金管の奏でる青い空 〜星降る丘のハーモニー〜

霞音

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第0章 青空学園吹奏楽部

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第4章「見えない壁」

六月下旬。空は厚い雲に覆われ、梅雨特有の湿った空気が音楽棟にも重く垂れ込めていた。窓ガラスを叩く雨音は止むことなく続き、外での練習はもちろん、気分転換に星見が丘へ行くこともできない日々が続いていた。

吹奏楽部は、コンクールに向けて室内での練習に集中していたが、その空気は以前にも増してピリピリとしたものになっていた。外に出られない閉塞感が、部員たちの焦りや苛立ちを増幅させているかのようだ。

準レギュラーに昇格した陽菜は、念願だった合奏練習に参加できるようになっていた。初めてレギュラーメンバーと共に音を出す喜びは大きかったが、同時に、彼らとの歴然とした実力差、そして常に完璧な演奏を繰り広げる水城舞の存在が、重いプレッシャーとなってのしかかっていた。

特にパート練習では、水城と隣り合わせになる機会も増え、陽菜は常に張り詰めた糸の上を歩くような心地だった。水城は陽菜の僅かなミスも見逃さず、冷徹な指摘を繰り返す。悪意があるのか、それとも彼女にとってはそれが普通なのか、陽菜には判断がつかなかった。


1.月例テストと新たな配置

そんな重苦しい空気の中、月例の部内テストが行われた。コンクールメンバーの最終選考も兼ねた重要なテストだ。

「さて、今日は月例の部内テストを行う。コンクールを視野に入れ、各パートのレギュラー・準レギュラーを再編成する。特にレギュラーメンバーは、この結果がコンクールでの立ち位置に直結すると心得ておくように」

顧問の高田の言葉に、部員たちの間に緊張が走る。陽菜も、この数週間の練習の成果を試される時だと、唇を噛みしめた。水城の冷たい視線を感じながらも、陽菜は星見が丘で霧島と練習した「表現」を意識し、心を込めて演奏した。

翌日発表された結果。トランペットパートでは、やはり水城がトップの座を維持し、霧島はソロパートを担当する別格扱い。陽菜は、今回も「準レギュラー」のままだった。しかし、パート内での評価は着実に上がっており、担当するフレーズも以前より増えることになった。一歩ずつだが、確実に前に進んでいる実感があった。

「陽菜、良かったね! 確実に上達してるって、先生も言ってたよ」

美咲が自分のことのように喜んでくれる。

「うん、ありがとう。まだまだだけど、少しずつ合奏にも慣れてきたかな」

陽菜は素直に喜んだ。だが、結果が貼り出された掲示板の前で、水城が何か納得いかないような、苦々しい表情を浮かべているのを、陽菜は目撃してしまった。その瞳の奥に揺らめいたのは、焦りの色か、それとも別の感情か。陽菜の胸に、小さな不安の染みが広がった。


2.小さな嫌がらせの始まり

その不安は、数日後に現実のものとなった。

パート練習である程度の責任あるフレーズを任されるようになった陽菜。その日の放課後、明日の練習に備えて楽譜を確認しようと部室の自分のロッカーを開けた瞬間、陽菜は息を呑んだ。一番大事にしている、書き込みだらけの練習用スコアファイルが見当たらないのだ。

「あれ……? 昨日、確かにここに入れたはずなのに……」

心臓が早鐘を打つ。焦ってロッカーの中を隅々まで探すが、どこにもない。他の楽譜に紛れ込んでいるわけでもない。結局、その日は他の部員に楽譜を借りてなんとか練習に参加したが、陽菜の心は全く落ち着かなかった。あれがないと、明日の練習に支障が出る。

そして翌日。不安な気持ちで部室に向かうと、今度は自分のトランペットケースを開けて、陽菜はさらに青ざめた。いつも決まった場所に収めているはずのマウスピースが、ない。

「うそ……どうして……?」

ケースの中を何度も確認し、周辺を探すが、どこにも見当たらない。予備のマウスピースは持っているが、それはあくまで緊急用で、吹き慣れた愛用のものとは感覚が全く違う。これではまともな音が出せないかもしれない。

「どうしよう……練習に、ならない……」

パニックになりかけながら、楽器庫や準備室を必死に探していると、たまたま通りかかった副部長の成瀬が声をかけてきた。彼の太い眉が心配そうに寄せられている。

「おい、佐々木。そんなところで何やってるんだ? 顔色が悪いぞ」

「せ、成瀬先輩……あの、マウスピースが……なくなっちゃって……」

声が震える。事情を聞いた成瀬は、「何だって? それは大変だな」と顔をしかめ、「よし、俺も一緒に探す。誰かが間違えて持っていったのかもしれんしな」と、すぐに手伝ってくれた。彼の厳格さの中にある面倒見の良さが、不安な陽菜の心を少しだけ和らげる。

