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第32章 彼はなくてはならない人のようです

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バイオレットがヒースのオフィスに通うようになって数日が過ぎた。ミデオンの観光をするよりもヒースの仕事場にいる方が楽しい。彼から片時も離れたくないのだ。ヒースは恥ずかしがって、仕事をしている時の様子をなかなか見せてくれないが、部下に接する時の態度はバイオレットに対する時よりも、厳しい表情でぶっきらぼうな程に事務的だった。それでもバイオレットは何もかもときめいた。恋をするとはこういう事なのだろうか。仕事の顔をバイオレットに見られているのに気づいてヒースが少し恥ずかしそうにするのも、バイオレットにとってはご褒美だった。

ヒースは、バイオレットの前に姿を現せないほどの危険な仕事をしていると言うが、バイオレットが見ている範囲では、そのようなものはなかった。刃物や銃弾が飛び交うような凄惨な現場を勝手に想像していたが、実際は淡々とした地味なものだった。当然、バイオレットにそんなところは見せないだろうが、何だか拍子抜けしてしまった。

(やっぱりヒースが大げさに言っているだけなんじゃないかしら。別に賭け事自体は違法ではないし……)

バイオレットはそんな風に考えていた。周りにいるウィルもアネッサも危険な人物には見えないし、何が問題か分からなかった。次第にその他のスタッフにも顔を覚えられたようで、バイオレットを見て挨拶するようになった。

(ところで私は周りからどう見られているのだろう……やっぱり変に思われるわよね?)

有頂天になってしばらく気付かなかったが、バイオレットの立場は随分微妙なものに違いない。それまで仕事一筋だったヒースが突然女を連れ込むようになったのだから、スタッフたちは相当驚いたはずだ。アネッサに相談したら「大丈夫よ! ボスにも春が来たんだなとしか思われないから」と一笑に付されてしまったが。

日中はアネッサやウィルと一緒に過ごすことが多かった。アネッサは、従業員をまとめる責任者だった。交友関係も派手だが、男性の従業員に囲まれながらてきぱき指示する様は格好よかった。

その日は、アネッサに急用ができてバイオレットは一人部屋に残された。すぐに戻るからと言われ、バイオレットは応接室で待っていた。すると扉がガチャリと開き、見慣れぬ男性が入って来た。

「すいません、この部屋をお使いになるのでしたらすぐに移動しますので」

バイオレットはそう言って腰を浮かしかけたが、相手は手で制した。

「いや、いいんです。あなたに用があるので」

バイオレットに用があるとはどういう意味だろう? しかも相手は知らない人物だ。年齢は40代くらいで髪には白いものが交っており腫れぼったいまぶたをしているが、顔つきはまだ若々しく精力的に見えた。彼は秘書らしき者を伴っており、二人ともバイオレットの向かい側に腰を下ろした。

「ご挨拶が遅れました。ボスの直属の部下のヒューゴ・ジョーダンと申します。分かりやすく言うとここのナンバー2で、カジノの統括マネージャーを任されています」

相手は丁重に礼をしながら自己紹介した。バイオレットも慌てて礼を返した。

「バイオレット・ヘイワードと言います。ヒースとは昔からの知り合いです。急にお邪魔して申し訳ありません」

「いえいえとんでもない。ボスが女性を連れてくるなんて今までなかったから少々驚きましたが。昔からのご友人なのですね」

ヒューゴは足を組んでくつろいだ姿勢になりながら言った。穏やかな笑みを浮かべているが眼光は鋭く、まっすぐバイオレットを見ている。バイオレットは射すくめられたような気分になった。

