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本編
二人暮らし
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《アスタルテ(Astarte)》…古代フェニキアの女神。愛と美と豊穣を司る「世界の真の統治者」。ある神との争いに敗れて立場を失ったが、それでもなお、女神としての力と誇りを保っている。「シンボルフラワー」は百合。
《井桁信》…19歳の男子音大生。高校時代にピアノの先生から「あなたはクラシックよりジャズに向いている」とアドバイスされて、ジャズピアニストを目指す。
この二人が、加奈子が今書いている小説の主人公である。人間と女神の「Boy Meets Girl」、いや「Girl Meets Boy」だ。ちなみに「井桁信」という名前は、「背水の陣」の武将の名前を日本風に変えたものである。漢和辞典に載っている当人の苗字の本来の字義からだ。
加奈子は元々漫画家志望だったが、高校の国語の担当だった志美先生に言いくるめられて、漫画同好会ではなく文芸部に入ってしまった。部の顧問だった先生の「機関誌の挿し絵を描かせてあげるから」という言葉に乗せられたからだ。
それが彼女のターニングポイントだった。加奈子は自分の絵の才能のなさに見切りをつけて、エッセイや短編小説を書くようになったが、先生からは「あなたは小説家ではなく評論家タイプね」と言われてカチンときた。
「志美先生、元気かな?」
先生からは毎年年賀状が届く。先生は若菜の母親のクラスメイトだったが、その若菜の母親である樽川るい子は大物作家だ。しかも、バイセクシュアルを公言していて、なおかつ未婚の母だ。ちなみに志美先生とるい子は、加奈子の母校である高校の卒業生(つまり、加奈子自身の大先輩)でもある。
加奈子は樽川るい子の小説を愛読しているが、目標とするにはあまりにも遠過ぎる。
そして今、加奈子が書いている小説の主人公がクラシックピアノからジャズピアノに転向したのは、志美先生のアドバイスが元になっている。
しかし、かつての加奈子には自分がプロの漫画家になって、自分の作品がアニメ化して、主人公のお人形が発売されるという夢があった。その名残としての、もう一つの趣味。それはドールカスタマイズだ。
手足が自由に動くボディの着せ替え人形の顔を自分で描いて、オリジナルキャラクターを作る。加奈子はこれで、自分が書いている小説の登場人物を何人かドール化した。
「ヒデさん、おいしい?」
「うむ、うまい」
今日の夕食は、大根の味噌汁に、サバのムニエル、そして、海藻サラダ。
ヒデさん…秀虎は、現代の食生活が気に入ったようだ。もちろん、首から下がないので、加奈子が秀虎に食べさせている。
ご飯を箸でつまみ、秀虎の口に運ぶ。秀虎がご飯を噛み、飲み込むたびに、首の切り口から生えた「根っこ」が髪の毛と一緒に揺らめく。気のせいか、「根っこ」のあちこちが膨張しているように見える。
加奈子は気持ちが落ち着いてから思う。秀虎は結構男前な顔立ちなのだ。なぜかオスカー・ワイルドの『サロメ』を思い出すが、さすがに生首にキスなんて出来ない。第一、「まだ」そんな関係ではないのだ。
加奈子は洗面所から、水を入れたコップと新品の歯ブラシ、歯磨き粉と洗面器を持ってきた。
「それは?」
「歯磨きよ。虫歯にならないようにね」
この状態の秀虎が虫歯になっても、歯医者に連れて行く訳には行かない。たとえ、相手が自分の叔母であろうとも。
加奈子の叔母・花川美佐子はホラーが苦手なのだ。加奈子自身もホラー映画は苦手だが、彼女自身は単なる怖がりに過ぎない。しかし、美佐子は「ホラーは性悪説に基づいているから嫌い」だというのだ。そのような理由でああいうジャンルを嫌うのは珍しい。
「はい、あーんして」
加奈子は新品の歯ブラシに歯磨き粉を適量つけて、秀虎の口に入れた。
「そのままあーんして」
「あがが…」
加奈子は右手に歯ブラシ、左手に手鏡を持って、丁寧に秀虎の歯を磨いた。叔母が言うには、あまり力を入れ過ぎて磨くのは、かえって歯の表面を削ってしまうので良くない。適度な力で丁寧に磨けば、歯茎を傷つける危険性は低いそうだ。
歯ブラシだけでなく、糸楊枝も使う。これで、一通り磨き上がったハズだ。
「さて、ゆすぎましょう。水を入れるよ」
「う…」
「グチュグチュゆすいで、この洗面器に吐いてね」
「…ぺっ」
一連の作業が終わってから、秀虎は言った。
「何だ、この歯磨き粉というのは? 口の中がスースーするぞ」
「昔の歯の手入れは楊枝とかくらいだったんでしょ?」