二人で部室やその周辺をくまなく探したが、結局マウスピースは見つからないまま、練習開始の時間が迫ってきた。陽菜は仕方なく、古い予備のマウスピースで練習に参加するしかなかった。

その日の練習が終わる頃、音楽室の隅、誰も気づかないような場所に、陽菜のマウスピースがぽつんと落ちているのが発見された。発見したのは、後片付けをしていた霧島だった。

「……これ、お前のじゃないか」

霧島から手渡されたマウスピースを見て、陽菜は安堵と同時に、言いようのない嫌な予感を覚えた。マウスピースの先端部分……唇が直接触れるリムの部分に、硬いもので引っ掻いたような、小さな、しかし確実な傷がつけられていたのだ。

(傷……? これじゃあ、ちゃんと吹けないかもしれない……。もしかして、誰かがわざと……?)

そんな疑念が、冷たい霧のように心を覆っていく。陽菜は言葉を失い、ただ傷ついたマウスピースを握りしめることしかできなかった。隣にいた霧島の表情が、みるみるうちに険しくなっていくのが分かった。

美咲に相談すると、「ひどい……。やっぱり嫌がらせだよ、これ。でも、誰がやったかなんて……」と顔を曇らせた。「とりあえず、修理できるか楽器屋さんに持っていってみよう」と言ってくれたが、陽菜の心は晴れなかった。

その日以来、陽菜は部室にいる間、常に誰かの視線を感じるような、息苦しさを覚えるようになった。


3.霧島の怒り

雨が降り続く日の夜、星見が丘へ行くこともできず、陽菜は自室で傷ついたマウスピースを眺めながら考え込んでいた。修理に出してみたものの、完全に元通りにはならず、吹き心地には微妙な違和感が残ってしまった。練習に集中しようとしても、どうしてもあの傷が気になってしまう。

(誰が、どうして……? 私、何かしたかな……)

翌日、部活の休憩時間に、陽菜は思い切って霧島に声をかけた。彼なら何か気づいているかもしれない、という淡い期待があった。人気のない廊下の隅で、陽菜はマウスピースの件、そして以前スコアがなくなったことを正直に打ち明けた。話しているうちに、抑えていた感情がこみ上げ、声が震え、涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。

霧島は黙って陽菜の話を聞いていたが、その表情は次第に険しくなり、やがて静かな、しかし底知れない怒りの色を帯びていった。

「……それは、ただの悪戯じゃない。明確な悪意を持った、嫌がらせだ」

霧島の低い声には、普段の彼からは想像もできないほどの怒気が含まれていた。

「一体、誰がそんなことを……」

陽菜が呟く。

「断定はできん。だが……」

霧島は忌々しげに言葉を続けた。

「最近、水城の周りが妙に荒れているのは確かだ。あいつが直接手を下したかは分からんが、あいつの言動が、誰かの歪んだ感情を刺激した可能性はある」

「水城さんが……?」

陽菜は目を見開いた。確かに、水城は最近ますます追い詰められているように見える。けれど、彼女がこんな陰湿なことをするだろうか? あのプライドの高い彼女が?

「音楽を……いや、人の努力や想いを、こんな形で踏みにじる行為は、絶対に許せない」

霧島の拳が固く握り締められている。

「もし、あいつの仕業、あるいはあいつが原因だとしたら……俺は、黙っていない」

その強い言葉に、陽菜は胸が熱くなった。霧島は、彼なりに、音楽という神聖なものを守ろうとしているのだ。けれど同時に、陽菜の心は複雑だった。水城への疑念と、彼女もまた苦しんでいるのではないかという思い。そして、証拠は何もないという無力感。

「……でも、私には、何もできません。誰がやったのかも分からないし……」

陽菜のか細い声に、霧島は返す言葉を見つけられないように、押し黙った。ただ、彼の瞳の奥には、陽菜を案じるような、そしてこの状況を何とかしなければならないという強い意志のようなものが宿っているように見えた。


