119 / 209
118話「ウィクトルの自己満足」
しおりを挟む
これまで暮らしてきた国。これまで築いてきた地位。これまで出会った人。
それらは宝物だと、今でも思っている。
生まれ育った地球を離れ、遥か遠いこの星へ来て。それからの過ごしてきた日々は、本当に大切なもの。私の心の中で強く輝いている。
それでも、私はそれらを捨てた。
いつか後悔するだろうか、この道を選んだことを。
現時点ではまだそれは分からない。
後悔するかどうか——それは、選んだ道を歩き、いつか未来にたどり着いて、その時初めて分かることだ。
手にしたものをすべて手放し、殴り捨てて、私はウィクトルの手を取った。
その選択が最善の選択であったかどうかは、正直、今でもはっきりしない。が、私は既に道を選んだ身。たとえこの道が幸福に満ちた道でなかったとしても、引き返すことはできないのだから、前へ進み続けるしかないのだ。
だからこそ、私は振り返らない。
振り返っても過去へは戻れないのだ、ならば振り返らなければ良い。
どんな道へ行こうとも、何かしらの苦しみは存在するもの。そして、幸福もまた、選択にかかわらずどこかで出会う。
それが真実かは知らないけれど。
でも今は、それが真実であると信じて、前を向こう。
◆
「だいぶ歩いたな」
帝都から何とか抜け出した私とウィクトルは、今、山道を歩いている。
否、正確には道ではない。
森の中と表現する方が相応しいだろうか。とにかく緑が多い、人のいない場所を、私たちは移動している。
「……そろそろ日が暮れるわね」
堂々と並ぶ偉大な長老のような木々、その茂った葉の隙間から、ほんの少しだけ空が見える。既に陽は傾き、空は、昼間の翡翠のような色ではなくなりつつある。
「歩き疲れたか? ここならさすがにすぐは発見されないはずだ、一旦休憩しても良いが」
うっかり溜め息を漏らしてしまった私に、ウィクトルはそんな風に声をかけてくれる。
「……駄目よ。止まるわけには、いかないわ」
「そうか? だが、ウタくんは辛そうだ」
「正直疲れたわ。もう、何というか、いろんな意味で」
歩き疲れたのか、生き疲れたのか、何だかもうよく分からない。思考はとうに放棄したが、それでも心に光が戻ることはなかった。逃走を開始した直後は「帝都を出れば気分が変わるかも」と思っていたが、現実は厳しくて。いまだにちっとも明るい気分になってこない。
母の形見であるブローチを所持できていたことだけが、唯一の救いだ。
「そうだな。……すまない、君にこんな過酷な道を」
「坂道のこと? それなら平気よ」
「いや……そうでなく、皇帝の下から離れるという選択のことだ」
厳密な数字は不明だが、既に数時間歩き通しだ。なのに、ウィクトルの顔には疲労の色は浮かんでいない。むしろ、檻から解き放たれたような、開放感に満ちた顔を彼はしている。
「もはや、地位も何もありはしない。私たちは二人きり。そんな運命に君を巻き込んでしまったことを、今さらだが少々後悔している」
私たちに目指す場所なんてない。これからのことも、まだ、何一つ考えていない。今後の計画がないのだ、私たちには。
でも、胸の内に痛みを抱えながら殺し合うウィクトルを見るぐらいなら、歩いている方が良かった。
「また後悔しているのね」
「……情けない」
「いいえ。人生なんて後悔でできてる、って、誰かが言ってたわよ」
もっとも、私はそこまで定期的には後悔しない質なのだが。
「でも……ありがとう。私を殺さない道を選んでくれて」
いつか二人並んで歩きたいと思っていた。それはきっと帝国内のいざこざがすべて終わった後になるだろうと想像していたけれど。
その時は案外早く訪れた。
想像していた形とは少し違った形だったが、悪くはない。
「……実は、いつか君を殺すよう命じられる日が来るのではないかと、想像していた。それで、リベルテには伝えていたんだ。その命令には従わない、と」
ウィクトルの話を聞いて、リベルテの存在を思い出した。
彼はまだあそこにいるのだろうか……。だとしたら、彼はいまだに危険に晒されているのだろう。ウィクトルにも私にもいなくなられた彼は、どんな顔をしているだろう? 想像するだけでも申し訳ない気持ちになってくる。
「リベルテ……」
私は思わず呟いてしまった。
「ウタくん? どうした?」
「……ううん、何でもない。気にしないで」
「そうか。ならいいが」
会話はそこで途切れてしまった。
暗い森の中、静寂が二人を包む。
上手く話せない。あんなことがあった後だからか、二人きりになってしまったからか、そこは明らかではないけれど。
