彼女がいだく月の影

内山恭一

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歓声がどっと湧き上がる。
あかさは首をすぼめて、何事かと目を見開いた。
球場のようだ。
見たことある名前のユニフォームの選手たちが走り回っていて、ソフトボールではないことくらいはあかさでもわかる。
プロ野球の試合をしているらしかった。
周りに腰掛けたたくさんの人たちが一層歓喜して、その声にすっかり身を縮めてしまう。
ハッとして立ち上がり周囲を見渡す。
今まで一緒だったはずの佐村の姿をどこにも見つけることはできなかった。
その代わり、視線を遮られて迷惑そうな顔を向ける後席の人たちが目に入り、慌てて腰をかがめて通路に飛び出した。
階段状になった観客席をどんどん上がる。
最高段まできて、やっとドキドキが収まってきて、大きく息をついた。
ここまで来ると、あれほどびっくりしてしまった人の声も滲んで聞こえる。
顔を上げれば、ここはドームではなく屋根のない球場で、夕焼け空で頭上が広いというのに、テレビで見るようなあんな広大な感じがしない。
どこだろうという疑問はあかさにはどうでもよく、佐村がどこなのか、それが一番気になった。
多分、この状況はトリップだ。
そして、きっと佐村も私を探しているはず、と選手たちの動きに追従してうごめく人々の中を探ったが、どれもそれっぽく見えて目が泳いだ。
両チームのカラーがあるらしく、帽子をかぶった人や色調の同じグッズを手にした人が多く、その熱気はここまで届きそうだった。
もしかしたら角度を変えたら佐村から見つけてくれるかも、とあかさはグラウンドを挟んで向かいに見える芝生を目指して歩き出した。
移動しながらも、当然グラウンドでは試合が続行されていて、たどり着くまで危ういことはなかったが、ボールが飛んでくるのではないかと冷や冷やしていた。
誰かがボールを投げ、それを誰かが打ち、捕っては投げる。
縁遠いスポーツだとあかさは思った。
学校の授業であるわけでなし、もちろんルールは知らないし、周囲に野球好きもいないから興味もわかない。
でも、佐村はきっと違うのだ。
でなければ、未知の夢にトリップするはずもないからだ。
バスケと野球って、同じボールの競技だけど違うんだよね?
バスケの夢だったらまだしも、なぜ野球の夢なんだろう?
歩く最中に佐村のことを考える。
佐村と夢。
まさかとは思うが、また小さい自分の分身みたいなのがいるのではないかと、そればかりが妙に心配になるあかさだった。
やがて観客席が途切れ芝生面が広がるが、降りられる場所は見当たらずあかさはそこで辺りを見回した。
知らない風景に思える。
風が柔らかく抜けていく。
普段は特別感じない、空気の匂いに気が止まる。
その匂いは覚えのあるもののようだった。
空を見上げる。
照明に目がくらんで視界を奪われる。
その分耳が鋭敏になり、まだ小さい轟音をとらえた。
それは遠くに聞こえていたが、すぐに大きな音になると空にとどろき続けた。
飛行機が飛び立つときの、そのエンジン音だとすぐ気付いた。
間違いない。
自分の街だ。
まだ視界の中央が黒く塗りつぶされてよく見えない。
こんな時に限って肩を叩かれて、振り返りはしたもののよく見えず、間を取りたくて半歩後ずさりのけぞりがちになってしまう。
腰がフェンスにあたって、軽く痛みを感じた。
「どうした?霧村」
聞いた声にほっとして、腰をさすることしばし。
ようやく目が元に戻って、声の持ち主が思った通りだったことに安心した。
だが、想像と全く同じでなかった。
野球だろうか、帽子をかぶりユニフォームを着ていて、しかし試合をしている彼らとは違う色柄。
「何?その恰好」
「これか?」
帽子を取って、佐村がのぞかせた顔はどこか柔和な感じがした。
「少年野球のときの。懐かしいな」
「そんなの持ってるの?」
「まさか。これ、あの夢の世界だろ?」
佐村があの夢をただの夢と思っているという、あかさの淡い希望は夢と消えた。
「多分ね」
「だよな。お前が居るもんな」
「言っとくけど私が本物だからね」
「すぐわかるよ、そんなの」
あかさは途端うつむきはしたが、むしろ間髪入れず、
「そのユニフォームは?」
「夢だからか?わかんないな。こんな大きいのは監督くらいしか持ってないと思うけど」
推測すら必要ない、愚問だと知っていて、それでもあかさは問わずにはいられなかった。
「野球選手になりたかったんだ?」
「まあね」
恥ずかしそうに少し頬を染めた、夕焼けのせいだろうが、あかさにはそう見えた。
「子供の頃の話だよ」
「だって、今はバスケだもんね」
「それだってプロバスケ選手になりたいってわけじゃないし」
「そうなの?」
「俺だって自分のこと、少しは分かってるつもりだよ」
あかさは、夢はずっと持っててもいいんじゃない?と思って、口にはしなかった。
アナウンスがながれ、眼下では攻守交代の光景が広がっていた。
「ああなれたら良かったって、本気で思ってた」
二人して眺めながら、
「プロになって、地元の球場で凱旋出場。かっこいいだろ?」
「そうかもね」
「だから、これは俺の夢の球場なんだよ、きっと」
投手が振りかぶり、バッターボックスの選手の動きが瞬時止まる。
息の詰まる瞬間。
結果はすぐに表れた。
「ああなりたかった」
佐村の視線を追って、あかさはボールに当たることなく戻っていく選手の様を見て不思議に思えた。
あれって、ダメなんじゃ?
