奇跡の歌姫

四季

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118話「ウィクトルの自己満足」

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 これまで暮らしてきた国。これまで築いてきた地位。これまで出会った人。
 それらは宝物だと、今でも思っている。

 生まれ育った地球を離れ、遥か遠いこの星へ来て。それからの過ごしてきた日々は、本当に大切なもの。私の心の中で強く輝いている。

 それでも、私はそれらを捨てた。

 いつか後悔するだろうか、この道を選んだことを。

 現時点ではまだそれは分からない。
 後悔するかどうか——それは、選んだ道を歩き、いつか未来にたどり着いて、その時初めて分かることだ。

 手にしたものをすべて手放し、殴り捨てて、私はウィクトルの手を取った。

 その選択が最善の選択であったかどうかは、正直、今でもはっきりしない。が、私は既に道を選んだ身。たとえこの道が幸福に満ちた道でなかったとしても、引き返すことはできないのだから、前へ進み続けるしかないのだ。

 だからこそ、私は振り返らない。

 振り返っても過去へは戻れないのだ、ならば振り返らなければ良い。

 どんな道へ行こうとも、何かしらの苦しみは存在するもの。そして、幸福もまた、選択にかかわらずどこかで出会う。

 それが真実かは知らないけれど。
 でも今は、それが真実であると信じて、前を向こう。


 ◆


「だいぶ歩いたな」

 帝都から何とか抜け出した私とウィクトルは、今、山道を歩いている。
 否、正確には道ではない。
 森の中と表現する方が相応しいだろうか。とにかく緑が多い、人のいない場所を、私たちは移動している。

「……そろそろ日が暮れるわね」

 堂々と並ぶ偉大な長老のような木々、その茂った葉の隙間から、ほんの少しだけ空が見える。既に陽は傾き、空は、昼間の翡翠のような色ではなくなりつつある。

「歩き疲れたか? ここならさすがにすぐは発見されないはずだ、一旦休憩しても良いが」

 うっかり溜め息を漏らしてしまった私に、ウィクトルはそんな風に声をかけてくれる。

「……駄目よ。止まるわけには、いかないわ」
「そうか? だが、ウタくんは辛そうだ」
「正直疲れたわ。もう、何というか、いろんな意味で」

 歩き疲れたのか、生き疲れたのか、何だかもうよく分からない。思考はとうに放棄したが、それでも心に光が戻ることはなかった。逃走を開始した直後は「帝都を出れば気分が変わるかも」と思っていたが、現実は厳しくて。いまだにちっとも明るい気分になってこない。

 母の形見であるブローチを所持できていたことだけが、唯一の救いだ。

「そうだな。……すまない、君にこんな過酷な道を」
「坂道のこと? それなら平気よ」
「いや……そうでなく、皇帝の下から離れるという選択のことだ」

 厳密な数字は不明だが、既に数時間歩き通しだ。なのに、ウィクトルの顔には疲労の色は浮かんでいない。むしろ、檻から解き放たれたような、開放感に満ちた顔を彼はしている。

「もはや、地位も何もありはしない。私たちは二人きり。そんな運命に君を巻き込んでしまったことを、今さらだが少々後悔している」

 私たちに目指す場所なんてない。これからのことも、まだ、何一つ考えていない。今後の計画がないのだ、私たちには。
 でも、胸の内に痛みを抱えながら殺し合うウィクトルを見るぐらいなら、歩いている方が良かった。

「また後悔しているのね」
「……情けない」
「いいえ。人生なんて後悔でできてる、って、誰かが言ってたわよ」

 もっとも、私はそこまで定期的には後悔しないたちなのだが。

「でも……ありがとう。私を殺さない道を選んでくれて」

 いつか二人並んで歩きたいと思っていた。それはきっと帝国内のいざこざがすべて終わった後になるだろうと想像していたけれど。

 その時は案外早く訪れた。
 想像していた形とは少し違った形だったが、悪くはない。

「……実は、いつか君を殺すよう命じられる日が来るのではないかと、想像していた。それで、リベルテには伝えていたんだ。その命令には従わない、と」

 ウィクトルの話を聞いて、リベルテの存在を思い出した。

 彼はまだあそこにいるのだろうか……。だとしたら、彼はいまだに危険に晒されているのだろう。ウィクトルにも私にもいなくなられた彼は、どんな顔をしているだろう? 想像するだけでも申し訳ない気持ちになってくる。

「リベルテ……」

 私は思わず呟いてしまった。

「ウタくん? どうした?」
「……ううん、何でもない。気にしないで」
「そうか。ならいいが」

 会話はそこで途切れてしまった。
 暗い森の中、静寂が二人を包む。
 上手く話せない。あんなことがあった後だからか、二人きりになってしまったからか、そこは明らかではないけれど。

「……ねぇ、ウィクトル」

 何とか会話を取り戻そうと、私は切り出してみる。

「怪我は大丈夫なの?」
「あぁ、問題ない」
「なら構わないけれど……その、無理はしないでちょうだいね」

 瞼の傷はさほど深くはなかったようだ。既に血は止まっている。皮膚に血の痕がこびりつきはしているが、すぐに処置をせねば命に係わるというほどのことはなさそうだ。

「貴方がいなくなったら、私、一人になってしまうわ」
「案ずるな。そう易々とくたばるつもりはない」

 言って、ウィクトルはぴたりと足を止めた。私は何事かと驚き怯みつつ、彼の真横で停止。直後、ウィクトルは両手を私の方へと差し出してきた。彼の行為の意図が掴めず戸惑っているうちに、抱え上げられ、背負われる体勢になってしまう。

「これは……その、一体?」
「歩き疲れただろうと思ってな。ここからはこれで行く」

 ウィクトルの固い背中が体の前面に触れる。
 不思議な感覚だ。

「わ、私は平気よ? こんな、その、背負ってもらわなくたって……」
「寝ていてくれて構わない」
「ちょっと、聞いてる?」
「もちろん君の話は聞いている。だがこれを止める気はない。これ以上君を歩かせたくないからな」

 気遣いなのか、わがままなのか、よく分からない行動だ。だが、この程度なら敢えて拒否することもないだろう。こちらとしても、不快な行為をされているわけではないから、別段損はない。

「……じゃあ、お言葉に甘えて」
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