「……ねぇ、ウィクトル」
何とか会話を取り戻そうと、私は切り出してみる。
「怪我は大丈夫なの?」
「あぁ、問題ない」
「なら構わないけれど……その、無理はしないでちょうだいね」
瞼の傷はさほど深くはなかったようだ。既に血は止まっている。皮膚に血の痕がこびりつきはしているが、すぐに処置をせねば命に係わるというほどのことはなさそうだ。
「貴方がいなくなったら、私、一人になってしまうわ」
「案ずるな。そう易々とくたばるつもりはない」
言って、ウィクトルはぴたりと足を止めた。私は何事かと驚き怯みつつ、彼の真横で停止。直後、ウィクトルは両手を私の方へと差し出してきた。彼の行為の意図が掴めず戸惑っているうちに、抱え上げられ、背負われる体勢になってしまう。
「これは……その、一体?」
「歩き疲れただろうと思ってな。ここからはこれで行く」
ウィクトルの固い背中が体の前面に触れる。
不思議な感覚だ。
「わ、私は平気よ? こんな、その、背負ってもらわなくたって……」
「寝ていてくれて構わない」
「ちょっと、聞いてる?」
「もちろん君の話は聞いている。だがこれを止める気はない。これ以上君を歩かせたくないからな」
気遣いなのか、わがままなのか、よく分からない行動だ。だが、この程度なら敢えて拒否することもないだろう。こちらとしても、不快な行為をされているわけではないから、別段損はない。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
それらは宝物だと、今でも思っている。
生まれ育った地球を離れ、遥か遠いこの星へ来て。それからの過ごしてきた日々は、本当に大切なもの。私の心の中で強く輝いている。
それでも、私はそれらを捨てた。
いつか後悔するだろうか、この道を選んだことを。
現時点ではまだそれは分からない。
後悔するかどうか——それは、選んだ道を歩き、いつか未来にたどり着いて、その時初めて分かることだ。
手にしたものをすべて手放し、殴り捨てて、私はウィクトルの手を取った。
その選択が最善の選択であったかどうかは、正直、今でもはっきりしない。が、私は既に道を選んだ身。たとえこの道が幸福に満ちた道でなかったとしても、引き返すことはできないのだから、前へ進み続けるしかないのだ。
だからこそ、私は振り返らない。
振り返っても過去へは戻れないのだ、ならば振り返らなければ良い。
どんな道へ行こうとも、何かしらの苦しみは存在するもの。そして、幸福もまた、選択にかかわらずどこかで出会う。
それが真実かは知らないけれど。
でも今は、それが真実であると信じて、前を向こう。
◆
「だいぶ歩いたな」
帝都から何とか抜け出した私とウィクトルは、今、山道を歩いている。
否、正確には道ではない。
森の中と表現する方が相応しいだろうか。とにかく緑が多い、人のいない場所を、私たちは移動している。
「……そろそろ日が暮れるわね」
堂々と並ぶ偉大な長老のような木々、その茂った葉の隙間から、ほんの少しだけ空が見える。既に陽は傾き、空は、昼間の翡翠のような色ではなくなりつつある。
「歩き疲れたか? ここならさすがにすぐは発見されないはずだ、一旦休憩しても良いが」
うっかり溜め息を漏らしてしまった私に、ウィクトルはそんな風に声をかけてくれる。
「……駄目よ。止まるわけには、いかないわ」
「そうか? だが、ウタくんは辛そうだ」
「正直疲れたわ。もう、何というか、いろんな意味で」
歩き疲れたのか、生き疲れたのか、何だかもうよく分からない。思考はとうに放棄したが、それでも心に光が戻ることはなかった。逃走を開始した直後は「帝都を出れば気分が変わるかも」と思っていたが、現実は厳しくて。いまだにちっとも明るい気分になってこない。
母の形見であるブローチを所持できていたことだけが、唯一の救いだ。
「そうだな。……すまない、君にこんな過酷な道を」
「坂道のこと? それなら平気よ」
「いや……そうでなく、皇帝の下から離れるという選択のことだ」
厳密な数字は不明だが、既に数時間歩き通しだ。なのに、ウィクトルの顔には疲労の色は浮かんでいない。むしろ、檻から解き放たれたような、開放感に満ちた顔を彼はしている。
「もはや、地位も何もありはしない。私たちは二人きり。そんな運命に君を巻き込んでしまったことを、今さらだが少々後悔している」
私たちに目指す場所なんてない。これからのことも、まだ、何一つ考えていない。今後の計画がないのだ、私たちには。
でも、胸の内に痛みを抱えながら殺し合うウィクトルを見るぐらいなら、歩いている方が良かった。
「また後悔しているのね」
「……情けない」
「いいえ。人生なんて後悔でできてる、って、誰かが言ってたわよ」
もっとも、私はそこまで定期的には後悔しない質なのだが。
「でも……ありがとう。私を殺さない道を選んでくれて」
いつか二人並んで歩きたいと思っていた。それはきっと帝国内のいざこざがすべて終わった後になるだろうと想像していたけれど。
その時は案外早く訪れた。
想像していた形とは少し違った形だったが、悪くはない。
「……実は、いつか君を殺すよう命じられる日が来るのではないかと、想像していた。それで、リベルテには伝えていたんだ。その命令には従わない、と」
ウィクトルの話を聞いて、リベルテの存在を思い出した。
彼はまだあそこにいるのだろうか……。だとしたら、彼はいまだに危険に晒されているのだろう。ウィクトルにも私にもいなくなられた彼は、どんな顔をしているだろう? 想像するだけでも申し訳ない気持ちになってくる。
「リベルテ……」
私は思わず呟いてしまった。
「ウタくん? どうした?」
「……ううん、何でもない。気にしないで」
「そうか。ならいいが」
会話はそこで途切れてしまった。
暗い森の中、静寂が二人を包む。
上手く話せない。あんなことがあった後だからか、二人きりになってしまったからか、そこは明らかではないけれど。
「……ねぇ、ウィクトル」
何とか会話を取り戻そうと、私は切り出してみる。
「怪我は大丈夫なの?」
「あぁ、問題ない」
「なら構わないけれど……その、無理はしないでちょうだいね」
瞼の傷はさほど深くはなかったようだ。既に血は止まっている。皮膚に血の痕がこびりつきはしているが、すぐに処置をせねば命に係わるというほどのことはなさそうだ。
「貴方がいなくなったら、私、一人になってしまうわ」
「案ずるな。そう易々とくたばるつもりはない」
言って、ウィクトルはぴたりと足を止めた。私は何事かと驚き怯みつつ、彼の真横で停止。直後、ウィクトルは両手を私の方へと差し出してきた。彼の行為の意図が掴めず戸惑っているうちに、抱え上げられ、背負われる体勢になってしまう。
「これは……その、一体?」
「歩き疲れただろうと思ってな。ここからはこれで行く」
ウィクトルの固い背中が体の前面に触れる。
不思議な感覚だ。
「わ、私は平気よ? こんな、その、背負ってもらわなくたって……」
「寝ていてくれて構わない」
「ちょっと、聞いてる?」
「もちろん君の話は聞いている。だがこれを止める気はない。これ以上君を歩かせたくないからな」
気遣いなのか、わがままなのか、よく分からない行動だ。だが、この程度なら敢えて拒否することもないだろう。こちらとしても、不快な行為をされているわけではないから、別段損はない。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
そのご寵愛、理由が分かりません
秋月真鳥
恋愛
貧乏子爵家の長女、レイシーは刺繍で家計を支える庶民派令嬢。
幼いころから前世の夢を見ていて、その技術を活かして地道に慎ましく生きていくつもりだったのに——
「君との婚約はなかったことに」
卒業パーティーで、婚約者が突然の裏切り!
え? 政略結婚しなくていいの? ラッキー!
領地に帰ってスローライフしよう!
そう思っていたのに、皇帝陛下が現れて——
「婚約破棄されたのなら、わたしが求婚してもいいよね?」
……は???
お金持ちどころか、国ごと背負ってる人が、なんでわたくしに!?
刺繍を褒められ、皇宮に連れて行かれ、気づけば妃教育まで始まり——
気高く冷静な陛下が、なぜかわたくしにだけ甘い。
でもその瞳、どこか昔、夢で見た“あの少年”に似ていて……?
夢と現実が交差する、とんでもスピード婚約ラブストーリー!
理由は分からないけど——わたくし、寵愛されてます。
※毎朝6時、夕方18時更新!
※他のサイトにも掲載しています。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております
紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。
二年後にはリリスと交代しなければならない。
そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。
普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる