東京・キッズ

ユキトヒカリ

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短編

紫の玻璃

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 ある国の、あるお城に、とても美しく、賢い王様がいました。
 王様の周りにいる家臣もみな賢く、国をとりまく気候も穏やかに、いつも優しく王様を包み込んでくれています。民も、潤う地と水の恵みに預かり、ありがとう、王様、ありがとう、神さま、と、主君に感謝を唄い、ささげます。
 王様、新聞ですよ。と、毎朝、毎昼、毎夕、かしこい家臣が情報を王様の部屋に届けます。
 ちいさな地方の街新聞まで、王様は、細かく、逃さず、隅から隅まで読み追います。ぜんぶに目を通す時間は、ふつうのひとの半分の半分もかかりません。なにしろ、王様は、すこぶる頭が良いのです。
 腰まで伸ばした長い髪の毛先、それを、王様は人差し指にくるくると巻きます。片手には新聞を持ったまま、窓辺に目を馳せました。アメシストのようにきらめく紫色の瞳に映るのは、外にひろがる、広い広い空。どこまでもどこまでも、世界の端にまで続く青空を映す瞳は、ふ、と、まぶたに隠されます。目を閉じたまま、かれはつぶやきました。

「ああ、今日も世界は平和だね。退屈だ。非常に、退屈だ」

 昨日も平和だった。おとといも平和だった。おそらく、この後も、明日も、明後日も、さらにその先も平和なのだろうか。実に、ーー

・・・・・・

「実に、つまらない……」


【紫の玻璃はり



えっ? と、彼女は声に思わず出してしまった。そして慌てて己が唇に己が手を寄せる。
 どうしました、お客様。と、館内係は朗読を止めた。
 女性客は「すみません、中断させてしまって」と、こうべを垂れる。

「紹介してくださいと頼んだのは私だったのに、すみません」

 館内係は、いえいえ、図書を紹介するのが自分の、図書館司書の仕事ですから、と微笑みを渡した。さきほど読んだ箇所を開いたまま、女性客に尋ねた、ほかのお話にいたしましょうか?

「この書は、短編集です。ほかのお話もございますよ」
「でも……、いまのお話なんですよね? ええと、『たいくつな王様』……」
「タイトルだけをご存知で、内容をこの図書館で確認なさりたかった、と」
「はい。仲良しの子が、詳しい物語を知りたい、って言ってたから。今日は近くに勉強をしに来たので、こちらに寄って調べてみようかと……思ったんですけど」

 客の声のトーンが下がるから、司書は軽めに噴いてしまう。ああ失礼、と、こちらもお辞儀する。

「予想していた物語と違うようだ、と思ったんですね、お客様」
「はい。あの子が言うには、紫の目の王様は綺麗で賢くて、たくさん新聞を読む、優しいひと、だそうなんですが。なんだか、出足から不穏なような……」
「お客様は、出だしがマズい歌は聴かないタチだったりします?」
「やだ、そんなことはないわ、ワンコーラスは聴くわ。ドラマだって、第1話は最後まで観て最終回まで観るか決めるほうよ」
「いまの物語は、ドラマで言えば始めの7分くらいですよ」
「……うーん。どうしようかしら。借りてホタルちゃんに読み聞かせようと思ってたけど……。大丈夫? へんな王様じゃないわよね? 物語には優しいサビが効いてるよね?」

 過剰な心配だなぁ、と司書は苦笑う。ねえレディ、貴女はいったい、どんなピュアな子どもにそれを読み聞かせようっていうんです。

「左さん、ここにいたのか」



 そこへ、女性でも司書でもなき男性の声がクリアーにかかった。
 司書は首を傾げつつも立て直し、男性に「いらっしゃいませ」と微笑み、促す。
 女性のほうは戸惑いぎみに男性に「やだ、ごめんなさい、待ち合わせ時間、遅れました?」と不安げな表情を見せる。
 男性は首を横にした。