察したのか、佐村は両手を小刻みに振って、
「あれじゃないぞ、あれは三振だから」
慌てふためく姿も新鮮で、好きなことに熱中する子供と同じなんだと、魅力的に感じた。
「何だよ、笑うなよ」
「別に」
「俺がなりたかったのはあっち」
差した先は、今まさに振りかぶって投げようとするマウンド上の選手だった。
「ピッチャーだったの?」
自分にだってピッチャーってことくらいわかるんだから、と言ったつもりが、
「やりたかった」
と、佐村はいつもの笑顔なのだが心残りがあるように言うだけだった。
また一球、球を放り投げてこんなところまで球を受けた音が届くことに驚くあかさ。
「できなかった?」
腕を回して見せる。
「小学校最後って試合、最初から投げさせてくれるっていうから」
佐村は反対側のスタンド席に誰か受ける人がいるかのように、投げる様を見せる。
投げ終わったその手は、笑顔が消えていく瞬間のように、緩やかに降ろされ気が失せていくようにも見えた。
「練習しまくって、ひじを痛めて」
歓声が沸いて、佐村が打たれてしまったようだ。
「俺とずっと競ってたやつが最後を投げて、おしまい」
自嘲なのか、そうでないのかわからず、あかさはただ耳を傾けることにした。
「悔しかった」
ぼそりという感じが寂しげである。
「とにかく投げればうまくなると勘違いしてたからな。頭を使って体を鍛えるって監督の言ってたことが今ならよくわかる」
「肘、痛むの?」
「投げると痛むけど、今は全然。とにかくそれで違うスポーツしてみようと思って、背が高い方が有利だっていうからバスケして」
「全然違うよね」
「だな。それに今じゃ背の高さも普通だしな」
自暴自棄とかそんな負の感情からの行動ではないのだと、あかさは佐村の表情を見て直感した。
できれば、今この球場で投げる姿を見てみたかったと残念がって、そういえばバスケ中の姿を見るとか思いながらずっと見れず仕舞いだったことを思い出した。
「今度、バスケしてるとこ、見に行くよ」
「おう」
と、がらりと雰囲気を変えておどけて見せる姿にあかさは笑った。
夕暮れは少しずつオレンジ色を強めていく。
「あの夢って誰かが持ってるイメージなんだよな?」
突然、今まで曖昧にして誤魔化してきた夢の話を、しかも思った以上に理解していることに驚きを隠せないあかさ。
「う、うん。」
「だから、これは俺の夢」
次の言葉は何だろう?
