懐かしの記憶

四季

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懐かしの記憶

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「ひーびくーうーたーとーおぉーくーかぁらーきーこえてぇーくるー」

 家の庭で歌うのは、幼き日の私。楽しげに歌うその小さな娘は、幸せの絶頂にいるような顔をしている。桜色のワンピースの裾を翻し踊りながら、空を見上げて、一人歌っていた。足取りは軽やか、表情は晴れやか。

「あら、ウタ。またそれを歌っているのね」

 スライド式になっている窓を開け、家の中から一人の女性が出てくる。

 彼女は確かに私の母親だった。
 どことなく儚いような空気をまといつつも表情は明るいという、珍しい雰囲気の女性。

「あ。母さん。うん! 歌ってたの!」
「ふふ、ウタはその歌が好きね」
「好きよ! 母さんの歌! だって、歌には楽しいことがたくさん詰まってるもの!」

 これは過去の記憶? それとも……過去の記憶のようで違う幻? 現時点では真実は分からない。けれども、家も小さな庭も正しい姿をしている。もちろん母親も。……だとしたら、やはりこれは私の記憶なのだろうか?

「ウタは声がいいもの、きっと人気者になれるわ」

 母親の優しい手が幼き日の私の頭を撫でる。小さい私は嬉しそうに笑う。その光景を見て思った。あぁ、こんな温かな日もあったのだ。そんな風に。

「ホント?」
「えぇ。ウタの歌声には人の心を揺らす力がある、そう思うわ」
「じゃあ! 私も大きくなったら母さんみたいになる!」

 思えば、あの頃は常に幸せの中にいた。幸福の海で泳ぎ、幸福の草原を駆けるような、そんな時代も確かにあったのだ。唯一の肉親で、一番好きな母親と、穏やかな陽の下で過ごす。そんな幸福を、私は生まれながらにして手にしていた。父親の顔は知らないけれど、きっと、人並みかそれ以上に恵まれていたのだろう。

 目の前にいる幼き日の私、その笑顔が、すべてを物語っている。

「ねぇ母さん! もっと歌を教えて? 歌を!」
「そうね。じゃあ、練習しましょっか?」
「うん! そうする! ……あ、でも、途中で飽きないかな」
「あらあら、いつもそう言うわね。でも大丈夫よ! ウタは飽きたことなんてないじゃない」

 分かっている。この光景は過去のものだと。今はもう決して手にできない幸福の姿を私は見ているのだと。幸せだった頃を見るのは、正直、切なく辛い。胸の奥が痛む。それでも、記憶の中へ帰ることはできない。決して戻れはしないのだ。

 でも、今はもう大丈夫。
 私は歩いてゆける。

 喜びも悲しみも、幸せも不幸も、何もかもを背負って——それでも踏み出せるわ。


 ◆


「いいか? ウィクトル。親しい女ができても接近しすぎは危険だ」

 視界に入るのは嫌に懐かしい光景。
 十年以上前の私ととうに亡き人となったはずの父親が、向かい合って話している。

「接近しすぎの定義は?」
「そうだな……。取り敢えず、夜には会うな」
「夜? どうして?」
「いいか、ウィクトル。夜に会おうとしてくる女は大抵あわよくばを狙っている」

 私は既に大人になった。苦いことも辛いことも経験したし、色々な知識も脳に叩き込んだ。華やかな青春はなかったが、それでも、様々な方向から人生経験を積んだことは確かだ。

 だが、あの時の父の言葉の意味だけは、いまだによく分からない。

 いつだったか、リベルテに尋ねてみたことがある。夜に会おうとしてくる女が考えるあわよくばとは何なのか、と。リベルテは少し思い当たることがあるような顔をしたが、結局それらしい答えを入手することはできなかった。
 その後、フーシェにも同じことを尋ねてみた。だが、彼女は首を傾げるだけ。リベルテよりも心当たりがないようだった。女性のフーシェなら何か知っているかもしれないと考えていたのだが、結局それらしい答えは得られなかった。

「おまえはこの父の息子だ、絶対女に人気になれるぞ。顔も悪くない。だが、だからこそ女には気をつけろ。偉大な女か、平凡な女か、見抜けるようになれ。そうでないと苦労することになるぞ。実際父は苦労ばかりだった! ……ま、最終的には良い人と一緒になれたわけだが」

 こんなにも細かいところまで覚えているものなのか、と、私は人間の脳の能力に感心する。

 私とて父親と過ごした時を忘れていたわけではない。悲しみに蓋をしようと思い出さないようにしていた時期もあったが、今はもうそんなことはしていない。それゆえ、覚えていてもおかしくはないのだが、脳がここまで細かく記憶しているというのはさすがに意外だった。

「偉大な女の人はどうやったら分かる?」
「見るんだ。偉大かどうかを」
「ごめん。ちょっと意味が分からない」
「いいか? 偉大な女は吸い込まれるような目をしている。見れば分かる。絶対、な」


 ◆


 目を覚ました時、ウタはベッドの上にいた。
 柔らかな掛け布団に触れつつ、ふと気がついて横を見ると、ウィクトルもまた目を覚ましていた。

「起きたの?」

 ウタはシンプルな問いを放つ。
 すると、中途半端な時間に目覚めてしまったことを悔いているようなウィクトルは、低めの声で返す。

「あぁ。目覚めてしまった」

 一生後悔するようなことをしてしまった、とでも言いたげな顔。そのことにウタは戸惑いを覚える。というのも、相応しくない時間に目覚めてしまうことは、ウタにとっては珍しいことではないからだ。目覚めてしまってももう一度寝れば良いだけのこと。それなのに、起きてしまったことを深刻なことと捉えているようなウィクトルを見たら、妙な気分になってしまうのである。

「私もよ。起きてしまったわ」
「なぜ?」
「分からない。でも……見ていたの、夢を」

 ウタは目を伏せつつ言った。
 するとウィクトルは、何かに気がついたかのように述べる。

「夢? 過去の夢か?」
「え。どうして知ってるの」
「……見ていたんだ、私も」
「そう。それは偶然ね。なんて言うか、運命、みたいな」

 するとウィクトルは控えめに笑う。

「そうだな。偶然だ」

 ウィクトルが笑うと、ウタの表情も自然と緩んだ。

「何だか得した気分だわ」


◆おわり◆
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