死者と竜の交わる時

逸れの二時

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第一章

冒険の始まり

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この森は安全とは言えない。そのことは親から聞かされてはいたが、村娘の彼女にはもはや幻想にさえ思えた。

顔を上げれば広葉樹の葉がさやさやと風に揺れて心地よい音を奏でているし、足元の地面を眺めてみれば、沢山の植物がどこまでも続くように広がっている。人間に牙を向くような危うさを、この穏やかな森が孕んでいるなんて彼女には到底信じられるはずもなかったのだ。

だから今、彼女は鼻歌交じりに森を散策しては、群生している薬草を丁寧に摘み取っている。たとえ遠くの草場がガサリと音を立てても、リスやハリネズミのような小動物の可愛いイタズラだろうと思い込んで。

だがそれが全くの間違いだったと気付いたのは、彼女にとっては人生最大の幸運だったのかも知れない。何しろそうでなければどうなっていたか。彼女は想像すらしたくないだろうから――。

不用意な彼女が踏み入ったこのゲルナードの森からは、滅多に魔物がやってこない。なぜなら森の中ですべてが完結するような弱肉強食の世界が出来上がっているからだ。

彼女が想像したリスだってキツネに見つかればその腹に収まることだろうし、そのキツネですら、人型のニンジンのような魔物に餌食にされるのはよく見る光景であろう。自然は穏やかな顔をしているからこそ、残酷な一面を軽視してはならないのだ。

その大事な鉄則を知っているこの魔術師の青年は、森から外れた安全な草原の広大さを余すことなく堪能していた。

暗い青色をしたローブを纏う彼は、春の生暖かい風を受けて大きくたなびく黒の外套が気に入っている。食べ物や衣服、さらには交友関係にまで頓着しない彼には大変珍しいことだ。それほどまでにこの外套には上品な趣が感じられるのである。

しかし頓着しない性格とは言え、彼にも顔をしかめるものの一つくらいはある。その一つが眩しい朝日だ。いや、朝日だけではない。太陽の光そのものが彼には興ざめそのものだった。と言うのも、彼の体は日光を受け付けない体質なのだ。

あの神々しい日の光を、一切の気兼ねなく真正面に浴びたのはいつだったか。彼はそれをすぐには思い出せないが、もはや思い出す必要もないかもしれないと思い始めていた。

そんな彼が緑色の魔法帽を深く被り直していると、ブーツが草を踏みしめる音にまぎれ、悲鳴のような甲高い声が聞こえてきた。咄嗟に適切な魔法を選択した彼は、すぐさまその詠唱を始める。

真新しい木の杖の先が緑色に発光しているのは知覚魔法を唱えていることの表れだ。悲鳴の聞こえる方向に何が見えるのか。それを明らかにする魔法を、彼は今まさに扱っていた。

ざわめくような風のささやきと共に、一言ずつ言の葉が紡がれていく。それが大きな流れを成して意図する意味を形作ると、彼の暗い色の瞳は鋭い光を帯びた。そのまま声のする方に目を向けると、その瞳はある少女の危機を捉えた。

鬱蒼と広がる森林から抜けるようにして、彼女が何かから逃げようと必死に駆けている。少女の後を追うのは……六匹ほどの緑色の魔物だ。

その状況を理解した刹那――彼は走り出した。


青銅の重鎧を身に着けた竜族の若者は、所々に傷が刻まれたブロードソードを帯び、その大柄な体を半分ほども隠す大きな盾を、特に苦労する様子もなく平然と背負っていた。二本の流れるような角と灰色の体が印象的な彼は、太陽の光を遮る森に沿って歩いている。

彼自身はその立派な角と灰色の体は竜族として誇りに思っていたが、そう思わない者に囲まれたおかげで人間種に憧れたりするはめにもなった。

だが生まれ持った体はどうにもならない。苦悩する中でそれを悟った竜族の彼は、毎朝剣の訓練をして自分の強みを生かすことに決めたのだ。

来る日も来る日も魔物を倒しながら訓練し、それからというもの、朝日を見るたび気分が晴れるようになった。それは紛れもなく彼の努力の証であった。

そんな彼に訪れた今日という日も朝日の降り注ぐ美しい日だった。

ああ、なんて気分のいい日だろう。こんな日は澄み渡った青空の下、生活を脅かす醜い魔物どもを駆逐してやりたい。

彼がそんな血生臭い願望を抱えていると、突如として悲鳴のような甲高い声がうっすらと聞こえた。彼が声のした方を見てみると、何とか目視できる程の遠くで、少女が六匹の魔物の群れから逃げようと必死に走り続けている。

それを見た彼の顔は――邪悪に歪んだ。


「いや、やめて……!」

ついに追い詰められた少女は魔物たちに懇願する。森から抜けたむき出しの地面にもかかわらず、小さな石に躓いて転倒した少女の元に魔物たちが迫った。彼らの耳は鋭く尖っており、その吊り上った目には、強烈な殺意の色が見て取れる。

鈍そうな剣を引き抜いた魔物たちが少女に一歩ずつ近づくにつれて、彼女の瞳に映る魔物たちは絶望となってその大きさを少しずつ増していく。

残酷にも死を覚悟した少女。

そこへ颯爽と二人の若者が駆けつけた。重戦士といった竜族の若者と、魔術師の風貌をした青年である。

二人は少女を守るようにして前方に立ち、武器を構えてゴブリンたちに向けた。

「右の奴らは任せろ」

「では私は左の魔物を片付けます!」

彼らはそう言い合って魔物を選ぶと、戦士は盾を背負ったまま両手持ちで剣を構え、魔術師は杖を握り絞めて静かに詠唱を始めた。

予期せぬ乱入者にまごついているその隙に、竜族の戦士が走りだしてゴブリンたちと接敵。彼の顔に不気味な笑いが浮かんだぞの刹那――

二匹のゴブリンの首が宙を舞った。

ゴトリと落ちたゴブリンの頭部が目を見開くその傍らで、大ぶりの剣が魔物の血で赤黒く染まる。振り下ろした剣の切っ先から、赤い珠が一滴、また一滴と滴り落ちた。

突然の出来事にまるで凍りついたように固まったゴブリンたち。竜族の戦士がフウッと息をするのと同時に彼らの時間は動き出した。近くの一体が奇声をあげて竜族の戦士に切りかかってくる。

だが戦士に隙はなかった。地面を這うように振り上げられた彼の剣はその魔物を両断し、さらなる血の抱擁を受けてひっそりと佇んでいた。

そのとき、戦士の横を抜けたゴブリンたちが魔術師の青年に迫り来る。

しかし一歩も動かない青年。彼は未だ静かな様子で集中し、詠唱を続けている。天に掲げている杖の先は、彼の囁きと共に強く確かに青く輝き、みるみるうちに周囲が冷たい空気に包まれていく。

粛然とした目がゴブリンたちの姿を今一度ハッキリと捉え直したとき、冷たく尖った詠唱が――終わった。

“アイスソーン”

魔法の名が叫ばれると、周囲の空気が一気に研ぎ澄まされた。空中に幾つもの氷の棘が創り出され、青銀の軌跡をたどってゴブリンたちに向かっていく。

その放たれた氷の棘は三体ものゴブリンの頭部を正確に貫いていき、生命の要とも言える体温を無情にも奪い去っていった――。




ここまでお読みいただきまして、本当にありがとうございます。

序盤は戦闘描写、中盤以降は登場人物の個性や背景にも力を入れておりますので、そちらに注目していただけるとより楽しめるかもしれません。

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