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episode.19 呆れられても伝えたい

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 その日は何だか寝つけなくて、夜、客室内にある洗面所へ行って薄暗い中でぼんやりしていた。

 近くに放置されていた小さな椅子を取り出し、勝手に座っている。

 思えばここまで色々あった。
 私の人生は大きく動いた――あの襲撃の日、ノワールと出会った日から。

 それから多くの出会いがあったけれど、それと同じように、別れもまたあった。

 家との別れ。
 街との別れ。
 いくつもの別れを経験して。

 そうやって、ここまで来た。

 この先の未来なんて、今はまだよく分からない。それでも進むしかないのだろう、きっと。人生なんてそんなもの、その時に道を選び進むしかやり方なんてないのだ。時に嵐に見舞われ、渦に巻き込まれ、それでもそれが定めであるのならば抗えはしない。

「……何してるの?」

 声がして、振り返る。
 するとそこにはノワールが立っていた。

「眠れない?」
「ちょっと……もう少し起きていようかなって」
「ふぅん、そ」

 彼は洗面所への入り口となっている位置の壁に軽くもたれるようにしながら立っている。薄暗い空間でもその燃えるような瞳だけは存在感を失っていない。闇でこそ映える、そんな色。

「ルナさんは?」
「寝てる」
「貴方は寝ないの?」
「……なんか最近、あまり関わりないなと思って」

 ノワールの口から出てきたのは意外と可愛らしい言葉で、内心驚いた。

「何か話があるの?」
「……べつに」
「でも言いたいことがあって来たのでしょう?」
「……そういうわけじゃないけど」

 でもわざわざこうして声をかけてきたということは何かなのだろう。

「ええと。じゃあ、話し相手になってくれる?」
「……うん」

 彼は壁にもたれた体勢のままこちらをじっと見ている。

 しかしいざ話そうとすると話題がない。
 こういう時何を話せば良いのだろう、と思った。

「……話さないの?」
「こういう時、どんな話を振ればいいのかなって考えていたの」
「……そう」
「そうだ! ノワールさんについて教えて?」

 すると彼は急に眉間にしわを寄せて「えっ」と低く発した。

「凄く嫌そうね」
「……ボクにはないよ、面白い話なんて」
「じゃあ、貴方がどうして今の道を選んだのかが聞きたいわ」

 何かと賑やかなルナがいる時にはあまり落ち着いて話を聞けない。それに、もし話し出したとしても、きっとすぐに乱入されてしまうことだろう。でも二人だけの今ならまともに聞けるだろう、そういう落ち着いて聞きたいような話も。

 ノワールは視線を右斜め下へ移す。

 長めの前髪がしっとりと揺れた。

「……虚しくなったんだ」

 伏せられた目もと、何を想っているのか。

 私には分からない。

 ――いや、きっと誰にも。

「すべてを壊し、すべてを奪い、それで何が生まれるのか――そう考えて、ずっとこうやって生きていていいのかって悩んでた」

 見つめても、目は合わない。

 でもそれはそれで良いのかもしれない。
 歪に目が合ってしまったらそれはそれで気まずい。

「……ボクはすべてを吸ってしまえる」
「手の力ね?」
「この姿じゃ程度はしれてる、でも、本来の姿になればもっと吸える」
「掃除に便利そうよね」
「……ケド、ある街ですべてを吸い込んでしまった時、とてつもない虚しさを感じた。だって、意味ないでしょこんな力。誰かを救えるわけじゃないし、かといって誰かを護るわけでもない……ボク何してんの? って感じ」

 心を打ち明ける時、彼は目を完全に閉じていた。

「馬鹿みたいだ」

 ――でも、もう壊して生きてゆくことに意味を見出せない。

 彼はそこまで言って黙った。

「それで、離脱したのね?」

 問えば彼は小さく頷いた。

 もう見慣れた整った面は髪に隠されて見えない。

「私、貴方は馬鹿じゃないと思うわ。だって、やめようと思ったのでしょう? 人を傷つけ物も壊して――もうそんなことしたくないって、そう思ったのだし、そのために行動したのでしょう。それだけでも偉大なことだと思うわ」

 事実、今だって人に危害を加え続けている魔の者だっている。

 でもノワールは違う。

「……でも、もう遅い」
「どうして」
「……何もかも遅すぎた。もう、過去は消えない」
「そうね。でも、過去は消えずとも、未来を見据えることはできる」

 刹那、彼は「無理!!」と叫んだ。

 急に荒々しい声を出されて硬直してしまう。

「もう戻らない! 何もかも! 壊れたものすべて!」

 触れてはならないところに触れてしまったのかもしれない。

 軽い気持ちだった。なのに彼を黒い感情の迷宮へ誘ってしまった。そのことを悔やんだ。

「待って。そんなに思いつめないで。優し過ぎるのよ貴方」
「優しい? 笑わせないでよ、おかしいの間違いだろ!」
「そんなことない」
「ボクたちみんなおかしいんだ! はじめから。人間じゃないから!」

 彼は言いきってから二度ほど息を吐き出した。
 それからどこか自嘲気味に笑みを滲ませる。

「……ごめん、駄目だなこれじゃ……何も変わってない」

 そう述べる彼の表情はとても切なげで。
 見ているこちらまで胸の内に木枯らしが吹くようだった。

 どうしても黙っていられなくて。

 放っておくこともできなかった。

 ほぼ無意識だった。
 いや、意識していたならこんな大胆なことはできなかっただろう――いきなり抱き締める、なんて。

「貴方は貴方でいいと思う。私、それでいいと思うの。だって、貴方って、そんな感じじゃないけどなんだかんだでいつも優しいから」
「……呆れた」
「私、そういうノワールさんが好きよ」

 抱き締められた状態のまま彼はじっとしていた。

 今になって冷静さが戻ってきて、やらかしたな……という文字が脳内を満たす。冷めた脳内で繰り広げられるのは気まずさと恥じらいのパレード。けれども今さら勢いよく離れるというのも身勝手な気もして、どうすればよいものかと変に悩んでしまう。

「というか、何かごめんなさい急に」

 ひとまず離れよう。
 気まずさをどうにかするのはその後だ。

「驚かせてしまったわよね、いきなりこんなことして……でも、私はただ分かってほしかったの。貴方にだって良いところはあるんだ、って。まぁやっていること滅茶苦茶だし、呆れられるのは当然と思うけれど……」

 言いかけて、言葉を挟まれる。

「そうじゃない」

 ノワールは静かな調子で発した。

「……キミに、呆れたわけじゃない」

 彼はそう言ったけれど、そのことについてそれ以上深くは話してくれなかった。
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