「塩をつけて、こすったりもしていたぞ」
「でも、それだけではあまり爽快感はないでしょ?」
「うむ…言われてみれば、この口の感じも悪くはないな」
秀虎は納得したようだ。
⭐
加奈子は行きつけの美容院「マザーシップ」で、髪を切ってもらった。この美容院の店長である美容師は、いわゆるオネエ系のゲイ男性で、若菜の恋人茨戸さやかとは時々近所の居酒屋で飲み会をしているようだが、この美容師親船正章には作家の彼氏がいるようだ。
若菜の母親である大物作家といい、売れっ子漫画家の茨戸さやかといい、加奈子の知り合いにはなぜか、出版業界関係者が何人かいる。さらに、加奈子の父親の兄、すなわち加奈子の伯父である花川真一は、今は北海道の余市でリンゴ農家の仕事をしているが、脱サラする前はある出版社で働く編集者だった。しかし、今の加奈子には、小説の新人賞に入選出来るだけの力量はない。
「ホントにいいの? かなり短くなるけど」
「思いっ切り、バッサリお願いします!」
「ずいぶんと思い切ってるねぇ」
ネットトラブルなどの嫌な事を忘れるためにも、加奈子は髪型をスッキリさせた。「女は失恋すると髪を切る」なんてシチュエーションが古典的なフィクションにはあるけど、構うもんか! そもそも、彼女は問題のネットトラブルとは無関係に髪を切る予定だったし、彼女の髪型の基本はショートヘアなのだ。
なぜなら、その方が手入れが楽だからだ。髪型だけではない。彼女はシンプルな格好を好む。加奈子は「マザーシップ」を出てから、ショッピングモールに服を買いに行った。
加奈子は喉が乾いたので、自動販売機で缶入りミルクティーを買い、自販機のそばのベンチに座って飲んだ。そして、飲みながら携帯電話を手にし、ケータイ小説サイトを見た。
叔母美佐子の一人息子で加奈子の従弟花川倫の恋人、桐野小百合。ハンドルネームは実生活での愛称と同じ「サユ」。倫と同じ大学に通う彼女は、このサイトでケータイ小説を書いている。
小百合も加奈子と同じくプロの作家志望なのかは、分からない。とりあえず、加奈子の書く作品とは全く方向性が違う。しかし、ケータイ小説にしては面白い。
倫が小百合を我が家に連れてきて紹介したのは、二人が中学生時代。加奈子は高校に進学したばかりだった。二人はそれ以来の関係だ。
小百合は人当たりの良い子で、叔母も彼女に対して好印象があったようだ。なるほど、息子の将来のお嫁さん候補として悪くはない、といったところか。
加奈子はミルクティーを飲み干し、携帯電話をショルダーバッグにしまって、空き缶をゴミ箱に入れた。家では秀虎が待っている。早くスーパーに食材を買いに行って帰ろう。
《井桁信》…19歳の男子音大生。高校時代にピアノの先生から「あなたはクラシックよりジャズに向いている」とアドバイスされて、ジャズピアニストを目指す。
この二人が、加奈子が今書いている小説の主人公である。人間と女神の「Boy Meets Girl」、いや「Girl Meets Boy」だ。ちなみに「井桁信」という名前は、「背水の陣」の武将の名前を日本風に変えたものである。漢和辞典に載っている当人の苗字の本来の字義からだ。
加奈子は元々漫画家志望だったが、高校の国語の担当だった志美先生に言いくるめられて、漫画同好会ではなく文芸部に入ってしまった。部の顧問だった先生の「機関誌の挿し絵を描かせてあげるから」という言葉に乗せられたからだ。
それが彼女のターニングポイントだった。加奈子は自分の絵の才能のなさに見切りをつけて、エッセイや短編小説を書くようになったが、先生からは「あなたは小説家ではなく評論家タイプね」と言われてカチンときた。
「志美先生、元気かな?」
先生からは毎年年賀状が届く。先生は若菜の母親のクラスメイトだったが、その若菜の母親である樽川るい子は大物作家だ。しかも、バイセクシュアルを公言していて、なおかつ未婚の母だ。ちなみに志美先生とるい子は、加奈子の母校である高校の卒業生(つまり、加奈子自身の大先輩)でもある。
加奈子は樽川るい子の小説を愛読しているが、目標とするにはあまりにも遠過ぎる。
そして今、加奈子が書いている小説の主人公がクラシックピアノからジャズピアノに転向したのは、志美先生のアドバイスが元になっている。
しかし、かつての加奈子には自分がプロの漫画家になって、自分の作品がアニメ化して、主人公のお人形が発売されるという夢があった。その名残としての、もう一つの趣味。それはドールカスタマイズだ。
手足が自由に動くボディの着せ替え人形の顔を自分で描いて、オリジナルキャラクターを作る。加奈子はこれで、自分が書いている小説の登場人物を何人かドール化した。
「ヒデさん、おいしい?」