「kwaen-chanh-a-yo(大丈夫です)、まだ10分も早いですよ、左さん」
「よかった。話しかけられたから焦っちゃったわ、かんさん」
「そりゃあ、まあ。この図書館は外から館内が丸見え。そこに玄関先にあんたがいたら、見つけた以上は話しかけちまうでしょう」
「やだ、わたし、そんなに目立つ身なりだったのかな、邑治くんみたいな」
「はん、あの道楽どら息子の服飾センスは確かに致命的に悪いが。あんたの場合は、そうじゃない。あたまひとつ抜けた抜群の八頭身に、さわやかに馴染ませた艶姿。遠目に見ても解りますよ、ああ、どこかの雑誌モデルか、はたまた女優かと、見紛っちまう」

 さあっ、と、左女史は片手で頰を包みおさえ、俯いた。
 
「mwo? どうしたんです、左網三あみ令嬢」
「……ど、どうしたもなにもないわ……、いきなりそうも御世辞を並べられたら、恥ずかしくなっちゃう……」
「随分と謙遜しなさるね、あんた。美女と囃したてられても驕るなかれ、とキリストの教えにおありで?」
「なくても、ふつう、照れちゃうものだわ。ましてやそれをセリフにしたのが姜さん、あなたみたいな超イケメンとなれば。緊張で気絶しないぶん、私はまだマシなほうよ」

 司書は2人の客を交互に眺め、感嘆の息をつく。なんと絵になる、見目麗しい男女なのだろう。青年は彼女の風体を話題にしたが、彼の側もなかなか、いいや、相当だ。闇のような漆黒に銀の刺繍が施されし民族衣装それが、おそろしいほど決まって映る。


 しかし会話内容から察するに、かれらは恋愛関係には無さそうだ。待てよ、確か令嬢は『勉強に来た』と言っていた。

「お客様がたは同じ大学の生徒さんどうしだったり?」

 美男美女は「「いいえ」」とハモった。単なる受け応えすら美しいテノールとソプラノの合唱に聴こえ、司書は耳にも心地良いなぁ、と再び感嘆した。

「私は、いちおう社会人なんです。姜さんは翻訳家で」
「つまり、このイケメンさんも社会人ですよね?」
「いえ、かれは大学生でもあるんです、しかも、東郢とうえい大!」
「いやはや、マジに謙遜も甚だしいぜ、御令嬢。自分は退げて俺は過大にプッシュとは。東郢はともかく、翻訳はアルバイトのようなもの。俺は、しがないイチ学生に過ぎない」

 言いながら姜青年は、着込む被服の胸の刺繍飾りに指先をあてた。差し入れ下げる。ああ、刺繍に隠れて内ポケットがあるのか、と司書は思わず観察ぎみになってしまう。そうならざるをえなきほどの、見逃せぬ『画』なのだ、かれは。

「こちらが、網三さんから頂いたご挨拶だ」

 取り出したるは名刺ケース、の内から抜いた名刺だった。
 司書は「あ、区役所員でしたか! なるほど、いちおうどころか、立派な社会人だ」と頷く。

「へぇ、『あみ』って、こう書かれるんですか。編む、三つ」

 左網三は「三月三日生まれなのと、両親が、『大漁が叶う大きく丈夫な網のようになってほしい』と……」説明するが、やや尻すぼみとなる。
 姜青年は微笑した。

「自信をもって話せばいいじゃねえですか」
「あのー、大漁って。アミさんのご両親は漁業関係者なんですか?」

 ああ、ほら、やっぱり、と、網三は苦笑する。

「この解説をすると、必ず返されちゃうのよ。なあに『大漁』って、アミ、お父さんてマグロ漁船のひと? 真冬に2000万ぐらい釣るの? すごい、かっこいい、豪快~! って」

 それはそれで感心されてるから別に構わないけども、と続けるから司書と姜青年は「「構わないのかよ」」と内心でツッコむ。

「でも、お父さんはマグロは釣れないわ。だから誤解で友人知人が感心するのは、少し申し訳ないと思うの」
「ある意味、海は越えちゃいるがね、あんたの父君」
「え、父について話したことありました? おじいちゃんならともかく」
「父が仕事先で買ってきたお土産です、と、タイの香辛料を分けてくれたでしょう」
「思い出したわ。そうそう、姜さんは辛いのや苦いのがお好きだと伺ってたから。うちは、特におじいちゃんは香辛料が苦手で」
「へぇ、スパイスの効いた著書ばかりな御仁なのに意外だな」

