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24話「逃げ出しからの」
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ピンセットに羽虫が元気よく登ってくる現象に耐えられなくなった私は、思わず部屋から逃げ出してしまった。
パトリーの顔色を窺う余裕など、欠片ほどもなくて。
部屋から飛び出し、廊下を駆ける。ここの廊下には、いつも、甘い香りが漂っている。が、それも感じ取れぬほどの勢いで、足を動かす。
途中、働いている女性ともすれ違ったが、お構いなしに走り続ける。
——そんな私だったが、何もないところで転倒してしまった。
「……いったぁ」
何もないところでつまづいて転ぶなんて、情けないとしか言い様がない。しかも、転んだ時に膝を打ってしまい、じんじん痛む。
痛みを感じているうちに段々冷静さが戻ってきて、今度は「やってしまった、どうしよう」という思いが芽生えてくる。
パトリーは悪気なんてなかっただろう。それどころか、むしろ、善意で蜘蛛の餌やりに参加させてくれたはずだ。なのに私は、彼の善意に感謝もせず、羽虫の嫌さだけで脱走してきてしまった。
あぁ、なんてことを。
私がかつて高校生だったという非現実的な話をした時、彼は、まず疑うのではなく、きちんと聞こうとしてくれた。寄り添おうとしてくれた。なのに私ときたら、羽虫くらいで逃げ出して。
私は最低だ——転倒した体勢のまま、そんなことを思っていた時。
背後から足音が聞こえてきた。
私は恐る恐る振り返る。
もしかしてそうではないだろうか、と思っていたのだが、その予想は当たっていて。
足音の主は、パトリーだった。
「リリエラ!」
パトリーは小走りでこちらへ向かってくる。しかし私は、何だか申し訳なくて、彼を直視できない。
「一体何事だ」
「……ごめんなさい」
彼は傍まで歩いてきて、しゃがみ込む。しかもそれだけでなく、床に座ったままの私の顔を覗き込んでくる。
「いや、謝られても困る」
「……いえ。勝手な行動をしてしまったのは私なので」
「不気味だから止めてくれ、と言っているんだ」
「え」
パトリーの口から出た意外な言葉に、私は思わず顔を上げてしまった。
だって、普通、こういう場面で「不気味だから」なんて言われると思わないじゃない?
「虫が嫌だったのか?」
「……はい」
言葉にならない気まずさに、私は彼と目を合わせられない。そのせいで、私は、床を見つめながら話すなどという失礼なことをしてしまった。
無礼なことをしてしまったことを後悔する。
だが、今さら後悔しても遅い。
この際もうどうなっても関係ない——諦めの境地にたどり着いた私は、本音を述べることにした。
「大嫌いというわけではないのですが……いざ触れそうになると怖くて」
するとパトリーはあっさり返してくる。
「それはすまなかった」
自身の趣味を否定するに近しいことを言われたというのに、パトリーは微塵も不快感を露わにしなかった。さすがは大人、といったところか。
そんなことを考えていると、パトリーは私へ手を差し出してきた。
「立てるか」
「……え?」
差し出されたのは、私のそれより一回り大きな手。
いかにも男というようにごつごつしてはいないものの、どことなくしっかりとした雰囲気をまとっている、片手だ。
「え? ではない。立つ手伝いをしようとしているんだ」
こうして誰かに手を差し伸べてもらうこと。
幼い頃は夢みたこともあった。
けれど、成長するにつれて、そんな夢は脳内から消えていった——微かな憧れだけを残しつつ。
でも、今、私は手を差し伸べてもらっている。にわかに信じ難いことだが、この目が彼の手のひらを捉えている以上、幻ではないはずだ。
私は恐る恐る、彼の手を握った。
「……こうですか?」
「そういうことだ」
直後、彼は私の体を一気に引き上げる。
座り込んでいたのが、一瞬にしてぶら下がっているような状態になってしまい、驚きを隠せない。
「え、えぇぇ……」
一瞬にして引き上げられるとは思わなかった。
いや、もちろん、彼のことだから奇妙な行動をするのも想像はできるわけだが。
しかし、相手が常識に囚われない自由な人物だと知っていても、想像できる範囲というのにも限界がある。
「では、次はリリエラが好きなことをすることにしよう」
ぶら下げられた状態の私に向かって、彼は淡々と述べる。
好きなことうんぬんより、まずはこの体勢をどうにかしてほしいところだが……。
あと数十秒このままだった時には離してほしいと頼もうと考えていたところ、彼は突然私の手を離した。
結果、私の体は垂直落下。
そんなに高いところからの落下ではないから怪我をするには至らなかったものの、着地の瞬間にバランスを崩してしまい、よろけてしまって。危うくそのまま転倒するところだった。
何とか転ばずに済んだのは、ある意味奇跡である。
「リリエラ、趣味はあるか」
いやいや。
動揺しないにもほどがある。
他人を持ち上げ、さらにそこから垂直落下させ。しかも、当人が転びかけていたというのに、この冷静さ。
マイペースもここまで来れば才能かもしれない。
「趣味、ですか?」
「そうだ。言え」
