本業、フリーター。

Tady

文字の大きさ
上 下
3 / 4

1章 淳の過去②

しおりを挟む
「えーどうも、新しく赴任してきました北野仁です。俺が来たからには、このチームの目標は全国出場、それだけです。ビシバシ鍛えていきますんで、そのつもりで」

 新顧問の挨拶は、概ねこのようなものだった。北野は、プロチームの下部組織でコーチを務めたことのある、異色の経歴の持ち主だった。サッカー部の顧問は他にもベテランの先生が2人いたのだが、北野の赴任により、部の指導はほぼ完全に彼へと委ねられるようになった。
 プロの下部組織にいただけあって、北野の指導法は非常に本格的で、効率的かつ強度の高いものだった。元々練習についていくだけで精一杯だった淳には、さらにハードな日々を待ち受けることとなった。練習後に帰宅すると、宿題などする気にもならない。2年生になってからの最初の定期試験は、目も当たられないものだった。そんな淳をよそに、チームの成績はみるみるうちに向上した。練習試合では連戦連勝、公式戦でも地区予選を突破するといった結果を出した。
 北野の指導は、日々の部活だけにとどまらなかった。彼は部内でのタメ口を禁止し、先輩後輩間の秩序を正すようにした。淳の地域には、いわゆる少年サッカークラブが1つしかなく、サッカー経験者は自ずとそのクラブの出身者ということになる。となると小学生の頃からの間柄ということで、自然と年齢間の垣根が消滅していくのである。小学生間の1歳や2歳差など、タメ口のオンパレードであろう。ともあれ、チームは非常に体育会系らしくなった。もっとも、あくまでエンジョイ勢の淳は、この事態を敬遠していたのだが。

 夏休み、3年生が引退して新チームが始動した。淳たち2年生がチームの中心となる日がやってきたのだ。新キャプテンはもちろん、レギュラー陣は2年生がメインになった。敦も、初のメンバー入りという微かな希望を抱き、練習に臨んだ。新チーム最初の公式戦は、秋の新人戦である。チームの最終成績は、県大会本戦出場決定戦での敗退だった。その試合はPK戦にまでもつれる熾烈な争いとなり、裏方としてサポートに回っていた淳たち補欠メンバーも、最後は声を枯らして声援を送った。試合に出場したメンバー、特にPKを外した面々が涙を流す姿は、淳が36歳になった今も脳裏に焼き付いている。帰りのバスの中で、淳はこう感じた。このチームはきっと、もっと強くなる。


 段々と、チーム内の空気がピリつくようになっていった。秋の新人戦で僅差の敗北を喫したことが要因となっているのは間違いない。だがもう一つ、特に2年生たちを焦らせることがあった。1年生の台頭である。先ほど、レギュラー陣は2年生がメインだと記した。それが新人戦後には2年生が7人、1年生が4人という比率になった。また、ベンチ入りメンバーについては1年生が2年生よりも多くメンバー入りをしている構成になったのである。
 北野は学年間の上下関係を厳しくした。しかしメンバー選考に関しては、学年の上下を考慮しない実力主義だった。部活動においては、多くの学校で1年生の間は雑用を多く強いられ、試合に出場するのは上級生というのが一般的である。辛い雑用を耐えた彼らに対する顧問の温情なのか、それは分からない。読者の中にも、実力では上級生を上回っていたにもかかわらず、試合に出してもらえなかったという方がいるのではなかろうか。その点北野には、このような固定観念は一切無かったはずである。
 なぜなら彼は、プロチームの下部組織でコーチを務めていたからである。そもそもプロの下部組織が選手を育成する最大の理由は、将来的にトップチームを支える戦力を生み出すためである。そのため、彼らは選手に将来性が見いだせなくなれば、容赦なく育成を放棄する。病気やケガはもちろんのこと、身長が低いという理由だけで育成対象から外された選手すら存在する。まさに(実力以外の要素も絡む理不尽はあるものの)実力主義の世界なのだ。北野は、そんな組織からやって来た。実力のみでメンバー構成を考慮することなど、造作もないことだったろう。

 このような北野の姿勢は、チーム全体へ「実力第一」という暗黙の規律のようなものを植え付けた。そのため、淳のように実力が足りない者、練習で足を引っ張る者へのヘイトがチーム内に蔓延し始めた。

「今のパス、取れるだろうが。イライラさせんな」
「正直お前はチームに要らないんだよなw」

 別に、こんな誹謗中傷は今に始まったことではない。淳は入部してから、何度か味わった。人のいないところ、親友の真中の前で、時には顧問の前で泣きついたことすらある。だが、その度に淳はちゃんと立ち上がれた。前を向けた。
 そんな淳を一発でへし折ってしまったのが、キャプテンの陰口であった。
しおりを挟む

処理中です...