 司書は聴取するうちに、ある点に気づく。デスク脇のノートパソコンを開き、館内の蔵書をサーチした。驚き、小さく叫ぶ。

「左、って。意訳・論文・随筆の大家、権威の。あの左教授!?」

 網三は「はい。いちおう」と応え、「だから、いちおうじゃなく、一流だろ」と姜青年は被せた。

「俺は左教授のファンでね。お孫さんが都内のキリスト教会に在籍してるとわかったとき、訪ねてみたい、と考えていた」
「なるほど、そして訪問し、お知り合いになった、と」
「考えてたが、実行はしてねえ。俺が学んだは儒教だ。唯一の神を奉るセカイなんざ、なかなか足を踏み出せるものじゃない」
「なら、直に左先生の御宅に」
「そこまで図々しい真似もしてねえ」

 となると、残った選択肢は二つぱかしだ、と司書は頭をひねる。見合いか、はたまた偶然のーー

「あるとき、頭数が欲しいと大学の後輩にせがまれてね。きらびやかなディスコ・ホールに行くハメになった」
「そうそう、姜さんは壁にずぅっと寄りかかってて」
「あんただって観葉植物の影に隠れてたじゃねえか。居心地わるそうに」
「姜さんも腕組みしながら指をトントンしてたわ。居心地超わるそうに」

 偶然の出会いだったようだ。しかも予測を上回る舞台だった。

「酒で騒ぐ趣味は無い。女に気安く触れるのも真意じゃない。だから俺は観葉植物を眺めた。あれなら見つめても反応しねえ。ところが、返してきたんだ、眼が。俺の視線の高さに」
「帰ろうかなー、と顔を上げただけよ。そしたら、目が合ったの。私、ヒールも履いてたのに上目でカチあうなんて初めてで、びっくりしちゃった。えー、背たけ、たっかーい! って」
「近づいたのは俺だ。彼女もひとりか、ちょうどいい、カップルのフリをし、この喧騒を出る提案をしよう、と」

 そして場所を離れてから近場のバーに寄り、シャンパンを交わしつつ名刺交換し、おや、あなたは左教授の、などと話が弾み、今に至る。
 顛末のような粗筋を聴き、司書は「それはそれで恋の発展するパターンだ」と思った。

「アミさんが彼に応じた理由は。なにかを習いたいから? 彼が翻訳家ということは、語学?」
「はい。私、韓国語を学びたくて」
「毎週1回、時刻や曜日も不定期でいいのなら、と、引き受けた。このとおり、俺は無愛想ですからね。すぐに受講は反故になると踏んでたが」
「とんでもない! 姜さんの教えかたは、とても上手よ。いつも手作りのスイーツまでくださるし」
「母のシュミに付き合って出来た副産物だ、お気になさらず」

 ねー、ねー、どう見ても似合いのカップルの雰囲気満々なんだけど。と、司書は周りの温度が上がったような錯覚に陥る。実際、増えてきた客たちが皆、こちらを指差し、ひそひそと色めき立っている。ほら、どこの男女モデルだろうあれ、と皆々さまも同じ意見なのだ。まずいな、ここ玄関先だぞ、と司書は自分の職務を思い出す。

「ところで、お客様がた。この本は、いかがいたしますか」

 網三は「あ、すみません、手間をお掛けして。借りたいです」と応え、貸出カードにサインする。
 彼女の真後ろから書き込みを覗きこんだ姜青年は「古典文学か」と呟いた。

「つうか、寓話集か。フレアにしちゃあ、のどかな話が多い書だな」
「姜さん、さすがね、知ってらっしゃるの」
「なあ、過剰な敬語もそろそろやめてくれ。俺のほうが年下なんだし、なんなら下の名で呼んでもいい。杏珠シンジュと」

 貸本を抱えた美女と傍の美男は、軽快に喋くりながら自動扉を抜け、退室する。
いや、どう見ても完璧なまでにカップルだろあんたら! と司書はディスコ・ホールのクリスタルボールより眩しかった、と、デスクに突っ伏した。


「ちょ。うそっ、うそうそ、うそっ!!」

 その図書館は駅に隣接するショッピングモールの一部に属している。館の外には広大な渡り廊下があり、脇には様々な店舗が立ち並ぶ。ゆえに行き交う人は多い、そんななかに、驚愕に竦む、いや、色めき立つ少女があった。図書館から出てきた男女を凝視し、両手をL字にし、ふたりを四角い枠に収め、

