暁のカトレア

四季

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episode.76 流れる星に願うのは

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 頬にひんやりとしたシーツの感触。私は今、トリスタンによって、ベッドの上で押し倒されている。

 彼らしからぬ積極的な近寄り方に、私はただ、呆然とすることしかできなかった。

「……ち、ちょっと。どうしたの?」

 ベッド上で馬乗りになってくるトリスタン。

「何? 何なの?」
「ゼーレとマレイちゃんが仲良くしているのを見ると、何とも言えない複雑な気持ちになるんだ」

 トリスタンのさらりとした金髪が、私の顔に触れる。
 こそばゆい。
 だが、至近距離で見ると、その髪は本当に美しかった。ほんの少しの明かりを照り返し、薄暗い中でも煌めいている。存在感が凄まじい。

「マレイちゃんをゼーレに取られてしまうような気がして……もやもやする」

 唇を微かに開いたまま、トリスタンはこちらをじっと見つめてきた。その青い瞳の奥には、熱いものが燃えている。

「だから、ここではっきりさせよう」
「え?」
「マレイちゃんが誰のものなのか」

 トリスタンは片腕を私の首へ回す。そして、顔を近づけてきた。
 均整のとれた彼の顔は、近くで見ても粗が目立たないほどに整っている。そもそも一つ一つの具が良い形をしていて、それらが合わさり一つの完成された容貌を作り出している。

 だが、いくら美しい顔をしているからといって、言いなりになるわけにはいかない。

「止めて、トリスタン。これ以上近づかないで」
「マレイちゃんは……僕のこと嫌い?」

 状況が掴みきれない。
 今のトリスタンは、まるで、酔っぱらって正気を失っているかのようだ。

「嫌いとかじゃないわ。でも、こんなことをするのは止めてほしいの。私たち、そんな関係じゃないでしょう」

 ある意味では師弟、ある意味では仲間。
 けれども、私たちの間に男女の関係なんてものはない。そんな関係、存在するわけがないではないか。

「トリスタンはこんなことをするために、わざわざ部屋まで来たの?」

 彼の青い瞳をじっと見つめながら尋ねてみる。

 すると彼は、はっ、とした顔をした。心の振幅が面に滲み出ている。非常に分かりやすい。
 数秒して、彼は慌てた様子で私の上から離れた。

「ご、ごめんっ!」

 かなり焦った顔をしている。

「マレイちゃん、痛くなかった!? 大丈夫!?」

 トリスタンは飛ぶように退くと、慌てているのがよく伝わってくる声色で言った。らしくなく、瞳が揺れている。

 私はゆっくりと上体を起こすと、「大丈夫よ」と答えた。
 押し倒されただけで、まだ何もされていない。だからセーフだ。ややこしいことになる前にトリスタンが引いてくれて良かった。

 それから少しして、彼は、気まずそうな視線をこちらへ向けてくる。

「嫌われちゃった……よね。ごめん」

 何というか、いちいち面倒臭い。

「ごめん。帰るよ」

 まるで逃げ出すかのように、素早く立ち上がるトリスタン。
 その背中に私は言う。

「待って!」

 部屋から出ていこうとしていたトリスタンは、びくっと身を震わせ足を止める。そして、悪事がばれた人のような顔で振り返る。
 そんな顔しなくても、と思ってしまったくらいだ。

「……マレイちゃん」
「トリスタン、あまり無理しちゃ駄目よ。もやもやするのは、多分、疲れているからだと思うの。だから、本当に、ゆっくり休んだ方がいいと思うわ」

 さっきの彼の言動は、どう考えても不自然だった。彼がするとは到底思えないようなことを、彼は躊躇いなく行ったのだ。それは恐らく、色々あったせいで疲れているからだろう。

「様子を見に来てくれたのは嬉しいけれど、やっぱり、トリスタンは先に帰って休むべきよ。私たちはまだ帰らないし……」

 私は自分の意見を述べた。

 トリスタンは本来、帝都にある基地で休養する予定である。休養するよう言われているのに無理して行動するのは、あまり褒められたことではないと思う。

 すると彼は、少し目を伏せてから、静かにこくりと頷いた。

「……そうだよね。うん。マレイちゃんの言う通りにするよ」

 海のように深みのある青をした瞳は、どこか悲しげな色を湛えている。

 私は、そんな彼の手を、そっと握った。
 彼の手は私のそれより大きい。けれどもどこか頼りない雰囲気を漂わせている。もしかしたら、今の彼の心を映し出しているのかもしれない。

「私を大切に思ってくれるのは嬉しいわ。でも、無理はしないでちょうだいね」

 疲労は身体だけでなく精神にも影響を及ぼすものだ。疲れが溜まったことによって、もやもやしたり憂鬱になることもあるだろう。

 トリスタンが何とも言えない複雑な気持ちになっているのも、恐らくは、疲労の蓄積が原因だと思われる。美味しいものを食べ、ゆったりと過ごし、しっかり眠る。それだけで、いくらか楽になるはずだ。

「……うん」

 トリスタンは小さく答えた。

「ありがとう、マレイちゃん。急にあんなおかしなこと……どうかしていたよ。ごめんね」
「いいえ、気にしなくていいわ。私たちは仲間だもの」

 私は敢えて明るく言い放つ。

「困った時はお互い様よ」

 彼が私を何度も救ってくれたように、私も彼を救いたい。

 いや、救う、と言うのは大袈裟かもしれない。正しくは、できるなら力になりたい、という意味である。

 困った時はお互い様。
 だって私たちは、同じ部隊に所属する、共に戦う仲間だもの。


 トリスタンが部屋から去っていった後。

 私は一人、窓辺で、夜空を眺めた。

 暗幕を張ったような、真っ黒の夜空。そこにはいくつかの星が浮かび、生き生きと瞬いている。「私を見て、私を見て」と言わんばかりに。

 そんな星空を、突如、一筋の光が駆けていく。
 一際明るく輝く流れ星だ。

「どうか」

 私はすぐに手を合わせる。
 そして、そっと囁く。

「早く平和が訪れますように」

 叶う保証はないけれど、それでもただ、願うのだ。
 化け物が消えて、あのボスという人とその仲間も攻撃してこなくなった、平和そのものの世界をイメージしながら。
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