の方の」
全く…、誰に聞いてるんだか。
呆れはしたが、確かに理に適っている。
夢の中、しおんを探して見つけた時のフジのことを鑑みれば、まだ知らない誰かを知っているかもしれないのは自明の理だった。
これが誰の夢なのか、佐村と話を重ねてもあかさには判断がついていない。
あかさでも佐村でもないだろう、夢の創造主。
もしかしたらと、加織の顔が頭をよぎる。
「あの辺ですね」
と、小あかさが指さす方向にはタイミングよく、いつの間にか霧が切れ目を作っていて、キラキラと輝く何かがその正体をのぞかせようとしていた。
「何、その言い方」
と、風向きの変化に心が浮き立つあかさに不意に佐村は笑い声を上げた。
自分が言われたわけでないのに、まるで我が事のように腹が立つあかさだった。
「いいじゃない。私じゃないんだから」
「さっきと全然違うんだぜ。それに霧村のイメージと、ちょっと違うしな」
勝手なイメージで笑わないでよ、と佐村を置いて降下を始める。
だが、佐村のその言葉にいつかのしおんとの記憶が被って蘇る。
得てして自分が思うところと違うように人には見えているのかも知れない、とあの時そう痛感した。
君にとっての私って、どんななの?
どんな印象なの?
あかさはトビの姿に佐村の顔を見ようとしたが、できなかった。
考察は余計に深くなっていく。
見え方次第で、話すときの距離や、心の間合いも変わってくるのだろう。
当初しおんとは距離があったし、美月とは引力より遠心力が強くて今なお遠くなり続けているように思う。
憂いに喜楽な感情が鳴りを潜める。
翼が重い。
今は考えるのはよそう。
とにかく少し休みたい。
あかさは霧の切れ目に向かって勢いよく降下して、佐村は取り残されまいと焦りながら後をついて行った。
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