あかさは佐村に隠し事をしているようで、後ろめたい気持ちがずっとしていた。
佐村のことを思ってという理由ももちろんあるが、結局は自分のエゴでそうしているだけと、考えて行きつく答えはそういう気まずさをはらんでいた。
佐村との距離が近くなった、ただ言葉を交わしただけで全てを話せるほど気持ちにゆとりができるわけではない。
佐村がどうするのか、どうしたいのか。
それはまだあかさには想像に難く、本人しかわからないがゆえに、少し怖い。
でも問われたら答えよう、もっと自然に話したい、あかさは佐村の目を見て心で誓った。
しかし、佐村と視線は合わないまま。
ピッチャーの方を凝視しているようだった。
「だったら、あれはあいつなのかも」
「何?」
「この二つのチーム、俺とあいつが好きだって言ってたチームなんだよ」
「あんまり有名じゃないね」
「そんなことないだろ」
「野球、よく知らないから」
「そんなもんかな。で、俺が大きい姿でここにいるってことは、あいつも大きくなってあそこにいるのかもって」
「本人?」
「目は昔からいいんだけど、なんか顔だけかすんで見える」
佐村は目を細めたり、逆に開いたり試しているようだが、それはたぶん見られない。
きっとその人のことを、高校生になっているだろう姿を想像できないのだろう。
かつて自分が見た他人から見聞きした夢の中の状況と同じ。
「投げ方は似てるんだけどな」
佐村は腕を組むと、感慨深そうに見入った。
「楽しそうだね」
「もちろん。懐かしいな」
あかさも佐村の夢を見られて、まつわる話も聞けて彼を近くに感じられた。
「でも、今はもっと…」
言葉に詰まる場面でもないだろうに、佐村は言葉をつづけずにあかさに顔を向き直した。
なんだろうと見上げるあかさは、小首を傾げる。
肩に手を回し近づく佐村に、あかさはどきりとしながらも目を閉じた。
頬から首まで、もしかしたら胸が熱いのだろうか、首を伸ばすと強く打つ心臓が前に出るようだ。
こんな人がたくさんいるのに?
こんなシチュエーションとタイミングで?
時間が止まったように思考が巡るあかさ。
「霧村」
あれ?
佐村の声ではなく、ハッとして目を開く。
佐村も遅れて、声の方を見る。
それは観客の声援だと、すぐにわかった。
もちろんあかさに向けられたものではなく、先に違和感に気付いたのは佐村だった。
「あ、あれ?」
「何?」
このタイミングの外し方、なんか全てがデジャブ。
このドキドキ、私がバカみたい。
すっかり冷めてしまい、耳だけ熱さが取り残されている。
グラウンドでは試合は続いていた。
ピッチャーが構え、バットをもって対峙している選手。
その後ろ姿はどう見ても女性のものだった。
細身の体のラインが見て取れるが、構え方は様になっていていかにも本物っぽい。
あかさがよくするように、後ろで簡単に束ねた髪が印象的だった。
この距離だとあかさには顔まで見えないが、どうやら佐村は見えるようだ。
まさか。
「ちょっと、フジ」
すぐそこに相手がいるかのごとく、辺りに声をかけるあかさに、
「何か用にゃー?」
背後のフェンスの上、背景に解けいるように顔を出しているフジがそこにいた。
「あれって、また私?」
普通なら会話が成立しないのだが、
「どうして怒ってるにゃ?」
と、やはり成立しない。
あかさはフジの「にゃ」が気になって仕方ないが、佐村はグラウンドの方が気になっているようで、あかさは言葉をなくした。
ボールとバットが発する鈍く鋭い音が聞こえたかと思った次の瞬間、目の前のベンチやフェンスに打球が強烈に跳ね返る激しい音にあかさと佐村は身を縮めた。
今回はキラキラがないのね、と冷静に考えている自分に気づきながら、世界は急変した。
木陰の外に広がる日差しがまぶしい。
携帯が鳴っている。
手にした電話はブルブルとあかさの手を震わせている。
耳だけ取り残されたように、変な感じがしていた。
「あ、戻った?」
隣では佐村があらぬ方向を向いて座っているが、構わず携帯を覗いた。
「ひさきだ」
佐村はぼんやりとしていて、状況が飲めていないらしくキョロキョロとするばかりで、
「電話、出るね?」
「あ、ああ。もちろん」
少し抜けた声で返すのが精いっぱいだった。
「あかさ?」
「ひさき、大丈夫?」
「うん、何ともないよ、大丈夫。ありがとう」
「心配したよ、どうしちゃったんだろうって。みんなも」
「ごめん。連絡すればよかったね」
「そうだよ。でもよかった、やっとつながって」
「昨日来てくれたって聞いたから、そろそろ学校終わりだろうと思って電話したの」
「うん。今、家?」
 すっかり蚊帳の外になった佐村だが、今頃ようやく実感がわいてきた。
しかし、すでに遅いのである。
しばらく会話が終わるのをあかさの横顔を見ながら待っていて、それに気づいたあかさが、「じゃ、一旦切るね。すぐ行くから」
と電話を終わらせた。
「ひさき。今、家にいるんだって」
「行って来いよ。やっと、だな」
佐村の言葉にいろんな感情を受けたあかさだが、一方の佐村は内心後味の悪さに何とも言えない表情を浮かべた。
景色がさっきより落ち着いた色味をしている、たったわずかの時間しかたっていないのに二人にはそんな印象で、頭上のどこかで鳴いている二匹の蝉の声が背後の彫刻にしみ込むようだった。
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