「うむ、うまい」
今日の夕食は、大根の味噌汁に、サバのムニエル、そして、海藻サラダ。
ヒデさん…秀虎は、現代の食生活が気に入ったようだ。もちろん、首から下がないので、加奈子が秀虎に食べさせている。
ご飯を箸でつまみ、秀虎の口に運ぶ。秀虎がご飯を噛み、飲み込むたびに、首の切り口から生えた「根っこ」が髪の毛と一緒に揺らめく。気のせいか、「根っこ」のあちこちが膨張しているように見える。
加奈子は気持ちが落ち着いてから思う。秀虎は結構男前な顔立ちなのだ。なぜかオスカー・ワイルドの『サロメ』を思い出すが、さすがに生首にキスなんて出来ない。第一、「まだ」そんな関係ではないのだ。
加奈子は洗面所から、水を入れたコップと新品の歯ブラシ、歯磨き粉と洗面器を持ってきた。
「それは?」
「歯磨きよ。虫歯にならないようにね」
この状態の秀虎が虫歯になっても、歯医者に連れて行く訳には行かない。たとえ、相手が自分の叔母であろうとも。
加奈子の叔母・花川美佐子はホラーが苦手なのだ。加奈子自身もホラー映画は苦手だが、彼女自身は単なる怖がりに過ぎない。しかし、美佐子は「ホラーは性悪説に基づいているから嫌い」だというのだ。そのような理由でああいうジャンルを嫌うのは珍しい。
「はい、あーんして」
加奈子は新品の歯ブラシに歯磨き粉を適量つけて、秀虎の口に入れた。
「そのままあーんして」
「あがが…」
加奈子は右手に歯ブラシ、左手に手鏡を持って、丁寧に秀虎の歯を磨いた。叔母が言うには、あまり力を入れ過ぎて磨くのは、かえって歯の表面を削ってしまうので良くない。適度な力で丁寧に磨けば、歯茎を傷つける危険性は低いそうだ。
歯ブラシだけでなく、糸楊枝も使う。これで、一通り磨き上がったハズだ。
「さて、ゆすぎましょう。水を入れるよ」
「う…」
「グチュグチュゆすいで、この洗面器に吐いてね」
「…ぺっ」
一連の作業が終わってから、秀虎は言った。
「何だ、この歯磨き粉というのは? 口の中がスースーするぞ」
「昔の歯の手入れは楊枝とかくらいだったんでしょ?」
「塩をつけて、こすったりもしていたぞ」
「でも、それだけではあまり爽快感はないでしょ?」
「うむ…言われてみれば、この口の感じも悪くはないな」
秀虎は納得したようだ。
⭐
加奈子は行きつけの美容院「マザーシップ」で、髪を切ってもらった。この美容院の店長である美容師は、いわゆるオネエ系のゲイ男性で、若菜の恋人茨戸さやかとは時々近所の居酒屋で飲み会をしているようだが、この美容師親船正章には作家の彼氏がいるようだ。
若菜の母親である大物作家といい、売れっ子漫画家の茨戸さやかといい、加奈子の知り合いにはなぜか、出版業界関係者が何人かいる。さらに、加奈子の父親の兄、すなわち加奈子の伯父である花川真一は、今は北海道の余市でリンゴ農家の仕事をしているが、脱サラする前はある出版社で働く編集者だった。しかし、今の加奈子には、小説の新人賞に入選出来るだけの力量はない。
「ホントにいいの? かなり短くなるけど」
「思いっ切り、バッサリお願いします!」
「ずいぶんと思い切ってるねぇ」
ネットトラブルなどの嫌な事を忘れるためにも、加奈子は髪型をスッキリさせた。「女は失恋すると髪を切る」なんてシチュエーションが古典的なフィクションにはあるけど、構うもんか! そもそも、彼女は問題のネットトラブルとは無関係に髪を切る予定だったし、彼女の髪型の基本はショートヘアなのだ。
なぜなら、その方が手入れが楽だからだ。髪型だけではない。彼女はシンプルな格好を好む。加奈子は「マザーシップ」を出てから、ショッピングモールに服を買いに行った。
加奈子は喉が乾いたので、自動販売機で缶入りミルクティーを買い、自販機のそばのベンチに座って飲んだ。そして、飲みながら携帯電話を手にし、ケータイ小説サイトを見た。
叔母美佐子の一人息子で加奈子の従弟花川倫の恋人、桐野小百合。ハンドルネームは実生活での愛称と同じ「サユ」。倫と同じ大学に通う彼女は、このサイトでケータイ小説を書いている。
小百合も加奈子と同じくプロの作家志望なのかは、分からない。とりあえず、加奈子の書く作品とは全く方向性が違う。しかし、ケータイ小説にしては面白い。
倫が小百合を我が家に連れてきて紹介したのは、二人が中学生時代。加奈子は高校に進学したばかりだった。二人はそれ以来の関係だ。
小百合は人当たりの良い子で、叔母も彼女に対して好印象があったようだ。なるほど、息子の将来のお嫁さん候補として悪くはない、といったところか。
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