4.すれ違う水城の心

このままではいけない。陽菜は意を決し、翌日の放課後、パート練習が終わった水城を呼び止めた。二人きりになれる音楽準備室に、半ば強引に彼女を連れて行く。

「水城さん、少しだけ、お話を聞いてください」

「……なによ。練習ならもう終わったはずだけど」

水城は苛立ちを隠さず、腕を組んで陽菜を睨みつける。

陽菜は深呼吸し、震える声で、しかし真っ直ぐに水城の目を見て切り出した。

「この前、私のマウスピースがなくなって、傷がついて戻ってきたんです。その前には楽譜も……。単刀直入に聞きます。もしかして、水城さんが何か関わっているんじゃ……」

「はぁ?」

水城の声が甲高くなる。

「私が? あなたのマウスピースを? ……本気で言ってるの?」

その表情は、怒りというよりも、心底呆れたような、そして少し傷ついたような色を浮かべていた。

「ち、違うんです! 疑っているわけじゃなくて……でも、最近の部活の雰囲気とか、色々なことがあって……誰に聞けばいいのか分からなくて……」

「……馬鹿にしないでくれる」

水城は冷たく言い放った。

「私が、そんな子供じみた、卑怯な真似をすると思ってるの? あなた程度の奏者に、そこまでする価値があるとでも?」

プライドを傷つけられた怒り。けれど、その奥には、もっと深い苦しさや孤独感が滲んでいるように陽菜には見えた。

「だったら……どうして部活の中では、まるで水城さんが私に何かしたみたいに、そんな空気になるんでしょう……?」

陽菜がそう言うと、水城はふっと自嘲的な笑みを浮かべた。

「知らないわよ。周りが勝手に私を悪者にしてるだけでしょ。自分たちに実力がないのを棚に上げて、私を妬んで、怖がって……。本当に、くだらない」

「水城さん……」

「もう放っておいてくれる? あなたも、他の部員も。才能もないくせに、変に首を突っ込んでこないで。私は、私のやり方で完璧を目指すだけだから」

それだけ言い残し、水城は準備室のドアを乱暴に開け、足早に去っていった。残された陽菜は、彼女の最後の言葉とその背中に漂う、痛々しいほどの孤独感に、胸が締め付けられる思いだった。

(やっぱり、水城さんじゃないのかもしれない……。彼女も、すごく苦しんでいるんだ……)

けれど、真犯人が分からない限り、この疑心暗鬼と息苦しさは消えない。「見えない壁」が、ますます厚く、高くなっていくのを感じながら、陽菜はただ立ち尽くすしかなかった。


5.マウスピースの破損と衝突

そして、その数日後、最悪の事態が起こる。

合奏練習の直前、陽菜が自分のトランペットケースを開けると、そこにあるはずのマウスピースが、またしても、ない。今度は予備のマウスピースすら、ロッカーから消えていた。完全に練習に参加する手段を奪われた形だ。

「そん……な……!」

怒りと悲しみ、そして絶望感で、陽菜の頭は真っ白になった。誰が? なぜ? 何度も繰り返される嫌がらせに、陽菜の心は折れかけていた。

その時、偶然近くを通りかかった霧島が、陽菜の異変と空のケースに気づいた。彼の表情が一瞬で凍りつき、次の瞬間、抑えきれない怒りがその全身から放たれた。

「……またか」

低く唸るような声。霧島は周囲を鋭く見渡し、近くにいた水城の姿を捉えると、怒りを込めた声で叫んだ。

「水城! ちょっと来い!!」

その声の激しさに、部室にいた全員の動きが止まり、空気が凍りついた。水城は驚いたように振り向き、不機嫌そうに「……なによ、また私だって言うの?」と反論しようとする。

「とぼけるな! お前が佐々木のマウスピースを隠したんだろう! 予備まで! これで何度目だと思ってるんだ!」

霧島の激しい詰問に、部員たちは息を呑んで二人を見守る。

水城は顔を真っ赤にして、しかし怯むことなく言い返した。

「だから、私じゃないって言ってるでしょ! いい加減にして! 何の証拠があってそんなこと言うのよ!」

「証拠だと? この状況がお前を指さしている! お前以外に、誰がこんな陰湿な真似をする!」

「知らないわよ! 勝手に決めつけないで!」

二人の怒声が部室に響き渡る。陽菜は「やめてください!」と叫びたいのに、声が出ない。

霧島の怒りは頂点に達していた。音楽を、そしておそらくは陽菜の努力を踏みにじる行為が、彼には許せなかったのだ。しかし、彼にも確たる証拠はない。水城の言う通り、状況証拠だけで彼女を犯人と決めつけることはできない。

