金管の奏でる青い空 〜星降る丘のハーモニー〜

霞音

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第3章 秘密のレッスン

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六月に入り、梅雨の気配が近づく中、陽菜は星見が丘での練習を一日も欠かさなかった。部内テストへのプレッシャー、水城への対抗心、そして何より「自分の音を見つけたい」という純粋な渇望が、彼女を突き動かしていた。

霧島との「秘密のレッスン」も、不定期ながら続いていた。彼が丘に現れるかどうかは日によって違ったが、陽菜は毎日、基礎練習に加えて霧島から渡された(あるいは置かれていった)手書きの譜面の練習もこなしていた。そのおかげで、技術的な安定感は着実に増し、音色にも少しずつ深みが出てきたように感じていた。


**霧島からの本格的な指導**

「……お前、ロングトーンはだいぶマシになったな。だが、まだ音が平坦すぎる」

ある日の夕暮れ、星見が丘で練習していた陽菜の背後から、霧島が唐突に声をかけた。

「平坦……ですか?」

「ああ。技術だけを追っていて、そこに何の感情も乗っていない。それではただの音の羅列だ。音楽には、表現の幅というものが必要だ」

これまで霧島が指摘してきたのは、姿勢や呼吸法、指使いといった、どちらかと言えば技術的な側面が中心だった。しかしこの日を境に、彼は少しずつ「音の表現」や「感情の込め方」といった、より音楽の本質に近い部分に踏み込んでくるようになった。まるで、陽菜の中に眠る可能性を見出し、それを引き出そうとしているかのように。

「表現の幅……どうすれば……?」陽菜が戸惑いながら尋ねると、霧島は自分のトランペットを取り出した。

「例えば、このフレーズ。単に音符どおりじゃなく、情景を思い浮かべろ。夕暮れの色とか、遠くの町の光とか…」

霧島は自分のトランペットを取り出し、「…例えば、このフレーズを吹いてみる」と短く呟くと、短い旋律を奏で始めた。その音にはほんのわずかに温かさがあった。いつもの孤高な冷たさが、少しだけ溶けたような印象。

(すごい……同じフレーズなのに、全然違う……)

陽菜は息を呑んで聴き入った。いつもの霧島の音にある、人を寄せ付けない冷たさが、ほんの少し和らぎ、代わりに人間らしい温もりや切なさが滲み出ている。完璧な技術の奥に隠されていた、彼の本当の心が垣間見えた気がして、陽菜の胸は熱くなった。

「……イメージしろ。単に音符を追うな。お前がその音で何を伝えたいのか、どんな景色を見せたいのかを考えろ。例えば……そうだな、今見えている、あの夕焼けの色を」

霧島は丘の向こうに広がる茜色の空を指さした。

「夕焼けの色……」

「やってみろ」

「わ、わかりました!」

陽菜は目を閉じ、燃えるような夕焼けの色彩、空に溶けていく雲の形、地平線に沈む太陽の最後の輝きを、懸命に頭の中に思い描いた。そしてトランペットを構え、先ほどのフレーズを、そのイメージを音に乗せるような気持ちで、ゆっくりと吹き始めた。

もちろん、すぐに霧島のように表情豊かに吹けるわけではない。音はぎこちなく、感情の込め方も手探りだ。それでも、ただ正確に吹こうとしていた時とは明らかに違う、微かな「色合い」や「温度」のようなものが、彼女の音に宿り始めた気がした。

吹き終えた陽菜を、霧島はしばらく黙って見つめていた。そして、ほんのわずかに口元を緩め、呟いた。

「……まあ、悪くない。……第一歩としてはな」

その珍しく肯定的な、そして少しだけ優しい響きを持った言葉に、陽菜は嬉しさで胸がいっぱいになった。顔が熱くなり、自然と笑みがこぼれる。もっと上手くなりたい、もっと表現できるようになりたい、という強い思いが、心の底から湧き上がってきた。