「ええ、最近久しぶりに会って旧交を温めるようになりました。カジノという場所がどういうところなのか興味あったのでわがままを言って見せてもらったんです」

「あなたはその若さでホテル経営の仕事をしていると聞きました。若い女性が自分で道を切り開くのは大変なことでしょう。いやはや、感心しました」

どこからその情報を入手したのだろう。バイオレットはびっくりして目を見開いた。

「え、ええ。よくご存じですね。自宅を改装した小規模のものなんですが、なんとか続けられています」

「となると、なかなかまとまった休みも取れないでしょう。ここに来てからずいぶん経ちますが、ホテルの方は大丈夫ですか?」

どう答えたらいいのだろう。バイオレットは目を泳がせながら適当な答えを探した。

「うちの従業員はみな優秀なので大丈夫なはずです。昔からいるスタッフなので」

「なんでもうちにいた者が働いているという話じゃないですか。ディーラーをしていたトーマスやアネッサの妹のマーサとか。すごい偶然ですね」

バイオレットは緊張で身をこわばらせた。なぜそんなことまで知っているのだろう。

「あの……ヒースに聞いたんですか? それとも……」

「申し訳ないが、あなたのことを調べさせてもらいました。人を寄せ付けないボスが女性を連れてくるなんて前代未聞だったから不思議に思って。するとボスがかなりの援助をしているホテルだと分かりました。それも随分前から」

ヒューゴは秘書から紙の束を受け取ってテーブルの上に無造作に置いた。そこには、ヘイワード・インの建物や従業員たちの写真があった。現地まで行って隠し撮りしたのだろう。バイオレットはすっかり青ざめた。一体彼はバイオレットのことをどう思っているのか。変な誤解をしているならば、すぐに解かなければならないと思った。

「そのことはつい最近まで私は知らなかったんです。本当です。再会したのも数か月前のことで」

「あなたはボスの何なんですか。昔からの関係なら、なぜ今になってここに姿を現したのですか。すっかりボスはあなたにのぼせてるようだが。一体何の意図があるんですか」

矢継ぎ早に質問されて、バイオレットは頭が混乱してしまった。意図と言われても分からない。ただ好きだからとしか言いようないが、そんな説明で理解してもらえるはずもなかった。どう言えば他意はないと分かってもらえるのだろう。バイオレットはうつむいたまま黙ってしまった。

「エルドラドはミデオンの繁華街の頂点に君臨する存在です。その代表がヒース・クロックフォード。マフィアと持ちつ持たれつやりながら、骨までしゃぶられないように絶妙なバランスを保って経営するのは並大抵のことではない。彼はうちに必要な人材なんです」

バイオレットは、下を向きながら消え入りそうな声で「分かってます……」と言うのがやっとだった。

「それなら、彼を奪わないと約束してくれませんか? 金銭や人材の援助は構いません。しかし、彼にはそれ以上の使命があるんです。ミデオンの裏社会の秩序を守るという使命が。それは分かってもらえますよね?」

ヒューゴの口調はあくまでも穏やかで、表情も笑みを絶やすことはなかった。しかし、バイオレットは喉元にナイフを突きつけられているような気分になった。ヒースと一緒に働いている人はこんなに怖い人たちなのか。今まで物事の一面しか見ていなかった自分の甘さを呪った。

「一緒になるなと言ってるわけじゃないんです。あなたがここに住むと言うならば。でもそうじゃないんでしょう? 別居生活を送ってたまに会うんですか? そんな先進的なタイプには見えない。ボスはあなたに心酔している様子だが、あなたが彼を連れて行ったらここで路頭に迷う者が続出するんです。どうか分かっていただいたい」

バイオレットは喉がカラカラになった。どうすればいいか分からない。約束しろと言われてもそんな約束はできない。しかし、相手の気持ちも理解できないわけではなかった。

「お気持ちはよく分かります……ヒースが必要な人材であるということも理解しています……でも私がとやかく言えることではありません……彼が決めることですから……」

息も絶え絶えにそれだけ言うのがやっとだった。体の震えが止まらず、膝の上に置いた両手をぐっと握りしめる。それを聞いたヒューゴは目を伏せ、ふーっと深いため息を漏らした。

「そうおっしゃるなら、これだけは言いたくなかったんだが、ボスの二つ名をあなたはご存じですか?」

「二つ名?」

「そうです。『ミデオンの狂犬』、『地獄の取り立て人』、色々なのがありますが、一番有名なのは『ビッグ・ロブの殺し屋』ですよ」

「『ビッグ・ロブの殺し屋』!? どういう意味ですか?」

バイオレットは耳を疑った。殺し屋なんて物騒な言葉が出てくるとは思いも寄らなかった。ただ愕然とする彼女を、ヒューゴは無表情のまま眺めていた。

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