なぜ命令口調なのか。
「……正直、よく分かりません」
「何だと?」
「私、胸を張って言えるような趣味はまだないので……」
パトリーの顔色を窺う余裕など、欠片ほどもなくて。
部屋から飛び出し、廊下を駆ける。ここの廊下には、いつも、甘い香りが漂っている。が、それも感じ取れぬほどの勢いで、足を動かす。
途中、働いている女性ともすれ違ったが、お構いなしに走り続ける。
——そんな私だったが、何もないところで転倒してしまった。
「……いったぁ」
何もないところでつまづいて転ぶなんて、情けないとしか言い様がない。しかも、転んだ時に膝を打ってしまい、じんじん痛む。
痛みを感じているうちに段々冷静さが戻ってきて、今度は「やってしまった、どうしよう」という思いが芽生えてくる。
パトリーは悪気なんてなかっただろう。それどころか、むしろ、善意で蜘蛛の餌やりに参加させてくれたはずだ。なのに私は、彼の善意に感謝もせず、羽虫の嫌さだけで脱走してきてしまった。
あぁ、なんてことを。
私がかつて高校生だったという非現実的な話をした時、彼は、まず疑うのではなく、きちんと聞こうとしてくれた。寄り添おうとしてくれた。なのに私ときたら、羽虫くらいで逃げ出して。
私は最低だ——転倒した体勢のまま、そんなことを思っていた時。
背後から足音が聞こえてきた。
私は恐る恐る振り返る。
もしかしてそうではないだろうか、と思っていたのだが、その予想は当たっていて。
足音の主は、パトリーだった。
「リリエラ!」
パトリーは小走りでこちらへ向かってくる。しかし私は、何だか申し訳なくて、彼を直視できない。
「一体何事だ」
「……ごめんなさい」
彼は傍まで歩いてきて、しゃがみ込む。しかもそれだけでなく、床に座ったままの私の顔を覗き込んでくる。
「いや、謝られても困る」
「……いえ。勝手な行動をしてしまったのは私なので」
「不気味だから止めてくれ、と言っているんだ」
「え」
パトリーの口から出た意外な言葉に、私は思わず顔を上げてしまった。
だって、普通、こういう場面で「不気味だから」なんて言われると思わないじゃない?
「虫が嫌だったのか?」
「……はい」
言葉にならない気まずさに、私は彼と目を合わせられない。そのせいで、私は、床を見つめながら話すなどという失礼なことをしてしまった。
無礼なことをしてしまったことを後悔する。
だが、今さら後悔しても遅い。
この際もうどうなっても関係ない——諦めの境地にたどり着いた私は、本音を述べることにした。
「大嫌いというわけではないのですが……いざ触れそうになると怖くて」
するとパトリーはあっさり返してくる。
「それはすまなかった」
自身の趣味を否定するに近しいことを言われたというのに、パトリーは微塵も不快感を露わにしなかった。さすがは大人、といったところか。
そんなことを考えていると、パトリーは私へ手を差し出してきた。
「立てるか」
「……え?」
差し出されたのは、私のそれより一回り大きな手。
いかにも男というようにごつごつしてはいないものの、どことなくしっかりとした雰囲気をまとっている、片手だ。
「え? ではない。立つ手伝いをしようとしているんだ」
こうして誰かに手を差し伸べてもらうこと。
幼い頃は夢みたこともあった。
けれど、成長するにつれて、そんな夢は脳内から消えていった——微かな憧れだけを残しつつ。
でも、今、私は手を差し伸べてもらっている。にわかに信じ難いことだが、この目が彼の手のひらを捉えている以上、幻ではないはずだ。
私は恐る恐る、彼の手を握った。
「……こうですか?」
「そういうことだ」
直後、彼は私の体を一気に引き上げる。
座り込んでいたのが、一瞬にしてぶら下がっているような状態になってしまい、驚きを隠せない。
「え、えぇぇ……」
一瞬にして引き上げられるとは思わなかった。
いや、もちろん、彼のことだから奇妙な行動をするのも想像はできるわけだが。
しかし、相手が常識に囚われない自由な人物だと知っていても、想像できる範囲というのにも限界がある。
「では、次はリリエラが好きなことをすることにしよう」
ぶら下げられた状態の私に向かって、彼は淡々と述べる。
好きなことうんぬんより、まずはこの体勢をどうにかしてほしいところだが……。
あと数十秒このままだった時には離してほしいと頼もうと考えていたところ、彼は突然私の手を離した。
結果、私の体は垂直落下。
そんなに高いところからの落下ではないから怪我をするには至らなかったものの、着地の瞬間にバランスを崩してしまい、よろけてしまって。危うくそのまま転倒するところだった。
何とか転ばずに済んだのは、ある意味奇跡である。
「リリエラ、趣味はあるか」
いやいや。
動揺しないにもほどがある。
他人を持ち上げ、さらにそこから垂直落下させ。しかも、当人が転びかけていたというのに、この冷静さ。
マイペースもここまで来れば才能かもしれない。
「趣味、ですか?」
「そうだ。言え」
なぜ命令口調なのか。
「……正直、よく分かりません」
「何だと?」
「私、胸を張って言えるような趣味はまだないので……」
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