「うーわぁ、うそじゃないっ! やっぱ、おねえだ! だれ、あの隣のひと! 背、たかーい!!」

テンションは収まりきらず、意気を漏らした。連れた友人、彼女の腕を引き、「ねっ、あの男の人、だれかな! すごくスタイルいいし!」同意を求めてハシャぎだす。
 なにごとか、と示された対象を見た彼女もまた、身を強張らせた。思わず、名称を漏らす。

「あんじゅ……!?」

 意気の高い彼女は「え? なになに、ショカたん、知り合い!?」とますます好奇心のボルテージを上げた。
 ショカたんは「う、ううん、人違い」と慌てて訂正し、俯いた。

(あんじゅだ。遠くからでもわかる。韓服だし。髪の毛、ねずみ色だし。ゆいが言うとおり、スタイル抜群だし。でも、なんで、ゆいのお姉さんと一緒にいるのかな。占いの依頼をされたのかな。あれれ? でもでも、ゆいもゆいのお姉さんもキリスト教だよ? あの宗教って、占いは嫌いなんだよね? なら、いったい、えーっと、えーっと……)

「ねぇねぇ、ショカたん、お姉たちの後を追おうよ! あの後ろ姿イケメンを、もっと近くで見たーい!」
「ゆ、ゆい、やめようよ、(あんじゅの)お仕事のジャマになるよ」
「はー? (お姉の)仕事関係じゃないよ。みてみて、お姉の私服、かなりオシャレしてる。デートだよデート、しかも数回目!!」
「えぇっ!? な、なんでわかるの?」
「お姉、自分の身長を気にして、いつもペタンコな靴なの。それが、見てよ! ヒール履いてる! あの男の人の背が5センチをプラスしても自分より上、って知ってるからでしょ!?」

 そうだね……確かに、あんじゅの身長は187センチもあるからね……と、ショカたんは小声で応える。なーに、どうしたのショカたん、急に元気なくなってない? と、ゆいなる少女は少し意気を下げ、友人の顔を覗きこむ。
 そんなやりとりの背後から男性の声がかかった。 

唯今ゆいちゃん、昇華ショウカちゃん、次はどこに行くんだい?」

 女子組は声に振り返る。唯今は「ちょっと待ってて、参坂さんざかさん」と笑った。
 片手に紙袋を下げた青年・参坂は「休憩? お腹すいたの? マックいく?」と、こちらも爽やかな笑顔で2人に近寄る。

「参坂さんって、マック好きだよね。このショッピングモールなら他にもフード店はあるのに」
「好き、ってゆーか、職場にいちばん近いのがマクダナルドなだけだよ」

 しかして大本命なほど好きだけど、と朗らかに笑うが、昇華の様子に気づき、彼も声音を下げた。

「昇華ちゃん、どうしたの。気分が優れないなら、そこらのベンチに座って。サービスカウンターの人を呼んでくるよ」

 昇華は「だいじょうぶ。ありがとう、ひぐれさん」と、ぎこちなく笑う。
 唯今の晴れやかだった表情も曇りだす。

「ごめんね、ショカたん。やっぱり、あの後ろ姿イケメン、ショカの知り合いなんだ? まさか、カレシ?……」

 事態を呑み込めない参坂ひぐれだが、『カレシ』なる発言に思わず目線を上げた。遠目に在る男女に、彼も両手で作ったL字を嵌め合わせる。

「銀鼠の髪に韓服。もしかして、かれ、白鷺しらさぎ甘鶴杏珠あまつるあんじゅくん?」

 昇華は小さく頷いた。
 唯今は再び、被写体たちに目を向ける。

「白鷺の……、それって、ユジくん……、邑治ゆうじくんがいつも話題にしてる『チョー優秀な美人秘書のアンジュちゃん』!? わぁ、なるほど、確かにメチャクチャ優秀そう。でも、教会にいちども来たことの無い彼が、なんでアミ姉と? しかも、お姉、あんな……」

 あんなにオシャレして、だのデートだのという用語は呑む。以前より聞いていたからだ。大学の友たる白鷺昇華も邑治と同じく、たびたび彼を話題にしていた。
『あんじゅは、すんごく頼りになるの。かっこいいの。ゆうじの、白鷺の、わたしのスーパーヒーローなのよ。だいすき』と。
 スーパーヒーロー、だいすきがイコール恋、とは限らない。が、少なくともいま彼女は予期せぬ『ヒーローが未知の婦女子と歩く』事態に消沈している。刺激してはならない。もう充分、あれこれ投下してしまったが。そして、迷う。己は、あのふたりを追いたい。
 すると、美男美女は歩みを止めた。番外ではない、杏珠が勘づいたのは、網三の変調だ。

「すまねえ。歩幅は合わせてたつもりだったが」

 どうやら、彼女の足が原因らしい。慣れぬヒールで歩き回ったために足の指先が傷んだのだ。

「ご、ごめんなさい、杏珠シンジュさん……っ、あっ!」

 話す合間に、ふくらはぎが攣った。よろける。瞬間、その細い肩は背中ごと、いだかれた。当人は言葉もなく息を呑む。その合間に別なる腕が彼女の膝裏に素早く差し入れられた。

joesonghapnida失礼します

 告げたと同時に、姜杏珠は腰を屈め、ひといきに立ちあがる。軽々と彼女を抱き上げた。
 周囲は当然、ザワつく。誰ともなく「お姫様抱っこだー!」と叫んだ。携帯カメラのシャッター音も響く。
 杏珠は「やはり、街は騒々しい」と一瞥し、鞄と書を抱えて状況に固まるままな網三を付近の喫茶室に連れ入れた。もちろん、しっかといだきあげながら。
 番外な面々のうち、唯今と参坂は互いに顔を見合わせ、口だけをパクパクと動かす。

「よ、よかった。いまの物凄い光景をショカたんが見てなくて」
「そ、そーだね。俺の友達なら『yehhhh!!!!』と拍手喝采する名シーンだったけどね」

 ますます騒がしくなったね、どうしたの? と尋ねし昇華に2人は「お姉はランチみたいよ」「俺らもランチにしようよ」と早口に応え、唯今は昇華の腕に腕を組み、参坂は昇華の背を押し、くるりと方向転換させた。


 店内の奥の奥地に案内された網三は、少々、不安に駆られる。

「あ、あの、店員さん。ここって、予約制の……」
「はい、ご覧の通り、個室になっております、お客様」
「大丈夫なんですか? というか、私を運んでくれた男性は、どちらに……」
「少ししたら戻られるそうです、ご安心ください」

 では、どうぞごゆっくり。と締めて出ていく。ますます不安感が増した。

(やだ。衛星ドラマで観たわ、こういうシチュエーション。イケメンでパーフェクトな彼は窮地に陥ったヒロインを助けて、ふたりきりになれるロケへ導くの。そして……)

 そしてから先の予想を頭を左右し、打ち消す。やだやだそんなまさか、姜杏珠さんは私の単なる友人で先生よ? と己に言い聞かせる。しかし、まさかの展開になったなら。

「わたしは…………どうなんだろう。許して、受け入れてしまうのかしら?……」
「祈祷かい、網三さん」
「きゃっ!」
「wae!?」

 唐突な声に素っ頓狂な悲鳴をあげたら、声の主も軽く身を引いた。

「な、なんでえ、そんなにビビるこたあ無いだろ」
「す、すみません。……あなたでも驚くことがあるのね」
「なんだよ、ヒトを観葉植物みてえに考えてたのか?」

 まあいい、そんなことより、と杏珠は網三の座る手前に立ち、跪く。彼女の傷む足の足首を掴み、パンプスを脱がせた。

「しっ、杏珠さっ……」
「さすがにストッキングは剥げないので、上から失礼します」

 痙攣の痛みも残るふくらはぎに、そっと手を添え、もう片手で裏を揉み解す。目線は動かさず、「テーブルに来た電解水を飲んでてくれ」と示した。
 言われた通りに水の入ったグラスを唇につけ、口腔に含む。白湯のように、ぬるく、やや酸味が効いている。

「杏珠さん……」
「さっきの騒ぎじゃ、こんなマッサージの処置にも誰かがシャッターを切る。だから個室を借りた」
「伝票……」
「そして、それを決めたは俺だ。あんたが料金を案じる心配は無い」
「なら……私は、どうすれば……」
eo-tteoh-keどのように、か。そうだな、ここなら授業にも邪魔が無い。このまま御用にしちまおう」

 足の指も丁寧に解し終えると濡れ布巾で手を拭う。彼女にメニューを差し出した。

「軽食を摂りながらにしようか。腹が減ったでしょう」
「そ……その代金は払わせて。そのくらいは、させて」
「wae? なんだ、口ぶりは柔らかいが、怒ってる?……あっ、そうか、これ、……この流れと状況は完璧、セクハラだ。すまない、そこまで思いつかなかった」
「えっ、やだ、えぇっ!? ほんとに!? なんにも考えず!?」

 思わず捲し立てると彼は眉間に皺を寄せ、片手は緩く拳を握り、それは口元に寄せた。覗く歯が、かすかに下唇を噛む。目蓋も閉じた。

「俺の身内の女の子、……俺の……俺の家には、ちっちゃいがいる。やたら図体のでかい餓鬼もいる。俺は、あいつらが困ると何も考えず、ただ、尽くしたくなる。助かるなら手段は最も効率的なルートを選ぶ。相手の意向なんざ、いっさい無視で。だから、つい、あなたにも……」
「私、あなたとファミリーなほど親しくないわ」
「頼りにしてくれた。名も呼んでくれた」
「その程度の友人は、あなたなら、たくさんいるよね?」
「……っ、そ、そう言われてみれば、そうだ。なら、……似てるから?」
「まぁ、フィーリングは確かに合うみたいだけど……」
「…………」
「シンジュさん?」

 対話中、網三は、微妙に、かつ、目まぐるしく変化する彼の所作から表情から、眼を逸らさなかった。否、反らせなかった。一点の曇りなきパーフェクトな芸術作品と思われた人物の、ちいさな綻び。綻びからの、脆く、揺れ動く、深海のたまの如き、繊細さ。

(ずるい。こういうシーンも、衛星ドラマで観たわ。ツンツンしてるイケメンが、急に、すごく弱々しくなるの。ずるいよ、杏珠さん。あなたは、女子のハートを鷲掴みヒーローにも程があるわ。とても……)

 とても魅力的だわーーとは思えども、想えども、空間が心を、肉の器たる深部を疼かせても、かすかに溜め息を吐くしか、為すすべがない。

「……答らしき答が、とんと閃かない。仕方がねえから、比喩でいいかい」
「はい……」
「さっき俺は、自ら喩えたが。俺は、まったくもって、観葉植物みてえな人間だ。ちょいと放っとかれても枯れやしない。だが、やはり、霧吹きと、鈴ののように語りかけてくれるひとが必要で。そんなひとに、俺は惹かれるらしい」

 かおを、かれは上げた。暗紫色の瞳が、まっすぐに彼女の瞳に写りこむ。

「どうやら貴女は、その霧吹きと語り部だ。左網三」



「好いてくれないか。好いてくれないだろうか。俺を」
「シンジュさん……」


 暫しの。だが、当事者にとっては果てしなく思えもする、狭間。息も行き場をなくす瞬間に、互いに、息をつき。
 己を見つめたままな潤む眼差しに、網三は、ようやく答にならぬ答を渡す。

「ありがとう……」

 ありがとう、そこまでしか、言いようがない。

「つまり。俺を受け入れる、そう判断していいのか」
「はい……」
「ならば、疼く。いま、触れたい。あんたの、語り部の唇に。温度に」
「……わ、わたしも、貴方はとても素敵な……、あの、思います、あの、でも……」

 惑う台詞しか、紡ぎようがない。同世代の女性のなかには、会って間もないのに一線を軽々と越えてから『つきあう』例も多い。もちろん、わたしも、いま、かれの魔にも近い魅力に駆られ、魂が賭けようとしている。けれど、産む欲は、やがて、膿む。それがゆえに、うずめる。静めたい。はるか、そらへ。