「霧島くん、落ち着いて!」

部長の星野が慌てて間に入る。

「水城さんも、少し冷静になりなさい!」

副部長の成瀬も厳しい声で制止する。

睨み合う霧島と水城。しかし、水城の肩はわずかに震え、その瞳には怒りだけでなく、深い苦悩と助けを求めるような色が浮かんでいた。

「……私が壊したいのは、楽器なんかじゃない……」

水城は絞り出すような声で呟いた。

「なのに……どうして、誰も私の音を分かってくれないの……? 分かってくれないなら……もう、勝手にすればいいじゃない……!」

その言葉は、まるで悲鳴のように部室に響いた。彼女自身も、この状況に、そして自分自身に追いつめられていることが、誰の目にも明らかだった。

部室は、重苦しい沈黙に包まれた。星野と成瀬がなんとか二人を引き離し、高田顧問も駆けつけ、その場の練習は中止、全員解散となった。


6.陽菜の思いと“壁”の存在

誰もいなくなった部室で、陽菜は一人、自分の空になったトランペットケースを見つめていた。

「見えない壁がある……」

陽菜はそう感じていた。部員たちの間に渦巻く、嫉妬や焦り。水城が背負わされた「完璧」という名の重圧と、それゆえの孤独。霧島の、音楽への純粋すぎるがゆえの不器用な正義感。そして、この状況をどうにかしたいと願いながらも、何もできない自分の無力さ。それら全てが複雑に絡み合い、ぶつかり合って、厚く冷たい「見えない壁」となって、皆の心を隔てている。

その夜、陽菜は星見が丘のベンチにぽつんと座っていた。雨は上がったが、空はまだ厚い雲に覆われ、星は見えない。ただ、眼下に広がる街の灯りだけが、ぼんやりと滲んで見えた。

(結局、マウスピースは見つからなかった……。明日からの練習、どうしよう……。それより、部活、どうなっちゃうんだろう……。水城さん、本当に違うのかな……。だとしたら、誰が……? 霧島先輩も、すごく怒ってた……)

思考がまとまらない。ただ、重苦しい気持ちだけが心を支配する。

「……まだ、帰っていなかったのか」

静かな声に顔を上げると、いつの間にか霧島が隣に立っていた。彼の表情も硬い。

「先輩……」

「……悪かったな。また、感情的になってしまった」

霧島は短く謝罪した。彼が自分の非を認めるのは、まだ珍しいことだった。彼は陽菜の隣に腰を下ろした。

「でも、やはり許せないんだ。音楽は……誰かの努力や夢を、あんな形で踏みにじるためにあるんじゃない」

その言葉には、彼の音楽に対する、そしておそらくは陽菜に対する真摯な想いが込められているようで、陽菜の胸は少しだけ温かくなった。

「水城さん……すごく苦しそうでした。最後の言葉、なんだか悲鳴みたいで……。誰かに期待されることに、ずっと応えようとして、疲れちゃってるのかもしれません」

陽菜がそう言うと、霧島はわずかに眉をひそめ、夜景に視線を向けた。

「……そうかもしれんな。あいつは、完璧であることだけが自分の存在価値だと、誰かに、あるいは自分自身に、そう刷り込んできたのかもしれない。だが……どんな理由があれ、やり方を間違えれば、音楽は簡単に人を傷つける凶器にもなる」

二人はしばらく黙ったまま、眼下の街の灯りを見つめていた。湿った夜風が、ひんやりと丘を吹き抜ける。

「いつか……この壁を、壊せる日が来るんでしょうか……」

陽菜の呟きに、霧島は静かに、しかし力強く息をついた。

「……壊さなければならないんだろうな。俺たちが、そして部活全体が、音楽の本当の意味を取り戻すためにも」

「本当の、意味……」

「ああ」

霧島は陽菜に向き直り、その瞳には強い決意の色が宿っていた。

「俺も、もう逃げない。……だから、お前も諦めるな」

「……はいっ!」

陽菜は力強く頷いた。まだ解決策は見えない。けれど、霧島と共にこの壁に立ち向かう勇気が、少しだけ湧いてきた気がした。

見えない壁は、まだそこにある。分厚く、冷たく、行く手を阻むように。けれど、霧島と陽菜は、そしておそらくは水城も、この壁の向こうにある何かを、それぞれの形で探し始めていた。

それは、完璧さでもなく、評価でもなく、ただ純粋に心を響かせ合う、音楽の本当の喜びなのかもしれない。その答えを見つけるための、長く険しい道のりが、今まさに始まろうとしていた。
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