141 / 209
140話「帝国の侵攻と憂鬱」
しおりを挟む
陰雨の中、私たち三人は日々を過ごした。
空がこの世のどうしようもなさを嘆いているかのように、しとしとと雨は降り続く。
滝のような雨ならばまだ潔い。けれども、地表を湿らせキノコを生やすようなこの雨は、屋内にいても肌がべたつく。お世辞にも快適とは言い難い。
雨は憂鬱だが、憂鬱になっている真の原因はそれではない。
キエル帝国軍が来る——暗い気分になる本当の理由は、そこなのだろう。
「ただいま戻りました」
「戻ったか、リベルテ。どうだ? 街の様子は」
「極力屋内に待機するよう指示が出ているようでございます」
リベルテは顔をなるべく隠すようにしながら、ファルシエラの都であるホーションの中央部へ行っていた。主な目的は食料や日用品の買い出しだが、実は様子を探る意味も兼ねている。狙われる対象になりやすいウィクトルが出るわけにはいかないし、私が行くのも心もとないから、いつもリベルテがその役目を担ってくれているのだ。
「他に変化は?」
「そうでございますね……少し寂れた雰囲気になっていた気は致します。ただ、それは、屋内待機命令が出ているからなのでございますが」
「なるほど、理解した」
キエル帝国軍はまだファルシエラへたどり着いていないのだろうか?
数日後、ついにその日はやって来た。
テレビを賑わしたのはキエル帝国軍の襲来。その指揮者は、まさに、ビタリーその人であった。
『皇帝自らが軍を率いている様子です。詳細は現在確認中。明らかになり次第、お伝えします』
今日は少し雨がましだ。ここ数日立ち込めていた濃い霧ようなものも、今日は薄い。しかしながら、降雨が収まったわけではない。霧吹きで放ったような線の細い雨は、今も地上に降り注いでいる。
「ウィクトル……これ、本当に大丈夫なのかしら」
「不安なのか? ウタくん」
「えぇ。だって……軍が攻めてくるのよ。これからこの国がどうなるか……」
ファルシエラももはや安全地帯とは言えない。
この国にも軍隊はあるのだろうが、どの程度の戦闘能力を有しているかは不明。だからこそ、不安がこの胸から完全に消滅することはない。
「もしもの時には私がいる。ウタくんが心配することはない。……とはいえ、胃は痛いがな」
「……ウィクトルも不安なんじゃない?」
「まさか。それはない。案ずるな、胃が痛いは冗談だ」
そんな小さな冗談を言い合って笑う。
今の私たちには、楽しみはそれしかない。
皇帝の支配下から抜け出しても、帝国を去っても、結局私たちは穏やかには過ごせない運命なのか。この世界は私たちの自由を許さないのか。
もしそうだとしたら、その訳は何なのだろう。
ウィクトルの罪? 私の頼りなさ?
何にせよ、この運命から逃れることはできそうにないことは一つの事実。
帝国の暗闇から解き放たれるために足りないものは何なのか?
それだけがいまだに疑問だ。
「とにかく、ウタくんは安心してくれていい。君のことは私が護る」
「……口説き文句みたい」
「まさか。嘘ではない、真実だ。君は私を救ってくれた。だからこそ、次は私が君を護る。それは今ここで誓おう」
昼過ぎ頃から外が騒がしくなってきた。
私たちが暮らす家はホーションの中央部から少し距離のあるところに位置しているから、幸い、騒ぎのただなかにいるということにはならずに済んでいる。
だが、この安全もいつまで続くかは分からない。
ホーションから家までの距離は何百キロもあるわけではないから、帝国軍がここへやって来るのも時間の問題。いずれはその時が来る。
もし帝国軍が攻めてきたらどうする? 家に立て籠もるか、出ていくか、どちらを選択するのが最良に近いのだろう。思いきって出ていき降伏する、という選択肢もあっただろう——ただし、それはあくまで、仲間内に元帝国軍人がいなければの話。……悩みは尽きない。
「リベルテ、外の様子は?」
「三十分ほど前に二階の窓から確認した際には、人の列のようなものができているのが見えました。肉眼で見える距離ではございませんでしたので、はっきりと報告を申し上げることはできませんが、キエル帝国軍はホーションにたどり着いているとの考え方が無難かと。しかし、主が恐れるほどのことではございません。どうかご安心下さい」
一言で尋ねられたリベルテは、非常に長い文章を一気に述べた。
聞き取りすら危うかったほどの長文であった。
「警戒しつつ隠れておこう」
「はい。承知しております、主」
