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十二話「私と彼を繋ぐ言葉」

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 雨降りの日の崖は、晴れの日の崖とは雰囲気がかなり違っている。
 幾つもの雨粒が降り注ぎ、服や肌を濡らす。海は荒れ、激しい波が白い飛沫を散らしている。

「こんなところへ連れてきて……何をするつもりなんだ?」
「貴方に諦めてもらうのです」

 自然の力強さを感じさせる荒々しい風雨の中、私は真実を告げた。

「そんな、なぜ……」
「貴方は私を無理矢理連れ出しましたね。ですから今度は、私が無理矢理する番です」

 海と空の重なる線を見つめ、私は叫ぶ。

「ジェネ!」

 そう、これは合言葉。
 彼と私を繋ぐ、二人だけのための。


 そして、世界はいつものように暗転する——そう思っていたのだが。


 次に目を開いた時、私はまだ嵐の崖にいた。

 しかし、目の前には確かに、ジェネの姿があった。

 嵐のような風に揺れる、絹のような白銀の髪。整った目鼻立ち。胸の奥で何かが燃えているかのような、紅の瞳。

 雨の中でも、その華麗さは変わらない。

 突然二人の間に現れたジェネを見て、カイは、驚きと戸惑いが混ざったような顔つきをしている。

 カイがそんな顔になるのも無理はない。
 切り立った崖に突然見知らぬ青年が現れたのだから、普通の人間なら驚かずにいられるわけがない。もし私がカイの立場であったなら、今の彼と同じような顔をしたことだろう。

「……呼んだ? マリエ」

 カイとの間に立っているジェネは、私を一瞥して、それからすぐに質問してきた。

「えぇ。カイが無理矢理連れ戻そうとするから……助けてほしいの」

 はっきりそう述べた。
 本人がいるところでこんなことを言うのは気が引けたが、身を護るためだから仕方がない。

「力を貸してもらえる?」
「うん。もちろんだよ、マリエ」

 私を横目で見ながら、ジェネは微かに口角を持ち上げる。
 そんな彼に向かって、みすぼらしい格好をしたカイは叫ぶ。

「何者だ、いきなり出てきて! マリエから離れろ!」

 カイは鬼のような形相で叫ぶ。
 だが、その程度で動揺するジェネではない。ジェネはカイに、ごみを見るような冷ややかな視線を向けるだけだ。

「……君は一体、何を勘違いしているのかな」
「何者だ! 名乗れ! 怪しいやつめ!」

 妙に荒々しい態度をとるカイに向かって、ジェネは冷ややかな言葉を放つ。

「僕はジェネ」

 ジェネはゆったりとした足取りで、一歩一歩、カイに歩み寄っていく。
 その様は、どことなく不気味である。

「君がカイだね」
「そうだ! だったら何だ!」
「……聞くには、マリエとの婚約を急に取り消ししたそうじゃないか」

 雨音に掻き消されてしまいそうなほど、静かな声。しかし、その声には、相手をどことなく威圧するような雰囲気がある。その雰囲気を感じ取ってか、カイは一歩二歩と後退りしていた。

「そんな卑怯な真似をしておいて、よく顔を晒せるね」
「なっ……何を言い出す! お前なんぞに何が分かるというんだ!」
「自分勝手な行動で他人を傷つけておいてさ」
「自分勝手……だと? ふざけるな! 俺は自分勝手なことはしていない……むしろ、被害者の一人だ!」

 攻撃的な言葉を放つカイだが、その表情は、まるで肉食動物に怯える草食動物のよう。

「被害者? ふぅん。婚約取り消しなんてしておいて、被害者ねぇ」

 ジェネは冷ややかに述べる。

「そうだ、被害者だ! 俺はあの女に騙され、結局家を追い出されてしまった。可哀想だろう⁉︎」

 可哀想だろう、か。
 確かに、可哀想と思えなくもない。

 だが、自ら大声でそんなことを言って、恥ずかしくはないのだろうか。

「分からないのかな? マリエが嫌がっていること」
「お前には関係ないだろう!」
「関係ないことはない。傷ついた人を放っておけるほど、心なくはないんだ」

 ジェネはいつになく低い声を発している。

「悪いけど、マリエの前から去ってもらえるかな」

 激しく降り続ける雨は、頭の天辺から足の先まで、私の全身を濡らしていく。

 日頃なら、濡れてしまった不快感で苛ついていたことだろう。しかし、今はそんなことはどうでもいいように感じる。雨に濡れることより、カイから逃れることの方に意識が向いているからかもしれない。

「ふざけるな! 勝手なことを言わないでくれ!」
「……まだ傷つけるつもり? そんなことは許さないよ!」

 カイとジェネは暫し言い合いを続けた。それはもはや、口喧嘩のようになっていて。もしかしたら永遠に続くのではないかと思ったほどの、言葉の応酬であった。

 そんな言葉の発し合いを先に終わらせたのはカイ。
 彼は視線をジェネから私へ移し、問ったのだ。

「マリエ! 君は俺よりこんなやつの意見に賛成するのか!?」

 何と愚かな問いだろうか。

 他の女のために私を切り捨てたカイと、身を投げようとしたところを助けてくれたジェネ。
 そのどちらにつくかなんて、誰の目にも明らかなのに。

「……します」

 雨粒が視界を白く曇らせる。
 それでも、私の心が揺らぐことはない。

「私はジェネにつきます! 貴方と親しくする気は、一切ありません!」

 こんなことを言ったら、カイを怒らせるかもしれない。けれど大丈夫。今はジェネがいてくれるから、何も怖くはない。私は何も恐れはしない。

「私の前から去って下さい!」

 するとカイは、ほんの一瞬だけ寂しげな目をした。だが、次の瞬間には、憎しみのこもったような目つきに変わっていて。

 その後、彼は低い声で「……分かった。もういい」とだけ言い残し、馬車の方へと去っていった。
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