「……軽食、頼みましょうか。網三さん」

 しばし彼女を見つめた後、杏珠は銀鼠のかぶりを横に振った。

「どうした、網三さん。大丈夫か?」

 はっ、となり、網三は作り笑う。

「ごめんなさい、ボーっとしてしまって」
「脚は攣るわ、密室で野郎が迫ってくるわじゃ、脳内処理も限界値を超えちまわあ」
「やだ、迫る、って言いかたはよくないわ。さっきの杏珠さんは、とても真摯だったもの」
「フォローはやめてくれ。じゃあ、もう1回、ストレートに言おうか? あんたが好きだ。性的な意味でも。だからキスぐらい今やりたいが、いいか?」
「…………やだ」
なの」
「あ、いえ、その、『やだ』は、口癖」
「なら、いいの。キス」
「……ぅぅぅ……やめてシンジュさぁん……その、どストレートな言いかたはやめて……」
「はん。マジにお育ちがいいんだね。なら、」

 隣に座り、彼は彼女の手を手にとり、甲、ではなく、やわらかな手首にくちびるを押しつけた。
 ここでまたキャーキャー騒げば、あんた、お子さまだね、などと続きかねない。そう思い、網三は肌に伝わる温い刺激に堪えた。

「さて。じゃあ、今度こそランチを頼もうか。和洋、なんでもあるぜ」

 そして、教科書はコイツにしよう、と、杏珠は網三が借りた書をテーブルから拾い上げる。
 はい、じゃあ、『どうしよう』から教えてください、と網三は疲労感いっぱいに応えるのであった。
 紫色の目の王様。賢くて美しくて、たくさんの本を読む、優しい王様。けれど、『明日も退屈か。つまらない』と、不意に漏らす、暗雲にも似た王様ーー

(杏珠さん。あなたは、まるで、寓話のなかの気怠げな王様のようね。不可思議なひと……)

 教科書かわりのページに指をかける爪先にまで注がれる熱視線。杏珠は内心で、冷や汗を流す。

(やれやれ、。むろん、彼女は俺が全く気づいてないようだが)

 俺は、さっき、あんたを真っ正面に見据えた。、あんたに暗示をかけたんだ。
 ああそうだ、咄嗟にこんな個室に連れ込んだ理由は彼女に告げた通りだ、やましい意図などなかった。しかし密室にこれだけ魅力ある美女がいたなら、俺とて、なにをしでかすかしれない。実際、フィーリング云々の場面ではマジに欲が湧いていた、抱きたい、と。
 けれども俺は閃いた。この、そこらの安い女じゃあない、生粋の、魂が気高く透き通った女のなかに、ほんとうに、唯一神、テメェが在るならば。

(柱が。キリスト・イエスという柱があるのなら。俺に、決してやすやすと身体からだを許したりするな、いいか、俺が『触れたい』と言ったら、合図だ。柱があるのなら、やすやすと許すな。俺は、そう念じ、左網三、あんたに暗示をかけたんだ。この、兇眼きょうがんで)


 結果は、こちらの完全敗北だ。おそろしい。白鷺、あれの一族とは違った意味で怖るべき存在をまたひとり、俺は認知してしまった。手折れなき柱、こころに根を張り巡らせた、強靭な魂の源……

(源。キリスト・イエス、か。ちっ、いけすかねえ。白鷺といい、俺が出くわすのは根っこの頑丈なやつが多すぎらあ)

「小声で聴こえないわ杏珠さん」と、マカロニを食む横顔に、「教示じゃなく独り言だ」と酷笑で返す。

「俺が今すぐ改宗する、っつったら、手指を絡めるぐらい即いけるかな? ってね」
「やだ、邑治くんみたい」
「はん、男の思考なんざ、みな、だいたいは白鷺のどら息子と同類ですよ」
「それでも、格好は付けて。女は、好きになったひとにも、いつでもロマンチックな雰囲気を求めるものなの」

 くだけた返事だ。好きになった、などもあっさり口にした。しかし、纏うオーラが、次の段階に防御壁を敷く。やれやれ、そういえば邑治、テメェ、教会のアミちゃんマジに好き! 告白もしちゃった、ニートじゃダメみたいだけど、と抜かしてやがったが。

(こりゃあ、邑治……、就職が安定しました程度じゃあ、テメェに彼女は絶対にオトせやしねえよ)

 日本一、いや、俺はナンパの世界ナンバーワン! と自称する、かの極楽ニートに。同情まじりな想いを游がせる。








了.






















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