リベルテは意外と平静を保っている。最初帝国軍の動きを知った時にはかなり狼狽していたが、今は別人のような落ち着きぶり。恐らくどこかで吹っ切れたのだろう。
「おい! ここは空き家か? 誰も住んでねぇのか?」
突如誰かが扉をノックしてきた。
いかにも怪しい、荒々しいノックだ。応対したい感じのノックではない。
「どう致しましょう? 主」
「確認するか」
「はい! では見て参りますね」
リベルテは、ててて、と玄関の方へと向かっていった。
私はウィクトルに「また山賊かしら」と尋ねてみる。するとウィクトルは小さな溜め息を漏らしつつ「軍の者か、賊か……」とぼやいた。室内に漂うのは重苦しい空気。この天気で、この状況では、どう頑張っても明るい雰囲気にはなれない。
数分後、何かが倒れるような音が響いた。
謎の声が飛ぶ。
即座に反応したのはウィクトル。彼は音の異常さに気がついたらしく、すぐに立ち上がった。部屋の入り口に向けて進んでいく。ぼんやりしていて良い状況ではないのだ、と、察した。ウィクトルが歩いていくその後を、私はこっそりついていく。
「お前、確か! 帝国軍に入ってたやつだろ!」
「さぁ……。な、何の話やら……」
「怪しいぞ! 帝国軍の黒い男を知っているんじゃないのか!」
「黒い? 何でしょう、それは……?」
ウィクトルはぎりぎり廊下に出ない辺りで立ち止まり、耳だけで廊下の様子を確認している。今出ていくべきではないと判断したのだろう。
とはいえ、いつまでもこうしているわけにはいかないはず。
万が一リベルテが乱暴なことをされるようなことになったら、出ていかざるを得ない。
どこまで出ていかずに耐えるか。どこで出ていくか。その辺りの加減が難しい。ウィクトルの判断任せなので私が考える必要はないのだろうが、気にせずにはいられない。
空がこの世のどうしようもなさを嘆いているかのように、しとしとと雨は降り続く。
滝のような雨ならばまだ潔い。けれども、地表を湿らせキノコを生やすようなこの雨は、屋内にいても肌がべたつく。お世辞にも快適とは言い難い。
雨は憂鬱だが、憂鬱になっている真の原因はそれではない。
キエル帝国軍が来る——暗い気分になる本当の理由は、そこなのだろう。
「ただいま戻りました」
「戻ったか、リベルテ。どうだ? 街の様子は」
「極力屋内に待機するよう指示が出ているようでございます」
リベルテは顔をなるべく隠すようにしながら、ファルシエラの都であるホーションの中央部へ行っていた。主な目的は食料や日用品の買い出しだが、実は様子を探る意味も兼ねている。狙われる対象になりやすいウィクトルが出るわけにはいかないし、私が行くのも心もとないから、いつもリベルテがその役目を担ってくれているのだ。
「他に変化は?」
「そうでございますね……少し寂れた雰囲気になっていた気は致します。ただ、それは、屋内待機命令が出ているからなのでございますが」
「なるほど、理解した」
キエル帝国軍はまだファルシエラへたどり着いていないのだろうか?
数日後、ついにその日はやって来た。
テレビを賑わしたのはキエル帝国軍の襲来。その指揮者は、まさに、ビタリーその人であった。
『皇帝自らが軍を率いている様子です。詳細は現在確認中。明らかになり次第、お伝えします』
今日は少し雨がましだ。ここ数日立ち込めていた濃い霧ようなものも、今日は薄い。しかしながら、降雨が収まったわけではない。霧吹きで放ったような線の細い雨は、今も地上に降り注いでいる。
「ウィクトル……これ、本当に大丈夫なのかしら」
「不安なのか? ウタくん」
「えぇ。だって……軍が攻めてくるのよ。これからこの国がどうなるか……」
ファルシエラももはや安全地帯とは言えない。
この国にも軍隊はあるのだろうが、どの程度の戦闘能力を有しているかは不明。だからこそ、不安がこの胸から完全に消滅することはない。
「もしもの時には私がいる。ウタくんが心配することはない。……とはいえ、胃は痛いがな」
「……ウィクトルも不安なんじゃない?」
「まさか。それはない。案ずるな、胃が痛いは冗談だ」
そんな小さな冗談を言い合って笑う。
今の私たちには、楽しみはそれしかない。
皇帝の支配下から抜け出しても、帝国を去っても、結局私たちは穏やかには過ごせない運命なのか。この世界は私たちの自由を許さないのか。
もしそうだとしたら、その訳は何なのだろう。
ウィクトルの罪? 私の頼りなさ?
何にせよ、この運命から逃れることはできそうにないことは一つの事実。
帝国の暗闇から解き放たれるために足りないものは何なのか?
