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196話「開花の暁」
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開演まで、あと五分。
もうじき幕は上がる。
前回までより少しだけ汚れの模様が増えた最初のワンピースを身にまとい、ほんの少しだけ明かりのある舞台袖で待機する。
これまでの公演よりずっと広い劇場で始まる物語。果たして上手くいくのかどうか、今はまだ分からない。
始まりの地で花を咲かせられるのか、という、奇妙な疑問が脳内を満たす。が、それでも、私はただ前へ進むのみ。結局人にはそれしかできないのだろう。
開演まで、あと四分。
周囲にはあまり面識のないスタッフ数名のみ。ミソカニもフリュイも、既にそれぞれの持ち場につき、近くにはいない。
開演まで、あと三分。
スタッフ同士が「客席が埋まっている」といった内容を小声で話しているのを耳にした。
ここの劇場の席数はファルシエラにいくつもある劇場のそれよりずっと多いけれど、空いているということはないらしい。
開演まで、あと二分。
芸術とは、平和の上に成り立つもの。それゆえ、平和な国ではないキエル帝国で成功させるにはかなりの努力が必要になる。いつの日か、ミソカニがそんなことを言っていたことを、今でも覚えている。
ところで、ウィクトルは来たのだろうか?
結局彼が来たかどうかは分からないままだ。けれども、公演が始まれば、きっと分かる。彼らは、下手側の前の方の席を取っていたはずだから。
開演まで、あと一分。
もうすぐ幕が上がることを告げるブザー音が響き渡るのが、こちらにまで聞こえてくる。
「ウタさん。もうすぐです」
「あ、はい。ありがとうございます」
舞台に出る直前、私は近くにいたスタッフと一言だけ話した。
客席から聞こえてきていたざわめきが消える。舞台上は暗い。きっと客席も暗くなっているのだろう。開始の合図と共に、私は舞台へ歩き出す。闇の中へ、吸い込まれるかのように。
『村を悲劇が襲った。それがその娘の絶望の記憶だった』
フリュイの朗読が静かに響く中、私はひたひたと歩く。
舞台袖を旅立ってすぐ眼球だけで確認したが、ウィクトルたちは来ていないようだ。下手側の前の方に、仲良く二つ並んだ空席があった。
『その悲劇は多くの者の生命を奪った。娘の肉親も、紅に焼かれる』
暗闇の中、炎を思わせるような赤い光だけが揺らめく。
こんな感じで問題ないのだろうか?
ウィクトルはいつ来るのだろう?
そんな疑問たちも、舞台上ではすべて消え去る。
『何もない。すべてが闇に消える。——だが娘は、世に未練はなかった』
そう、私も未練なんてなかった。彼女と同じで。灰になることも、水になることも、あの頃の私にとってはたいしたことではなかった。けれど今は、この命を躊躇いなく投げ捨てることはできないだろう。抱いていたいもの、触れていたいもの、そういうものが増え過ぎたから。
『もはや彼女に考える力は残されていない……』
冒頭部分がもうすぐ終わるという、その時。
私は暗い客席に確かに見た——ウィクトルの姿を。
「え……」
一階後方の扉が僅かに開いて、隙間から、案内係の女性と共に彼が顔を覗かせたのだ。
しかも、偶然か必然か、視線が重なった。遠く離れているにもかかわらず。
絶望の中での出会い。出会いから開く才能の花。才能に導かれ道を歩く。
そして、物語が終わりに近づくにつれ、彼女の中の絶望は希望へと変貌する。
「響く歌、遠くから聴こえてくる、希望の声」
彼女は立つ。舞台に、人々の前に。美しいドレスをまといながら。そして、母譲りの歌声で、見るものたちを魅了するのだ。
「移ろう季節には、今の私、とどまらず」
思えば、最初は歌うことだけでも緊張していた。母が歌っていることにしよう、なんて考えて、自分を自分でないと考えることで緊張を緩和させようとしていた。
でも、今はもう怖くない。
私は私として歌える。
「流れる川のせせらぎが、穢れ落としてゆくでしょう」
本当なら、この晴れ舞台を母にも見せたかった。
ここまでたどり着いたことを、誇ってほしかった。
「ゆらり、ゆれる、水面映し出した、夢の歌」
でもそれはできない。
叶わない夢。
けれど、今はそれでもいい。
「響く歌、遠くから聴こえてくる、希望の声」
歌を聴いてほしい人がいる。
歌を求めてくれる人がいる。
その二つがあれば、私は歌い続けられる。
「終わりなき物語の果て、幸せな明日が待ってなくても……」
公演の最後の歌は、歌うたび、訳もなく切なくなる。それは今までもそうだった。緊張して、早く終わってほしいと思っていた時ですら、もうすぐ幕が降りると思うと複雑な心境になってしまっていた。そして、緊張の度合いが多少控えめになった今でも、その切なさは変わらない。
「歩いてきた旅路、君はいつか振り返り——出会ったすべての人たちに、『ありがとう』言えるでしょう」
母もいつか、この歌を、こんな風に歌ったのだろうか。
そんなことをたまに考えたりする。
「いつか、またね、手を振ろう過ぎゆく昨日には」
ドレスについた飾りが光を受けて煌めく。夜空の星のように。
「日向へと伸ばす手に、触れるものが涙でも」
腕の動き。脚の動き。つま先の向き。すべてが流れのままに行く。
「永遠に寄り添い生きてゆくわ、闇へと続く道と知っていても——」
踊りなんて得意ではなかったけれど、今は、軽くなら舞える。
大空を見据え飛び立つ鳥のように。大海を泳ぎ回る魚のように。舞台上では私は自由。
「遥か未来、生まれ落ちた、誰かが未来作るの」
この歌の間、朗読はない。台本に文章がないからである。ただ、フリュイの役目が終わったというわけではない。この歌の後、まだ少しだけ述べる文章がある。フリュイからすれば、この一曲の間というのは、何とも言えない時間だろう。
「今私が、見てる世界、明日へ続くわ」
私がフリュイだったら、歌を聴いている間の時間が微妙に辛いかもしれない。
「夢のまた夢、どこか遠い場所で、鳴る鐘は……未来の始まりを告げるもの、水面に映った新たな世界」
そしてラストの一行へと向かう。
「響く歌、遠くから聴こえてくる、幸せが」
もうじき幕は上がる。
前回までより少しだけ汚れの模様が増えた最初のワンピースを身にまとい、ほんの少しだけ明かりのある舞台袖で待機する。
これまでの公演よりずっと広い劇場で始まる物語。果たして上手くいくのかどうか、今はまだ分からない。
始まりの地で花を咲かせられるのか、という、奇妙な疑問が脳内を満たす。が、それでも、私はただ前へ進むのみ。結局人にはそれしかできないのだろう。
開演まで、あと四分。
周囲にはあまり面識のないスタッフ数名のみ。ミソカニもフリュイも、既にそれぞれの持ち場につき、近くにはいない。
開演まで、あと三分。
スタッフ同士が「客席が埋まっている」といった内容を小声で話しているのを耳にした。
ここの劇場の席数はファルシエラにいくつもある劇場のそれよりずっと多いけれど、空いているということはないらしい。
開演まで、あと二分。
芸術とは、平和の上に成り立つもの。それゆえ、平和な国ではないキエル帝国で成功させるにはかなりの努力が必要になる。いつの日か、ミソカニがそんなことを言っていたことを、今でも覚えている。
ところで、ウィクトルは来たのだろうか?
結局彼が来たかどうかは分からないままだ。けれども、公演が始まれば、きっと分かる。彼らは、下手側の前の方の席を取っていたはずだから。
開演まで、あと一分。
もうすぐ幕が上がることを告げるブザー音が響き渡るのが、こちらにまで聞こえてくる。
「ウタさん。もうすぐです」
「あ、はい。ありがとうございます」
舞台に出る直前、私は近くにいたスタッフと一言だけ話した。
客席から聞こえてきていたざわめきが消える。舞台上は暗い。きっと客席も暗くなっているのだろう。開始の合図と共に、私は舞台へ歩き出す。闇の中へ、吸い込まれるかのように。
『村を悲劇が襲った。それがその娘の絶望の記憶だった』
フリュイの朗読が静かに響く中、私はひたひたと歩く。
舞台袖を旅立ってすぐ眼球だけで確認したが、ウィクトルたちは来ていないようだ。下手側の前の方に、仲良く二つ並んだ空席があった。
『その悲劇は多くの者の生命を奪った。娘の肉親も、紅に焼かれる』
暗闇の中、炎を思わせるような赤い光だけが揺らめく。
こんな感じで問題ないのだろうか?
ウィクトルはいつ来るのだろう?
そんな疑問たちも、舞台上ではすべて消え去る。
『何もない。すべてが闇に消える。——だが娘は、世に未練はなかった』
そう、私も未練なんてなかった。彼女と同じで。灰になることも、水になることも、あの頃の私にとってはたいしたことではなかった。けれど今は、この命を躊躇いなく投げ捨てることはできないだろう。抱いていたいもの、触れていたいもの、そういうものが増え過ぎたから。
『もはや彼女に考える力は残されていない……』
冒頭部分がもうすぐ終わるという、その時。
私は暗い客席に確かに見た——ウィクトルの姿を。
「え……」
一階後方の扉が僅かに開いて、隙間から、案内係の女性と共に彼が顔を覗かせたのだ。
しかも、偶然か必然か、視線が重なった。遠く離れているにもかかわらず。
絶望の中での出会い。出会いから開く才能の花。才能に導かれ道を歩く。
そして、物語が終わりに近づくにつれ、彼女の中の絶望は希望へと変貌する。
「響く歌、遠くから聴こえてくる、希望の声」
彼女は立つ。舞台に、人々の前に。美しいドレスをまといながら。そして、母譲りの歌声で、見るものたちを魅了するのだ。
「移ろう季節には、今の私、とどまらず」
思えば、最初は歌うことだけでも緊張していた。母が歌っていることにしよう、なんて考えて、自分を自分でないと考えることで緊張を緩和させようとしていた。
でも、今はもう怖くない。
私は私として歌える。
「流れる川のせせらぎが、穢れ落としてゆくでしょう」
本当なら、この晴れ舞台を母にも見せたかった。
ここまでたどり着いたことを、誇ってほしかった。
「ゆらり、ゆれる、水面映し出した、夢の歌」
でもそれはできない。
叶わない夢。
けれど、今はそれでもいい。
「響く歌、遠くから聴こえてくる、希望の声」
歌を聴いてほしい人がいる。
歌を求めてくれる人がいる。
その二つがあれば、私は歌い続けられる。
「終わりなき物語の果て、幸せな明日が待ってなくても……」
公演の最後の歌は、歌うたび、訳もなく切なくなる。それは今までもそうだった。緊張して、早く終わってほしいと思っていた時ですら、もうすぐ幕が降りると思うと複雑な心境になってしまっていた。そして、緊張の度合いが多少控えめになった今でも、その切なさは変わらない。
「歩いてきた旅路、君はいつか振り返り——出会ったすべての人たちに、『ありがとう』言えるでしょう」
母もいつか、この歌を、こんな風に歌ったのだろうか。
そんなことをたまに考えたりする。
「いつか、またね、手を振ろう過ぎゆく昨日には」
ドレスについた飾りが光を受けて煌めく。夜空の星のように。
「日向へと伸ばす手に、触れるものが涙でも」
腕の動き。脚の動き。つま先の向き。すべてが流れのままに行く。
「永遠に寄り添い生きてゆくわ、闇へと続く道と知っていても——」
踊りなんて得意ではなかったけれど、今は、軽くなら舞える。
大空を見据え飛び立つ鳥のように。大海を泳ぎ回る魚のように。舞台上では私は自由。
「遥か未来、生まれ落ちた、誰かが未来作るの」
この歌の間、朗読はない。台本に文章がないからである。ただ、フリュイの役目が終わったというわけではない。この歌の後、まだ少しだけ述べる文章がある。フリュイからすれば、この一曲の間というのは、何とも言えない時間だろう。
「今私が、見てる世界、明日へ続くわ」
私がフリュイだったら、歌を聴いている間の時間が微妙に辛いかもしれない。
「夢のまた夢、どこか遠い場所で、鳴る鐘は……未来の始まりを告げるもの、水面に映った新たな世界」
そしてラストの一行へと向かう。
「響く歌、遠くから聴こえてくる、幸せが」
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