**水城への焦り、そして成長の証**

一方、部活内では、依然として水城舞がその圧倒的な存在感を放っていた。彼女のテクニックは日々磨かれ、合奏の中でも、まるで一人だけ別の次元にいるかのように完璧な演奏を繰り広げる。しかし、その完璧さゆえの人間味のなさは変わらず、他の部員たちとの間には見えない壁が存在し続けていた。

「水城さん、相変わらずすごいけど……なんだか、一緒に演奏してても心が通わない感じがするんだよね」美咲がこっそり陽菜に打ち明ける。「霧島先輩もすごいけど、あの人は最近、少しだけ周りを見ている気がする。でも水城さんは……」

陽菜も同感だった。水城の音は美しい。けれど、どこか空虚で、聴く者の心に響いてこない。霧島が言っていた「魂がない」という言葉の意味が、少しだけ分かり始めていた。

しかし、だからといって陽菜が水城に追いついたわけでは全くない。技術的な差は依然として大きい。陽菜は、「控え」から抜け出し、まずは準レギュラーとして認められるために、必死に努力を重ねていた。星見が丘での霧島の指導は、そのための大きな推進力となっていた。

そして、六月下旬。部内テストの日がやってきた。

「――次、佐々木陽菜」

名前を呼ばれ、陽菜は深呼吸をして審査員席の前に立った。顧問の高田、部長の星野、副部長の成瀬、そして各パートのリーダーたち。その中には、水城舞の姿もあった。彼女は腕を組み、冷ややかな、それでいてどこか探るような視線で陽菜をじっと見つめている。

(大丈夫。星見が丘で練習したことを思い出すんだ。夕焼けの色……私の音を出すんだ)

あの視線に怯みそうになる心を叱咤し、陽菜はトランペットを構えた。

基礎的なスケール、エチュード、そして課題曲の一部。以前のテストでは緊張で音が震え、ミスを連発してしまった。けれど、今日は違った。星見が丘で繰り返した基礎練習のおかげで、音は安定し、指も滑らかに動く。

そして、課題曲のフレーズ。陽菜はただ音符を追うのではなく、霧島に教わったように、その旋律に自分の感情を、景色を乗せようと試みた。完璧にはほど遠い。ぎこちなさもある。けれど、確かにそこには、以前の陽菜の演奏にはなかった「想い」が込められていた。それは、夕暮れの光のような、温かくて少し切ない響き。

演奏を終えたとき、審査員席からは意外そうな、しかし肯定的なざわめきが起こった。

「……佐々木、見違えたな。基礎がしっかりしてきただけでなく、音に表情が出てきた」高田顧問が驚いたように言った。星野部長も優しく微笑んでいる。

「はい、毎日、基礎練習と……イメージを持つ練習をしています」陽菜は素直に答えた。

結果は、目標としていた「準レギュラー」への昇格だった。合奏練習への参加が認められ、壁際で楽譜を追うだけの日々から、ようやく一歩前進することができたのだ。

喜びを噛み締めながら部室を出ると、廊下で霧島とすれ違った。彼は陽菜を一瞥し、短く、しかし確かな賞賛を込めて呟いた。

「……悪くない成長だ」

その一言だけで、陽菜は今までの苦労がすべて報われたような気がして、込み上げてくる涙をこらえるのが大変だった。星見が丘での孤独な練習も、霧島の不器用な指導も、決して無駄ではなかったのだ。

しかし、陽菜の成長は、同時に新たな波紋を呼ぶことにもなる。部室の隅で、陽菜が昇格したことを知った水城舞が、誰も気づかないように、ほんの一瞬だけ、悔しさと焦りが入り混じった複雑な表情を浮かべていたことを、この時の陽菜はまだ知らなかった。

「準レギュラー」として、水城と同じパート練習に参加することになる陽菜。二人の天才と、努力で這い上がってきた陽菜。三人のトランペット奏者の関係は、ここからさらに複雑に絡み合い、新たな物語を紡ぎ始めていくことになる――。
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