それだけがいまだに疑問だ。
「とにかく、ウタくんは安心してくれていい。君のことは私が護る」
「……口説き文句みたい」
「まさか。嘘ではない、真実だ。君は私を救ってくれた。だからこそ、次は私が君を護る。それは今ここで誓おう」
昼過ぎ頃から外が騒がしくなってきた。
私たちが暮らす家はホーションの中央部から少し距離のあるところに位置しているから、幸い、騒ぎのただなかにいるということにはならずに済んでいる。
だが、この安全もいつまで続くかは分からない。
ホーションから家までの距離は何百キロもあるわけではないから、帝国軍がここへやって来るのも時間の問題。いずれはその時が来る。
もし帝国軍が攻めてきたらどうする? 家に立て籠もるか、出ていくか、どちらを選択するのが最良に近いのだろう。思いきって出ていき降伏する、という選択肢もあっただろう——ただし、それはあくまで、仲間内に元帝国軍人がいなければの話。……悩みは尽きない。
「リベルテ、外の様子は?」
「三十分ほど前に二階の窓から確認した際には、人の列のようなものができているのが見えました。肉眼で見える距離ではございませんでしたので、はっきりと報告を申し上げることはできませんが、キエル帝国軍はホーションにたどり着いているとの考え方が無難かと。しかし、主が恐れるほどのことではございません。どうかご安心下さい」
一言で尋ねられたリベルテは、非常に長い文章を一気に述べた。
聞き取りすら危うかったほどの長文であった。
「警戒しつつ隠れておこう」
「はい。承知しております、主」
リベルテは意外と平静を保っている。最初帝国軍の動きを知った時にはかなり狼狽していたが、今は別人のような落ち着きぶり。恐らくどこかで吹っ切れたのだろう。
「おい! ここは空き家か? 誰も住んでねぇのか?」
突如誰かが扉をノックしてきた。
いかにも怪しい、荒々しいノックだ。応対したい感じのノックではない。
「どう致しましょう? 主」
「確認するか」
「はい! では見て参りますね」
リベルテは、ててて、と玄関の方へと向かっていった。
私はウィクトルに「また山賊かしら」と尋ねてみる。するとウィクトルは小さな溜め息を漏らしつつ「軍の者か、賊か……」とぼやいた。室内に漂うのは重苦しい空気。この天気で、この状況では、どう頑張っても明るい雰囲気にはなれない。
数分後、何かが倒れるような音が響いた。
謎の声が飛ぶ。
即座に反応したのはウィクトル。彼は音の異常さに気がついたらしく、すぐに立ち上がった。部屋の入り口に向けて進んでいく。ぼんやりしていて良い状況ではないのだ、と、察した。ウィクトルが歩いていくその後を、私はこっそりついていく。
「お前、確か! 帝国軍に入ってたやつだろ!」
「さぁ……。な、何の話やら……」
「怪しいぞ! 帝国軍の黒い男を知っているんじゃないのか!」
「黒い? 何でしょう、それは……?」
ウィクトルはぎりぎり廊下に出ない辺りで立ち止まり、耳だけで廊下の様子を確認している。今出ていくべきではないと判断したのだろう。
とはいえ、いつまでもこうしているわけにはいかないはず。
万が一リベルテが乱暴なことをされるようなことになったら、出ていかざるを得ない。
どこまで出ていかずに耐えるか。どこで出ていくか。その辺りの加減が難しい。ウィクトルの判断任せなので私が考える必要はないのだろうが、気にせずにはいられない。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
そのご寵愛、理由が分かりません
秋月真鳥
恋愛
貧乏子爵家の長女、レイシーは刺繍で家計を支える庶民派令嬢。
幼いころから前世の夢を見ていて、その技術を活かして地道に慎ましく生きていくつもりだったのに——
「君との婚約はなかったことに」
卒業パーティーで、婚約者が突然の裏切り!
え? 政略結婚しなくていいの? ラッキー!
領地に帰ってスローライフしよう!
そう思っていたのに、皇帝陛下が現れて——
「婚約破棄されたのなら、わたしが求婚してもいいよね?」
……は???
お金持ちどころか、国ごと背負ってる人が、なんでわたくしに!?
刺繍を褒められ、皇宮に連れて行かれ、気づけば妃教育まで始まり——
気高く冷静な陛下が、なぜかわたくしにだけ甘い。
でもその瞳、どこか昔、夢で見た“あの少年”に似ていて……?
夢と現実が交差する、とんでもスピード婚約ラブストーリー!
理由は分からないけど——わたくし、寵愛されてます。
※毎朝6時、夕方18時更新!
※他のサイトにも掲載しています。
【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております
紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。
二年後にはリリスと交代しなければならない。
そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。
普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる